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7月29日 ―7―

「おう、こっちだ。二人とも」

 譲司さんが迎えに来てくれたので、そのまま案内してもらう。

「本当にアンプとマイクしか持って来なかったのか」

「譲司さん、いいって言ったよねー。大丈夫、問題ないよー」

 俺の前を二人が歩く。マイクもアンプも俺が抱えていた。不意打ちで突然始まったジャンケンに負けたせいだ。

 でも、せめて……、せめてマイクだけは持ってくれても良かったんじゃないかな、佐橋さん。

「太郎君。朝からずっと僕のことを睨んでるけど、落ち着かないから止めてくれないかなー」

 俺の熱い視線を受けて居心地悪そうに、佐橋さんが抗議してくる。

「ずっとではないです! それに、今のと朝のとでは原因が違います」

「いやー。さっきのは厳正な勝負の結果だよ。あそこが戦場だったら、油断した太郎君は、命を落としていたかもしれない。荷物持ち程度で良かったねー」

「残念ながらここは戦場じゃないんですよ、佐橋さん。卑怯者」

「僕はチャンスを逃さなかっただけだよ、それを卑怯者なんて酷いなー」

「お前ら、麗華と彩みたいだな。片方、華が無いが」

 譲司さん、間違いではないのだけど――自分の妻と娘をつかまえて華があるとか言っちゃうのはどうかと思う。……間違いではないのだけど――俺にだけ華が無い事まで。

「太郎君、落ち込んでないでそれ頂戴。セットしてくるから。そこで待ってなよー。僕らの控え室みたいなものだから。いつもその部屋なんだよねー」

 言われて、機械的な動作で荷物を佐橋さんに押し付ける。譲司さんは、佐橋さんの言う部屋に入って行った。

「あの、俺も佐橋さんに付いて行っていいですか?」

「いいけど、どうしてだい?」

「どんな所で歌うのか、見ておきたいので」

「そうかい。じゃあ荷物貰わなければよかったな」

「いいから、早く行きましょう」

 もう何を言っても不毛なことが明白なので、相手にすることは止めた。さっさと歩き始める。

「つれないねー。どこに行くのかわかってるのかい?」

 思わずピタッと動きが止まる。はい、知りません。

「まあ、そっちで合ってるんだけどねー」

 整った顔に笑顔を張り付け、ケラケラと笑いながら俺の横を佐橋さんが通り過ぎて行った。すぐに追いかける。

「佐橋さん。俺をおちょくって楽しいですか?」

「うん。凄くねー」

 ちくしょう! いつか目に物見せてやる。

 俺は相手にするのを止めたばかりだったことを思い出して、不機嫌をアピールしながら佐橋さんに付いて行った。

 佐橋さんに続いて白を基調とした大きな部屋に入る。五、六十人位は軽く入りそうだ。着いた時から思っていたが随分大きな建物だった。外観もマンションかホテルかみたいで、介護施設と聞いて勝手に小ぢんまりとした建物を想像していたが全然違った。

 これだけ広い部屋なら、確かにマイクが無いとどんなに声を出しても全員には届かないかもしれない。

「普段はここで生活している人が、集まってお喋りしたりしてのんびりと過ごす部屋だよ。テーブルとかもかなり並んでるから、今太郎君が見てる範囲に人がぎっしりってことは勿論ないよね」

 なるほど。普段はもっと物があるからここまで広くは感じないのだろう。今は適度に間隔は開けられてるけど、椅子が大量に並べられてる。

「でも、どうしてこんなに椅子が?」

「そりゃ集まるからだよねー。ここで生活している人だけじゃなくて、外からも来れる様になってるし。介護士さんも暇があれば見に来るし」

「そうなんですか」

「ここは人で一杯になると思ってた方がいいよ。アリアちゃんは、それだけ人を集めるようになったってことだねー」

 この部屋が満杯になるほどの人が来るのか……。アリアちゃんはこれだけの人を集めてきた。そのアリアちゃんの舞台に、どこの誰かもわからないような俺が立つ。やばいな、また家に一人で居た時の感じが帰って来た。

「太郎君は難しく考えないで、いつものカラオケのつもりで歌えばいいんだよ、っと」

 佐橋さんが気軽に言いながらアンプを下ろす。俺が緊張してきているのを見抜いての発言だろう。

 やらなきゃいけないし、やるしかない。だから緊張なんか要らない訳だが、そんな簡単にいつも通りに出来たら苦労しないんですよ、佐橋さん。俺はこんな数の人前で何かをしたことなんてない。

 佐橋さんはそんなことを考えている俺を気にした風もなく、マイクのテストをしていた。

「よし、おっけーかな。じゃあ、戻ろうか」

「……はい」

 一応、この部屋は見ておいて良かったと思う。今、凄く落ち着かないが。

 知らずに前に立った時にあの部屋に人が一杯な様が目に入ってきたら、歌うどころじゃなかっただろう。想像しただけで胸のあたりが締め付けられる様に痛む。

 佐橋さんと控え室に戻ると、譲司さんが電話をしていた。俺は壁際にあるソファに腰掛ける。佐橋さんは部屋の中央にあるテーブルの席についた。譲司さんが電話を終える。

「お仕事かなー、譲司さん?」

「いや、麗華からだった。アリアが起きてな、はっきりと受け答え出来る様になってたって報告だったよ。わざわざ連絡寄こさなくてもいいのにな」

「そんなこと言ってー、気が気じゃなかったんでしょー」

「そんなことはない。出る前にも様子を確認したし、熱もあるとはいえ、よくある風邪程度のものだったしな」

「でも、連絡貰ってさらに安心は出来た訳だよねー」

「いや、まあ、熱も少し下がったと言われたが。だがな、今言った通りよくある風邪だ。そこまで心配する程のことじゃない」

「本音はー?」

「ぃよかったあぁぁぁぁ。俺の可愛いアリア、早く元気になっておくれえぇぇぇ」

「そこまでの返事は期待してなかったよー、譲司さん。それとアリアちゃんはあなたのじゃないのでー」

「……、まあ、冗談は置いておくとしよう」

「え? 冗談?」

「冗談だよ。それより太郎、大丈夫か? さっきから黙ったままだが」

 これは、上手くない。本当に上手くない。二人の声はさっきから聞こえているが、内容が全然入ってこない。何を話していたのだろうか? というか、今も何の話をしているのだろう? さっきの部屋を出た時からじわじわと緊張の波が押し寄せてきている。ソファに座るまではまだマシだったが、人心地着いてからは一気にきた。ピークなんか存在しない。既に一杯一杯だと感じているにも関わらず、まだまだ上があるのがわかる。冗談抜きに心臓が痛い。

「おーい、太郎君?」

 まだ譲司さんと佐橋さんは話をしているみたいだ。俺も話しに混ざろうか。そうすれば少しは気が紛れるかもしれない。

「っ、」

 だが上手く声が出せない。不味い。そんなことはわかってる。麗華さんと彩さんが頑張れって言ってくれたのに。佐橋さんが譲司さんを説得してくれたのに。譲司さんが俺に任せてくれたのに。アリアちゃんのためにも失敗出来ないのに。

「さてー、ちょっと様子を見ようか、譲司さん。まだ三十分あるから」

「そうだな。太郎、十五分前に戻ってくるから。それまでに落ち着いたら一度外の空気を吸いに来い。俺たちはエントランスの所にいるから」

 どうしたらいい? 声が出ない。あれだけやれるって言っておいて、こんな結末なんて。どうやってアリアちゃんに謝ればいい? してもらった以上に返すって言っておきながら、こんなことになって。得られる結果が大きくなるようにって大言吐いて、でも結末は最悪で。結局、俺はまた何も出来やしない。俺にだって、出来ることがあるって、でもそんなことはなくて、どうす……。

 そこで思考が止まる。いや、止められた。

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