5月 ―1―
俺がカラオケに通い始めて二週間が経とうかという日。その日は休日だったが、平日と同じ時間に目が覚めてしまった。
俺はこのアパートに来て、目覚まし時計を使わなくなったので正に自然に目が覚めたというのがしっくりくる。目覚まし時計を使わなくなったのには訳がある。この商店街、なぜか平日限定で朝の七時か、半辺りにバカでかい声で挨拶をする人が出没するのだ。
ここの生活を始めてすぐにそのことに気付き、目覚まし時計は目覚ましとしての役割をその人に譲渡し、遅刻のデッドラインを知らせる道具になり下がった。さて、あの日の俺の行動を追っていくとしよう。
起床し、俺は今日の予定を思い浮かべてみる。
カラオケ――よし、俺は今日も忙しい。
俺は事実を正しく認識していた。だが開店時間まで、まだ一時間以上もある。カラオケに行く前に散歩でもしようと思い、軽い朝食と着替えを済ませて家を出た。カラオケボックス近辺の散策でもしようと思っていたので、まずはカラオケボックスへと向かうことにして、のんびりと歩いて行く。
今日は何を歌おうかと、そんなことを考えながらぼんやりと歩いて道を曲がると親子が目に入った。母親と、小さな男の子だった。楽しそうに話しながら歩いている。他にも人は居たが俺の意識は仲のよさそうな親子に自然と引き付けられた。
――――。
突然、風が俺を煽り、俺のすぐ横を車が走り抜ける。気付いた時には、もう手遅れだった。俺の横を走り去った車はそのまま、母親に吸い寄せられるようにその距離を詰めていく。そして、車はあっけなく母親に当たった。車は速度を上げて走り去る。
先程までと何も変わらない。男の子が茫然と立って車を見送っていることと、その母親が地面に倒れ伏していること以外は。
……何も、出来なかった。俺の目の前で許し難いことが起こるにも関わらず。
このままには出来ない。せめて、今から出来ることをしなければいけない。
母親は、倒れた時に頭部を打っているようにも見えた。母親のもとへと駆け寄る。緊張だとか言っている場合ではなかった。コミュニケーションが上手く取れなくて、助けられないなんて笑えない。
幸い、俺の非常に頼りない言語機能もこの時ばかりは、俺の思いに応えて働いてくれた。
「大丈夫ですか!」
母親は苦痛に顔を歪めていた。やるべきことを整理して行動に移さなければならない。意識確認、呼吸の有無、脈拍の状態、出血の有無。意識はあるようだが、丁寧に且つ迅速に一つずつ確認していく。それと、警察と救急に連絡。一人では手に余る。
「あなた、警察に連絡して下さい!」
近くにいた男性を指さして、警察への連絡を頼んだ。彼は真面目な面持ちで頷くと、すぐに携帯で電話を掛けてくれた。協力的な人が居てくれることは非常に助かる。車のナンバーと色、セダンタイプであったことを男性に伝え、俺は救急に連絡した。事故の場所、先ほど確認した母親の状態を手短に告げ救急車を手配してもらう。
俺が電話を切ると、警察への連絡を頼んだ男性も電話を切るところだった。悪いがこの人にも、もう少し手伝ってもらおう。
「すいません。お母さんに声をかけて下さい」
彼は頷くと、すぐに行動に移ってくれた。俺は、呆然とする男の子に近づき話しかけた。
「大丈夫だから。すぐに、お母さんは救急車が来て助けてくれるよ」
「で、……でも、おか、……おかーさん、あ……」
やっと現状を理解したのか、俺がさせてしまったのか。ぼーっとしていた男の子は今にも泣きだしそうになっていた。大丈夫なんて言われても困るだろう。現場を見て、何が大丈夫かなんてわかるはずなかった。
こんなことするのは可哀そうだと思ったけれど、俺は男の子の頬を少し痛いくらいに引っ張りながら言った。
「大丈夫だから。君にもお母さんを助けて欲しいんだ。泣いている場合じゃないよ。お母さんはもっと痛いんだ。頑張れるよね」
大泣きされても仕方ないと思いながらの行動だったが、男の子は泣きそうだったのを堪えてくれた。
「えぅ、う、うん、が、んばる」
思わず男の子の頭をくしゃくしゃと撫でて、答える。
「ありがとう。さすが男の子だ。じゃあ、あそこのお兄さんと一緒にお母さんのこと、呼んであげてくれるかな」
「うん、……うん」
返事をしてお母さんの方へと駆け寄っていく男の子を見てから、残りの作業を進めることにする。気付けば、どこにこんなに人がいたのか、人集りができて道路が埋まっていた。これでは、救急車が通れない。
もっと早くに気付くべきだったな。
しかし、ここは歩道が無い。人垣があった方が安全かもしれない。判断が付かず、結局、周囲の人に頼んで道路は車が通れるだけの幅を開けるようにしてもらった。
道路から人が掃けたところで救急車が来た。今空いたスペースに救急車が入ってくる。そこから降りてきた救急隊の方が、協力してくれていた男性に誘導されて母親のもとへ駆け寄り対処してくれる。救急隊の方が処置している間に、彼がこちらに近づいてきた。彼には、病院に付き添ってもらおうと思っている。
「いやー、お疲れさまー。一応事故の状況は説明しておいたよ。こっちは、僕がやっておくから、あの子について行ってあげてくれないかなー」
だが、俺の考えとは別の案を告げられてしまった。
「いいんですか? こっちのことは――」
「いーよ、いーよ。警察に連絡したのは僕だし、僕がここに居た方がいいでしょ?」
そう言ってくれるのなら、素直に従うことにしよう。
「それじゃあ、俺があの親子には付き添います。連絡先教えてもらってもいいですか?」
「そうしてよ。んーと、連絡先かい? そうしたいけど、もう救急車出るよ? まあ、またすぐに会うよ」
「? えっと、じゃあ、すいませんけど、本当に出るみたいなんで失礼します」
「はいはーい、またねー。そっちはよろしく頼むよ」
連絡先は俺からじゃなくても伝わる、か。なら、問題ないだろう。
そう思い救急車に乗った。母親に声をかけ続ける男の子の横でもう一度、救急隊の方に事故の状況を説明し、その後に母親の容体について説明を受ける。
現状でわかる範囲では、命に関わる事態にはならないだろうということだった。よかったと思ったが、喜ぶ訳にもいかない。男の子は泣きたいのを我慢して声をかけているし、俺がもっと早く車に気付いていれば結果は変ったかもしれなかった。それに、現状でわかる範囲では、なのだ。
小説の作法とかとは別に、何か書きたいなら知識は必須なんだなと思い知りました。知識不足がいなめないです。