7月29日 ―1―
朝、窓から射し込む日光を浴びて目が覚める。
麗華さんのお店の側の窓が東窓になっており、朝はベッドにちょうど日が射す。日光に体を温められるので目覚めはいい。だが暑い。夏には不便だった。
昨日はそのまま寝てしまったので、今、シャワーを浴びる。シャワーを浴びた後は部屋着に着替えて、いつも通りに換気をする。公演に行く時にはもう一度着替える予定だ。朝食を準備する間とかは、緩い格好でいたい。
換気をするために窓を開けた時に、気になって時刻を確認した。
七時半……。
もしやと思い、通りに目を向けると昨日と同じように、エプロンを付けた麗華さんがお店の看板を出していた。本当に毎朝この時間に準備してるんだな。まあ、今日はご飯はお世話にならないと決めているので挨拶だけにしておこう。
なんとなく予感があったので、麗華さんが看板を出し終わるのを待っている。案の定、看板を出し終えた麗華さんがこちらを見た。こちらに気付いた麗華さんが、昨日と同じように、ブンブンと大きく手を振っている。昨日、彩さんに怒られたからか、大声は出さないでいてくれた。
あれを俺がやるのは恥ずかしい――というか痛いので、軽く手を振りかえす。あれは、麗華さんとかアリアちゃんがやるからいいんだと思う。あそこで手を振っているのが親父だったら、殺意しか湧いてこない。
さて、挨拶もすませたし朝飯の準備を始めようか。
だが、さっきから俺の視界の中で麗華さんが手を振るのを止めてずっと手招きしている。何かあるのだろうか? いや、きっと朝食のことだろう。今日は世話にならないと決めているので、首を横に振って意思表示をする。
それを見た麗華さんは――看板の脇に座りこんで、地面に『の』の字を書き始めた。
あれ? もしかして?
麗華さんがジメジメし始めてしまった。
まずい、確かああなると臨時休業が決定するって彩さんが言っていた。
もはや俺に出来ることは一つしか残されていなかった。麗華さんがご近所の方に変人認定される前に、あの奇行を止めなければ。
それにしても、実際にあんなことする人、初めて見たよ。
家を出てすぐに麗華さんの元へ駆けつける。
そこには、先程のまま麗華さんがしゃがみ込んでいた。麗華さんの周りだけ、やけに暗い紫色が滲んで見えるのは錯覚だろうか? 麗華さんの周りから世界が腐食していっている様にも見える。
麗華さん本人は小さな声でブツブツと呟いていた。
「あらー、アリさーん、そこ私も入っていいかしらー。え? 横入りはダメ? でも最後尾なんて見えないじゃなーい、ふ、うふふふふ」
怖い……。決意を固めて麗華さんに呼び掛ける。
「麗華さん、その」
声をかけると麗華さんは、ブツブツ呟くのを止めて、この世の終わりみたいな顔をして振り向いた。
「……、あら、郎ちゃん。どうしたの? 郎ちゃんは一人で寂しく朝食を取るんでしょう?」
いつもの間延びした、ぽわぽわした感じの話し方はなりを潜め、冷たい声で俺の選択を非難してきた。結構堪えたが、意思疎通出来ることには安堵する。
「いえ。その、やっぱり、ご一緒、させてもらおう、かと」
「無理しなくていいわよ。どうせ、迷惑だったわよね」
どうしよう、麗華さんがネガティブな彩さんみたいになってる。ちょっと、めんどくさい。
「ほら、今めんどくさいって思った」
ばれてる! どうしたらいいんだ、俺は。迂闊なことは考えられないし、朝食を一緒に取ることにしたって言っても、要らないって言われるし。
「やー、太郎君。日曜の朝っぱらから人妻を苛めるなんて鬼畜だねー」
悩んでいると、新しく現れた人物に声をかけられた。誰だかしらないが振り返りつつ答える。
「人聞きの悪い事言わないで下さい! ……って、佐橋さん!?」
打開策を模索中の俺に、突然声をかけてきたのは佐橋さんだった。
「何でここに?」
「いやー、公演の日は、ここで皆と朝食を取ることになってるからねー。太郎君は何してるんだい? って、さっきもう僕が言っちゃったね。ごめん、ごめん」
「なにが、ごめんですか! 全然違いますよ! 何で俺が麗華さん苛めなきゃいけないんですか!」
「だってー、実際に麗華さんがジメジメしてるじゃないか。なら本人に聞いてみるよ」
そう言うと、佐橋さんは麗華さんの隣にしゃがみ込みポショポショと言葉を交わし始めた。
何を言っているのか全然聞こえない。佐橋さんが話を聞いて頷いているのが見て取れる。数回の頷きの後、話を聞き終えたのか、佐橋さんが立ち上がり高らかに宣言した。
「全部太郎君が悪い!」
ビシッ、とでも音がしそうな勢いで俺を指さす。様になっている。……イケメンめ。爆発すればいいのに。
「何でですか! いや、俺が悪かったかもしれないですけど。なんか、佐橋さんに言われると、素直に認める気が失せますね」
「ふーん。そういうこと言うんだ、太郎君は。麗華さんから、どうしたら許してくれるのか聞いてるけど、教えるの止めようかなー」
「佐橋さんに教えてもらわなくても、直接聞くからいいです」
「へー。じゃあ、そうすればいいよ」
麗華さんの前に回って目線を合わせて話しかける。とてもじゃないが、今の麗華さんに見下ろしながら話しかけるなんて出来ない。
「あの、麗華さ――」
だが麗華さんは、両手で耳を塞いでしまった。……アリアちゃんみたいなことしないで下さい。子供じゃないんですから。
「太郎君。いいのかい、このままで。太郎君のせいで、今日お店に来た人は皆困ったことになるよ」
「それは、……」
俺のせい、だよなあ。仕方ない。麗華さんが話をしてくれない以上、佐橋さんに聞くしかない。
「あの、許してもらえる方法、教えて下さい」
「別に教えてもいいけど。先に僕に言うことがあるんじゃないかな、太郎君?」
佐橋さんが俺を見下し――見下ろしながら答えた。
「……失礼なことを言ってすいませんでした。教えて下さい」
とにかく下手に出ざるを得ない。この心理的なイニシアティブの欠如が、変な言い間違いの原因だろう。見下されてると思ってる時点で、佐橋さんの下で這い蹲る他なかった。
「謝られてもねー。よし、太郎君。僕があげる予定だったカラオケの三時間無料チケットを諦めてくれたら、教えてあげてもいいよ」
佐橋さん、あなた鬼だよ。足元見やがって!
「それとこれとは、話が別ですよね」
「僕としては太郎君に付けられた心の傷は、太郎君のお金で埋めるしかないと思うんだ。それとも、もしかして太郎君は、麗華さんよりカラオケ無料チケットを取るのかな?」
その言い方は卑怯です。しかも麗華さんとどっちを取るの件は、ちゃっかり本人も耳塞ぐの止めて聞いてるし。絶対、最初から聞こえてましたよね。
それと、心をお金で埋めるのは不健康だと思うんですよ、佐橋さん。
「……麗華さんです」
「なるほど。じゃあチケットはいいよね、あげなくて。ところで、太郎君。そんな怖い顔で睨むのは止めてくれないかな」
それぐらいはさせて欲しい。
「いいから。早く教えて下さい。俺はどうしたらいいんですか?」
「今ここで約束をするんだよ。今日から、朝食はお店で取るって」
それで麗華さんの機嫌が直るのなら、受け入れよう。昨日、自重しようとか決意した気もするが知ったことか。大事なのは、今を切り抜けることだ。
「あの、麗華さん。わかり、ました、から」
今度は、普通に話を聞いてくれた。
「何を?」
返事は、やはり冷たい。
「今日から、朝食、お世話に、なります」
「本当?」
「はい」
「じゃあ、許すー」
急にさっきまでと打って変わってにへらーっと笑うと、麗華さんが立ち上がる。なんとか、無事に麗華さんが元気になってくれたみたいだ。条件も別に俺にデメリットがあるものでもなかったし――いや、無事じゃない。俺のカラオケ無料チケット……。
「じゃあ、麗華さんの機嫌も直ったことだし。中に入ろうよ。二人とも」
佐橋さんに促されて三人で店に入る。
この話から7月29日の話です。
太郎が『彩』でやっていけるかの勝負所ですね。