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第1話 台本の始まり

桜が嫌いだった。


春になると、人はみんな幸せそうな顔をする。

新しい生活、祝福、門出。


でも私にとって桜は、逃げ場をふさぐ花だった。


結婚式の前日。

家の居間には、母が飾った造花の桜が床いっぱいに散らばっていた。


まるで、ここから先の人生まで勝手に祝福されているみたいで、私はその景色が少し嫌いだった。


「すずちゃん♪ もうすぐ結婚なんだって。私うれしいよ」


玄関の扉を勢いよく開けて入ってきたのは、隣の梅さんだった。


梅さんは昔からこうだ。

何かあると、真っ先にうちに来る。


合格のときも、誕生日のときも、私が熱を出したときでさえ。


まるで私の出来事が、自分のことみたいに騒ぐ。


ありがたい。

けれど少しだけ、距離が近すぎる。


母がもう一人いるみたいで、ときどき息が詰まる。


「なんで隣のおばさんが喜んでいるの。それに結婚って言ったって大したことないわよ。みんなやっているし」


梅さんは「あらまあ」と笑った。


「そんなこと言っちゃダメ。結婚は人生で一度きりの大切なものなんだから」


そう言いながら、玄関の壁を見上げる。


「ところで……やっぱりあなたすごいわね。こんなにも賞があるなんて」


ふと見ると、玄関の壁には私の賞状がずらりと並んでいた。


感想文コンクール。

税の作文。

学校の表彰。


全部、中学や高校のころのものだ。


私は顔が熱くなった。


「もうやめてって言ったでしょ! お母さん、こんなところに飾らないでよ!」


そのとき、台所のほうから母が出てきた。


母は私を軽く抱き寄せながら言う。


「何言ってるの。娘の大事な賞よ? 飾って当然でしょ」


口元だけで笑っていた。


「全然反省してないじゃん……」


私はため息をつく。


愛されている。

それは分かっている。


それでも、胸の奥が少しだけ重い。


梅さんが笑いながら言った。


「ほんと、あなたのお母さんと仲いいじゃない。離婚したときはどうなることかと思ったけど」


玄関の空気が少し冷えた。


母は眉ひとつ動かさなかった。


「あの人は、私たちのことを何も考えてくださらなかったの。だから離婚して正解だったわ」


迷いのない声だった。


私は視線をそらす。


「梅さん、その話は今いいでしょ」


「そうねそうね。あら、鈴ちゃんの花嫁姿、見てみたいわ」


「……いいよ。それくらいなら」


居間の襖を開けると、床いっぱいに桜の造花が散っていた。


淡い花びらが光を受けている。


祝福のつもりなんだろう。


きれいだとは思う。


でも私は、その花びらを指で払った。


払っても、また落ちてくる。


まるで――

逃げられない未来みたいに。


「どう」


私はおばさんにドレス姿を見せた。


「なんて素敵なの鈴ちゃん。ああ、私もこんなときあったわ。写真撮っていいかしら」


私は特に断る理由もなかったため了承した。


「ありがとう鈴ちゃん。じゃあね長居しちゃ悪いからじゃあね」


そう言っておばちゃんは去っていった。

まあ帰りに三度手を振って去ったときはさすがにうんざりしたが……


「じゃあ。これで戸籍も移すし最後におじいちゃんおばあちゃんにも挨拶をしなよ」


お母さんは、そういって私と一緒に仏壇のところまで進んだ。


「鈴は明日結婚式を挙げ正式に戸籍を移します。どうか見守っててください」


私は、仏壇に手を合わせようとするときに少しためらった。

申し訳なかったのだ。

こんな簡単な気持ちで戸籍を移すことに。


「さあ、行こうか」


そう言って、母は夕食の支度をしていた。


「あ、忘れてた結婚指輪」


そうして私は結婚指輪を右手の薬指に付けたのだ。

ただ治そうとは思わなかった。


夕食には親戚の人がたくさんいた。

全て私を見守ってくれた人たちだ。


「よう、結婚するんだって。お前も立派な女になるんだな。そうだ。今度、俺にも新築見せてくれよ。どんな構造だか見てやるよ」


そう言ったのは一級建築士の高屋さん。


「あんたはまたそんなこと言って、ごめんなさいね建築のこととなるとうるさいんですよ」


そう言ってなだめたのは、高屋さんの奥さんだ。


「いや、結婚かめでたいめでたい。ん、なんでお前右に結婚指輪はめてるんだwww。普通は左にはめるもんだぞ」


それに気づいたのは後藤さんだ。

私は慌てて戻した。

やっぱり気づかれてしまったのだろうか。


「おい、中村の娘。別に間違えてもいいけど、旦那の前でそんなことすんなよ。俺は妻にされたとき

すごく悲しかったんだからなwww」


「あら、ごめんなさい。でもそんなのしなくても私はあなたを愛しているんだからいいじゃないですか」


後藤さん家族はすごく仲がよさそうだ。

私もこんな感じで結婚出来たらよかったのに。


「もっと愛そうとしていればよかったのに……」


私は無意識に行ってしまっていた。


「どうした。鈴。なんか言っていたが……」


「うんん何でもないの」


私はとっさに隠した。


私本当はどうしたいんだろう。

いや、もう戻ることはない。

ならば最後に聞いてみよう。


みんなが中村家を去り母は水洗いをしていた。

母の様子は生き生きとしており、ちょうど昔の時とは大違いだった。


「ねえお母さんはなんで結婚をしたの」


私は質問をした。


「どうして……そんなこと聞くの……そんなこと今結婚しようとしているあなたに必要? 」


母は優しそうに答えた。


「知りたいんだよ。だってお母さんは今のほうが生き生きしていて、お父さんがいたときなんていつも無表情で……なんで、なんでそれでも結婚の道を選んだの」


お母さんは静かに口を開けた。


「そうね。私たちは、お互いを愛していた。だからかもしれない。お互いを愛していたから……愛が覚めたとき嫌なところがはっきりとわかるの。手伝ってくれないとか。文句を言うとか。食べ方が汚いとか。

だからね私たちは愛が覚めた瞬間。お互い苦痛でしょうがなかった。だから離婚をした。それだけ。」


そういう母の表情はとても暗かった。


「そう教えてくれてありがとう」


そうして、私は眠りについた。


翌朝私は、小鳥のさえずりとともに目覚めた。


私の答え。

私は、それでも結婚の道を選ぶ。

今更引き返せない。


私はもはやわかっていた。

結婚を取り消すことなどできないというもの。


もう結婚式も行い。

婚約指輪もくれ。

そして、新築なんてものも立てたのに。


引き返すことなど到底できるわけがないのだ。


そうして複雑な気持ちのまま結婚式が始まった。


境内には満開の桜が吹き荒れていた。

春の風にあおられ、花びらは雪のように舞い、私の白いドレスに降り積もる。


一枚、また一枚。


私はそれを払った。

払っても、すぐにまた落ちてくる。


指先に触れる花びらは、思っていたより冷たかった。


私は無言のまま新郎のもとへ歩いた。

歩くたびに裾が揺れ、桜がまとわりつく。


誓いの言葉が読み上げられる。


「新郎昴――」


彼の声は、はっきりと響いた。


「はい、誓います」


拍手が起きる。

花びらが舞う。


「新婦鈴――」


そのとき、誰かが小さく息をのんだ。


気づけば私は、またドレスを払っていた。

肩を、胸元を、腕を。

まるで何かを振りほどくみたいに。


「大丈夫ですか」


神父の穏やかな声。


私は手を止めた。


皆の視線が、一斉にこちらを向く。

桜が静かに降り続いている。


「……誓います。一生」


口に出した瞬間、胸の奥が強く締まった。


“ 一生 ”


その言葉だけが、体の内側に沈んでいく。

指輪が急に重く感じた。

呼吸が浅くなる。


拍手。

祝福。

笑顔。


どれも遠い。


「では、誓いのキスを」


彼が近づく。

私は目を閉じた。


唇に触れたのは、彼の温度より先に、

一片の花びらの冷たさだった。


次の瞬間、強い風が吹いた。


桜が一斉に舞い上がる。


白い花びらが視界を埋める。

空も、人も、彼の顔も、何も見えない。


ただ、白。


私はもう、花びらを払わなかった。


冷たい感触が、頬に触れる。


それでも、目を開けなかった。


もし、あの日。

指輪を右のまま、直さなかったなら。


もし、あのとき。

「誓います」と言わなかったなら。


風が止む。


視界の向こうで、誰かが笑っている。


私は、ゆっくりと目を開けた。











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