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第2話 白紙

私は、気づいたら昨日の食卓に戻っていた。


「おい、中村の娘。別に間違えてもいいけど、旦那の前でそんなことすんなよ。俺は妻にされたとき、すごく悲しかったんだからなwww」


後藤さんの声。


箸を持つ自分の手が、わずかに震えている。

さっきまで、私は――桜の下にいたはずだ。


「あら、ごめんなさい。でもそんなのしなくても私はあなたを愛しているんだからいいじゃないですか」


その台詞も、昨日聞いた。


違う。

昨日じゃない。


“さっき”だ。


喉がひりつく。

これは夢じゃない。記憶が、まだ熱を持っている。


私は、戻ったのだ。


なぜ。


後悔したから?


いや。

後悔する資格すら、なかったはずだ。


「外に出ろ……」


不意に、声が落ちた。


耳ではなく、もっと奥。

思い出の底を引きずるような声。


聞き覚えがある。

けれど、思い出したくない響き。


「外に出ろ……お前は絶対に後悔をする」


心臓が強く打つ。


やめて。


私はもう、決めたのだ。

決めたはずなのだ。


それでも声は、静かに続ける。


「今なら、まだ間に合う」


食卓の笑い声が遠のく。


私は、立ち上がった。


次の瞬間私は玄関に向かって走っていた。


次の瞬間、私は玄関に向かって走っていた。


「どうしたの鈴、なんで急に――」


母の声を振り切り、扉を押し開ける。

冷たい外気が肺に刺さる。


一歩、踏み出した。


強い光。

耳を裂くようなブレーキ音。


衝撃。


視界が反転する。


――


気づけば、私は道路に倒れていた。


空が、やけに青い。


「あれ……」


体が、重い。


起き上がろうとして、動かないことに気づく。


違う。

動かないのではない。


動かしてはいけない形をしていた。


左手が、妙な方向に沈んでいる。

右足の感覚が、ない。


遅れて、熱が走る。


息が浅くなる。


「……なんで」


喉から出た声は、ひどく掠れていた。


遠くで誰かが叫んでいる。

誰だろう。


ああ。


これは。


間に合う、ということだったのか。


視界の端で、桜が舞っている。


私は、笑ったのかもしれない。


それとも泣いたのか。


自分でも、わからなかった。


目を開けたとき、白い天井があった。


見覚えのない模様。

消毒液の匂い。


規則的な電子音が、やけに冷たい。


瞬きをすると、世界がゆっくり焦点を結ぶ。


「……鈴?」


母の声だった。


振り向こうとして、体の奥に鈍い痛みが走る。


左腕は固定され、右脚には重たい感覚。

動かそうとすると、骨の奥で何かが軋む。


「事故だったのよ。車が……あなた、急に飛び出して」


母の声は震えていた。

あんな声、初めて聞いた。


事故。


そうだ。外に出た。

声に従って。


「……結婚式は?」


自分でも驚くほど、小さな声だった。


母は、一瞬だけ黙った。


「延期よ。今はそんなことより、あなたが――」


「白紙に、なる?」


言葉が先に落ちた。


母は何も言わない。


沈黙が答えだった。


胸の奥に、奇妙な感覚が広がる。


悲しいはずなのに。

申し訳ないはずなのに。


なぜか、呼吸が少しだけ深くなる。


窓の外を見ると、桜が散っていた。


あの日と同じように。


でも、ここには風が届かない。


花びらは、ガラスの向こうで静かに落ちていく。


私は、指先を見た。


指輪は外されていた。


痕だけが、うっすらと残っている。


ああ。


私は、誓わなかったのだ。


声が、もう聞こえないことに気づく。


代わりに、自分の鼓動だけがある。


ゆっくりと、確かに。


私は、まだ確かに生きている。


翌日も、昴は来なかった。


母は何度かスマートフォンを見ていた。

私が眠っていると思っているのか、小さなため息をつく。


「仕事が忙しいんでしょうね」


そう言った母の声は、どこか硬かった。


三日目。

四日目。


病室のドアが開くたびに、心臓がわずかに跳ねる。


けれど現れるのは看護師だけ。


窓の外の桜は、ほとんど散っていた。


私は、やっと理解する。


あの日、誓いの言葉を言ったとき。

彼の声は、はっきりしていた。


でも、私の声はどうだっただろう。


“ 一生 ”


あの言葉に、温度はあっただろうか。


事故のことを知ったとき、彼は何を思ったのだろう。


迷惑だと?


面倒だと?


それとも、ほっとしたのだろうか。


考えた瞬間、胸が締まる。


けれど同時に、どこかで静かな理解が落ちる。


来ないということが、答えなのだ。


責める気持ちは、不思議と湧かなかった。


私もまた、彼を選んでいなかったのだから。


夜。


病室の灯りが落ちる。


天井を見つめながら、私はそっと息を吐いた。


あの声は、もう聞こえない。


「今なら、まだ間に合う」


あれは誰だったのだろう。


父でもない。


神様でもない。


きっと――


私だ。


桜は散った。


けれど、私はまだここにいる。


壊れた腕も、動かない脚も、

痛みと一緒に、確かに“今”を教えてくれる。


結婚は、白紙になった。


未来も、白紙だ。


白は、怖い。


でも。


あの日の、花びらに埋もれる白よりは、


ずっと、静かだった。




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