清廉潔白な勇者は、私の前でだけぶっきらぼう
この世界には二つの理がある。
一つは魔法。大気に満ちる魔素を編み、式を組み、現象を起こす技術体系。努力と才覚があれば誰でも扱える。
そしてもう一つが、誰もが生まれつき持つ固有スキル。これは理屈ではなく、魂に刻まれた「役割」のようなものだ。火を自在に操る者もいれば、他者の心を読む者もいる。些細なものでは「絶対に道に迷わない」などという地味な能力もある。
いずれにせよ、この世界はその二つの理で回っている。
ただし、例外が一つ。世界に澱みが溜まったときだけは、どうしようもない。
澱み――それは魔素の淀みであり、感情の腐敗であり、災厄の前触れだ。放置すれば土地は枯れ、魔物は狂い、人の心は歪む。
それを浄化できるのは、聖魔法。そして聖魔法を真に扱えるのは、神に選ばれた勇者のみ。祈りでも、努力でも技術でも、どうにもならない。だから王宮は、一定周期で勇者召喚の儀を執り行う。理不尽でも、残酷でも、これは仕組みなのだ。
……というのが、王宮魔導士である私が新人たちに説明するときの決まり文句である。
今夜、その仕組みが発動する。
大広間の中央に描かれた召喚陣は、王国最高位の魔導士たちによって幾重にも補強されていた。
儀式を主導するのは、宮廷筆頭魔導士レグナード卿。白髪をきっちりと撫でつけた、いかにも「偉い人」な老人だ。私はその背後、補助陣の管理という名目の立ち会い係に過ぎない。
王族も列席している。王、そして王女殿下。この召喚が王の名のもとに行われていることの、何よりの証だ。
やがて、詠唱が最終段階へ入り、空間が歪む。
眩い光が柱となって天井を突き抜け、次の瞬間――
どさり、と人が落ちた……二人。
一人は、黒色の髪をした青年。整った顔立ち、均整の取れた体躯。いかにも「勇者です」と言わんばかりの存在感。
もう一人は、その隣で転がっている、ややふくよかな青年。黒縁の眼鏡、脂ぎった前髪、状況を理解できていない顔。
ざわめきが広がる。レグナード卿が杖を掲げ、静粛を命じる。
「汝、神に選ばれし者よ。名を問う」
黒髪の青年はゆっくりと身を起こした。
「……ここは?」
声音は落ち着いている。混乱しているはずなのに、不思議と整っている。彼は王と目を合わせると、なぜかそれが当然であるかのように、自然と膝をついた。
「俺は……柊 伊織。状況は分かりませんが、あなた方が敵ではないことは理解しました」
理想的な態度。まるで台本でもあったかのように。
一方、隣の青年はあたふたと立ち上がる。
「え、え、なにこれコスプレ?ドッキリ?」
場の空気が微妙に冷える。王女殿下――マリリア様がくすりと笑いをこらえた。
儀式は続く。鑑定魔法が発動し、二人の固有スキルが読み取られる。ざわめきは、今度は明確な緊張へと変わった。
「柊 伊織――固有スキル『神託契約』」
聖魔法の増幅と、神との直接回線を持つ固有スキル。間違いない、彼が勇者だ。
そして。
「……もう一名、佐伯 和也。固有スキル『完全催眠』」
一瞬、空気が凍る。完全催眠。対象の精神へ干渉し、強制的に思考や感情を書き換える能力。……えげつない。
佐伯と呼ばれた青年は、きょとんとしている。
「さいみん?何それ」
知らないふりか、本当に知らないのか。いずれにせよ、警戒対象であることに変わりはない。
その間も、勇者――柊 伊織は、完璧だった。
「事情を説明していただけますか。協力できることがあれば、力になります」
柔らかな笑み。マリリア様の頬がほんのりと染まった。
儀式後、二人は別室へ案内された。形式上の説明と、今後の方針の共有のためだ。私は補助魔導士として同席する。
勇者は終始穏やかだった。
「この世界を救う役目、ですか。俺にできるなら」
即答。迷いがない。普通なら、もっと混乱する。怒るか、怯えるか、帰せと叫ぶ。
だが彼は、完璧に「勇者」だった。マリリア様が身を乗り出す。
「危険な地へ赴くことになります。それでも?」
「あなた方が困っているなら」
にこり。……あまりに、綺麗すぎる。私は違和感を覚えた。
説明が終わり、部屋を出ようとしたそのとき、私は彼の肩にそっと触れた。私の固有スキルは能力無効化。相手に触れている間、相手のスキルも魔法も発動しない。私自身は、発動していることで相手のスキルや魔法が自身に効かなくなる。そのため、常に発動しておくように、と厳命されていた。
次の瞬間。彼の表情が、崩れる。
「……は?」
声音が変わった。甘い響きが消える。
「なんだこれ……頭の中が、静かだ」
私は息を止めた。勇者は自分のこめかみを押さえている。少し荒い口調。さっきまでの理想的な青年とは、まるで別人だ。
王女殿下が目を見開く。
「勇者様……?」
私は手を離す。途端に、彼の背筋が伸びた。
「申し訳ありません。少し、眩暈が」
にこやかに微笑み、完璧な勇者に戻る。廊下に出たあと、私は壁にもたれた。
「面倒なことになりそう……」
世界の理は変えられない。勇者は必要だ。契約は聖魔法を強化する。けれど、あの青年は、自分の意思で笑っていない。
「さっきの、なんだったんですか?」
後ろから、声がした。振り向くと、勇者が立っている。
黒髪が燭台の光を受けてやわらかく揺れる。儀式の直後だというのに、その立ち姿は不思議なほど落ち着いている。けれど瞳の奥には、わずかな戸惑いが滲んでいた。
マリリア様や王の前では完璧に振る舞っていた青年が、今は少しだけ迷子のような顔をしている。
「ご気分でも優れませんでしたか」
私は慌てて一礼した。あくまで私は補助の立場だ。勇者に対して軽々しく言葉を重ねるべきではない。
「いえ……その」
彼はこめかみを指先で押さえ、眉を寄せる。
「あなたが触れた瞬間、妙に、静かになった気がして」
心臓が、ひとつ跳ねる。やはり、気のせいではない。
「静か、と申しますと?」
できるだけ穏やかに問い返すと、彼は少し言葉を探すように視線を泳がせた。
「さっきまで、皆さんの期待とか……視線とか……そういうのが、頭の奥で反響しているような感じがしていました。嫌ではないんです。むしろ、応えたいと思う。でも、あなたに触れられた一瞬だけ、それが全部遠のいた」
不思議そうに首を傾げる。
「おかしいですよね」
その声色は、まだ柔らかい。王女に向けていたのと同じ、理想的な優しさを帯びている。
私は迷った。能力無効化が原因である可能性は高い。けれど、ここで断定するのは早計だ。
「恐らく、召喚直後の疲労かと存じます。異界から来られた直後ですもの」
そう言って、視線を伏せる。彼はしばらく私を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうかもしれませんね」
納得したように微笑む。その笑顔はやはり整いすぎている。
廊下の向こうから、マリリア様の声が聞こえた。勇者を案内する準備が整ったらしい。
「お呼びのようです。どうぞ、こちらへ」
私は半歩下がって道を譲る。彼が私の横を通り過ぎる瞬間、衣の袖がかすかに触れ合った。その刹那。
「……っ」
彼の足が、ぴたりと止まる。横目で見れば、わずかに目を見開いていた。
「……今」
声が、低くなる。
「また、静かになった」
先ほどとは違う響きだった。柔らかく整えられた声音ではなく、どこか素の温度が混じっている。
私は慌てて一歩引いた。触れていたのはほんの一瞬だ。すると彼は、はっとしたように姿勢を正した。
「失礼しました。気のせいですね」
再び、理想的な勇者の顔。まるで、表情の上に薄い膜が張られたかのように。
……間違いない。私の能力が、何かを打ち消している。
それが固有スキルによるものなのか、それとも“神託契約”そのものの副作用なのかはわからない。だが少なくとも、彼自身はその「静けさ」に気づいている。
「もし、お疲れが出るようでしたら、いつでもお申し付けください。補助魔導士として、できる限りお力になります」
できるだけ丁寧に、深く頭を下げる。彼は一瞬だけ、困ったように笑った。
「そんなに畏まらないでください。俺は、急にここへ放り込まれただけの人間ですから」
「それでも、勇者様です」
世界の理に選ばれた存在。その重さを、私は知っている。彼は何か言いかけて、やめた。代わりに、少しだけ視線を和らげる。
「……ありがとうございます」
王女殿下のもとへ歩いていく背中は、やはり隙がない。
廊下に残された私は、そっと息を吐いた。
向けられた好意に、応えずにはいられない衝動。
期待されれば、その理想を裏切れなくなる強制。
それがもし、神との契約に伴うものだとしたら――。
彼は、自分の意思で笑っているのだろうか。
遠くで、衛兵に囲まれたもう一人の召喚者――佐伯和也が、何やら必死に弁明している姿が見える。鑑定結果を聞いた宮廷側が警戒を強めているのは明らかだ。
完全催眠。あちらはあちらで、厄介な種を抱えている。
けれど今、私の意識はどうしても黒髪の勇者へ向いてしまう。
王女殿下の隣に立ち、穏やかに言葉を交わす姿。誰に対しても等しく優しい態度。
それは美しい。だが同時に、どこか空虚でもあった。
――静かになった。
あの一瞬の、低い声。あれは確かに、彼自身の響きだった。
私は補助魔導士として、彼の近くにいる機会も多いだろう。陣の管理、転移魔法の補助、浄化後の測定。
そのたびに、わずかでも触れることがあれば、彼は、少しだけ自由になれるのかもしれない。
……思い上がりかもしれないけれど。
大広間の扉が閉まる。召喚の夜は無事に終わった。理想的な勇者が現れ、世界は救われる準備を整えた。
けれど私は知ってしまった。その理想の下に、別の声が眠っていることを。それが何を意味するのかは、まだ分からない。
ただひとつ確かなのは、あの「静かだ」という感覚が、彼にとって救いであるらしい、ということだけだった。
◇
勇者が初めて澱みの地へ赴いたのは、召喚から三日後のことだった。
転移陣の中央に立つ黒髪の青年は、すでに王宮の正装に身を包み、その姿は、まるで絵画から抜け出したかのように整っていた。王女殿下が心配そうに見つめ、王は静かに頷き、筆頭魔導士レグナード卿が最終確認を行う。私は補助魔導士として、転移陣の外縁を管理していた。
「危険があれば、すぐに帰還なさってください」
マリリア様が、そっと言う。
「はい。必ず無事に戻ります」
勇者――柊 伊織は、穏やかに微笑んだ。その笑みは完璧だった。
澱みの発生地点は、王都から離れた辺境の森。空間が歪み、魔物が凶暴化し、土地が腐り始めているという。
転移が発動する。光に包まれ、彼の姿が消えた。
◇
帰還は、三時間後だった。再び光が弾け、陣の中央に彼が現れる。衣は汚れ、額には汗が滲んでいる。だが立ち姿は揺るがない。
「浄化は完了しました」
静かな報告。周囲がどよめき、すぐに歓声へ変わる。マリリア様が駆け寄った。
「お怪我はありませんか?」
「問題ありません。少し魔力を消耗しただけです」
優しい声音。安心させるための微笑。その様子を見ながら、私は胸の奥がざわつくのを感じていた。聖魔法の発動中は、神との契約がより深く結びつくと聞く。ならば、その強制力もまた増しているはずだ。
勇者はその後、謁見の間で報告を行い、騎士たちから称賛を受け、侍女たちに囲まれても穏やかに応じていた。誰に対しても、同じ距離で、同じ温度で。
召喚から何日か過ぎると、マリリア様は彼の隣に立つことが多くなった。廊下を歩くときも、庭園を案内するときも、自然に寄り添う。
「勇者様は、花はお好きですか?」
「ええ。こちらの世界の植物は、まだ見慣れませんが、とても美しいですね」
王女殿下は嬉しそうに頬を染める。その表情は、隠しようがない。本気で、恋をしている。召喚された存在であろうと関係ない。ただ、目の前の青年を想っている。
勇者はそれに、優しく応えている。だがそれが、彼自身の意思かどうかは――。
その日の夜、私は魔力測定のため、彼の部屋を訪れた。
「失礼いたします」
「どうぞ」
扉の向こうから返る声は、やはり穏やかだ。室内に入ると、彼は椅子に腰かけていた。外套を脱ぎ、シャツ姿になっている。
「お疲れのところ、申し訳ございません。浄化後は魔力の残量を確認する決まりでして」
「構いませんよ。あなたも立ち会いで大変でしょう」
柔らかい気遣い。測定用の水晶に手をかざしてもらい、数値を読み取る。確かに消耗はしているが、異常はない。
「……問題ありません。数日休めば回復なさいます」
「そうですか」
彼は微笑む。そのまま退出しようとして、私は一歩踏み出した。袖口が、かすかに彼の手の甲に触れる。ほんの偶然の接触。
次の瞬間。
「……はぁ」
深い吐息が落ちた。驚いて顔を上げると、彼の肩から力が抜けている。
「ゆ、勇者様?」
声が、低い。
「……悪い。そのまま、ちょっと」
私の手首を、そっと掴む。強くはない。ただ、離れない程度に。さきほどまでの整った微笑みは消えていた。
「疲れた……もう動きたくねぇ」
ぼそりと零れる本音。私は目を瞬く。
「本日の浄化は、問題なく――」
「そういう意味じゃなくて」
彼は天井を仰いだ。
「体も疲れてるけどさ。頭が、うるさすぎるんだよ。ずっと」
掴まれた手に、わずかな力がこもる。
「皆が期待してる。王女様が見てる。騎士が尊敬してる。侍女が憧れてる。……それに応えなきゃって、勝手に思う」
自嘲するように笑う。
「あんな顔して、あんな笑い方してるけどさ」
視線が落ちる。
「何考えてるか、自分でもわかんねぇんだよ」
胸が締めつけられる。これが、無効化された状態の彼。契約の強制が消え、静かになったときの声。
「俺、元の世界じゃこんな性格じゃなかった気がするんだよな」
少し困ったように笑う。
「いや、元の世界の自分も曖昧だけど。……今の俺、誰なんだろ」
私は言葉を失う。掴まれた手を、振りほどくこともできない。彼は一瞬だけ、視線を上げた。
「悪い。こんなこと言う相手、あんたしかいねぇから」
その言葉に、鼓動が跳ねる。だがすぐに、私は息を吐いた。
「私の固有スキルは"能力無効化"です。私が触れていれば、貴方にはどんな補正も能力も生じない」
「……ああ、なるほど」
今の状況を思い返して、彼は納得したように頷いた。
「私は補助魔導士です。勇者様のお役に立つのが務めですから」
「だから、頼っていいってことだろ?」
少しだけ、いたずらっぽい目。年相応の青年の顔。
「今だけでいい。ちょっと、こうしててくれ」
握られた手は、温かい。甘え、というには不器用すぎるが、確かに、弱音だった。
やがて廊下の足音が近づく気配がして、私はそっと身を引こうとする。その瞬間、彼の指先に力が入った。
「待って、名前を教えてくれ」
「……ニナです」
「……ニナ」
噛み締めるようにつぶやく彼から、身体を離す。接触が途切れた瞬間、彼の背筋が伸びた。
「失礼しました。お引き止めしてしまって」
声音が、戻る。穏やかで、整った勇者の声。まるで仮面を被り直したかのように。
「いえ……それでは、失礼いたします」
深く礼をして部屋を出る。廊下の先では、マリリア様が侍女と話していた。勇者の名を口にするとき、その頬は柔らかく染まる。恋をしている顔だ。
彼の優しさを、まっすぐ受け止めている。あの微笑みを、本物だと信じて。
私は立ち止まり、静かに息を吐いた。
誰にでも優しい勇者。触れているときだけ弱音を吐く青年。
どちらが本当の彼なのか。
そして私は、あの「疲れた」と零した声を、どう受け止めればいいのか。
答えは、まだ見つからない。
◇
王宮の魔導局は、昼下がりの光が高窓から差し込むせいで、どこか白く冷えて見えた。磨き上げられた床に、魔法陣の青白い残光が揺れている。
ニナは報告書を差し出したまま、静かに頭を下げていた。
「勇者様の負荷軽減率が想定より低い。これでは意味がない」
上級魔導士の声は乾いている。叱責というより、評価だ。人に向けた声ではなく、性能表に向ける声音。
「解析式の更新は済ませています。次周期で最適化が――」
「言い訳はいらない。勇者様は国の要だ。君の仕事は、その負担を極限まで削ることだろう」
淡々とした言葉が、刃のように整っている。
周囲の魔導士たちは視線を落とす。誰も助けない。助ける理由がない。ニナは優秀だ。優秀だからこそ、より高い効率を求められる。それだけの話だ。
「君は感情の揺らぎが少ない。だから採用された」
紙を叩く音が響く。
「だが最近は甘い。勇者様への配慮が足りない」
――甘い。その単語に、ほんのわずかに呼吸が止まる。
配慮が足りない?勇者の体調変動、魔力波形、睡眠深度、精神負荷指数。誰よりも観測し、誰よりも理解しているのは自分だ。それでもニナは反論しない。
「申し訳ありません」
頭を下げる。そのときだった。
「それ、今ここで言うことですか?」
柔らかい声が、空気を切った。振り向くと、勇者が立っている。完璧な微笑み。誰もが安心する、理想の表情。
「彼女の解析がなければ、俺はもう限界を超えてますよ」
柔らかい言い回し。だが、逃げ道は与えない。
「俺の負担を減らすために、彼女に過剰な負担をかけるのは本末転倒でしょう」
笑っているのに、圧がある。上級魔導士は言葉を濁し、やがて退いた。周囲も散る。だが完全に人払いができたわけではない。遠巻きに視線は残っている。
「……ありがとうございます」
ニナは礼を言う。合理的対応だ。勇者が介入したほうが角は立たない。勇者は微笑んだまま、一歩近づく。
「無理しないでくださいね」
理想の声音。だがニナの袖を掴まれた瞬間、表情が崩れた。
「なんで黙ってんだよ」
低い声。ニナは視線を上げない。
「事実の確認です。改善点があるなら修正します」
「そういう話じゃねぇ」
苛立ちが滲む。
「悔しくねぇのか」
その問いに、一瞬だけ呼吸が乱れる。悔しい。だが、それを認めるのは非合理だ。
「感情は業務に不要です」
そう言い切った直後、手首を掴まれた。強い。
「やめてください。見られています」
小声で制する。
「だからなんだ」
即答だった。勇者は顔を寄せる。距離が危険なほど近い。外から見れば、親密に見える角度。
「俺が装置みたいに扱われてるの、知ってるだろ」
その言葉に胸が痛む。知っている。だから支えている。
「でもな」
声が震えた。
「お前まで、自分を部品みたいに扱うな」
部品。その単語が、内側に落ちる。自分は補助だ。装置だ。効率化のための機構だ。そう思っていれば、傷つかない。
「私は補佐です。それ以上でも以下でもありません」
冷静に言ったつもりだった。だが、喉の奥がひりつく。勇者の眉が歪んだ。
「横に立てよ」
小さく、しかし強く。
「俺の負担を減らすためにいるんじゃねぇ。俺と一緒に背負うやつだろ」
視界が、わずかに滲む。――泣くな。誰かが見ている。
瞬きを一度。二度。滲みを押し込める。
「……過大評価です」
声がわずかに掠れる。勇者はそれを聞き逃さなかった。掴む手の力が弱まるどころか、ほんの少しだけ強くなる。
「強がるな」
その声は怒りではなく、切実だった。
「俺は契約で縛られてる。でもお前は違う。自分から削れるな」
低く押し殺した声だった。怒鳴っているわけでもないのに、その言葉は真っ直ぐに胸へ刺さる。
至近距離で視線が絡む。逃げようとすればできるはずなのに、足が動かない。彼の瞳は、理想の勇者のそれではなく、ただ一人の青年のものだった。焦りと、苛立ちと、隠しきれない不安が混ざっている。
こんな目で見ないでほしい。こんな距離で、こんな本音を向けないでほしい。必死に保っていた理性が、音を立てずに軋み、胸の奥が、じわりと痛む。
どうして――どうしてこの人は、自分の傷には無頓着なくせに、私のことになるとこんな顔をするのか。
喉の奥が熱くなり、言葉が勝手に零れた。
「……ずるいです」
はっとしたように、勇者が目を見開く。
「何が」
その問いは静かだったが、逃がさない響きを持っていた。ニナは一瞬、視線を逸らしかける。しかし逃げれば終わる気がして、結局逸らせないまま続けた。
「あなたは、自分のことは平気で削るのに」
声が震えそうになるのを、奥歯を噛んで抑える。ここで崩れたら、周囲に見られているこの場所で涙を落としたら、きっと後悔する。それでも、止まらなかった。
「どうして私には、それを許さないんですか」
合理的な返答ではない。ただの感情だ。自分でも制御できないまま、表に出てしまった。勇者の表情が揺れる。怒りではない。困惑と、そして理解。
やがて彼は、息を吐くように言った。
「当たり前だろ」
距離は相変わらず近い。周囲の気配は消えていない。誰かがこちらを窺っているのも分かる。それでも彼は離れない。
「お前が削れたら、俺が困る」
その声音は、理想でも使命でもなかった。ひどく個人的で、身勝手で、真っ直ぐだった。
“効率が落ちるから”でも、“戦力が減るから”でもない。困る、と言った。その一言が、胸の奥で堰き止めていた何かを静かに決壊させる。
自分の価値を、成果でも機能でもなく、必要だと示された。
視界の端が熱を帯びる。涙がせり上がる感覚に、思わず瞬きを繰り返す。泣くな。勇者と補佐官が至近距離で向き合っているだけでも噂になる。これ以上の弱さを晒すわけにはいかない。
それでも、彼は視線を逸らさない。守るために上から覆うのではなく、隣に立てと告げる目。
そのまなざしが、どうしようもなく欲しいと思ってしまう。
――この人が、いつか誰かを選ぶのなら。その隣に立ちたい。
ただ、そう願ってしまった。
必死に涙を押し込みながら、それでも彼から目を逸らせないまま、ニナは静かに恋に落ちた。
◇
佐伯和也は、召喚直後から王宮の一角で監視下に置かれていた。
表向きは「客人」。だが実際は、常に二名以上の騎士が付き添い、単独行動は禁止。固有スキルが《完全催眠》と判明している以上、当然の措置だ。
本人はというと、当初こそ取り乱していたものの、数日もすれば妙に大人しくなった。
「いやー、俺、争いとか嫌いなんで」
愛想笑いを浮かべ、従順な態度を見せる。だが、鑑定結果は覆らない。触媒も詠唱もいらず、視線と言葉で精神へ干渉する能力。対象が油断していれば、なおさら危険だ。
そして、佐伯和也がすぐに元の世界へ戻されなかったのには、理由がある。召喚は一方通行ではない。理論上、逆転移も可能だ。
だがそれには条件がある。まず、元の世界の座標を正確に固定しなければならない。召喚直後は魂の位相がこの世界と強く結びついており、無理に切り離せば精神崩壊の危険がある。
さらに、勇者召喚の余波で空間が不安定な期間は、連続転移は禁忌とされている。最低でも数日は必要。
そしてもう一つ。固有スキルは未知数だ。危険であると同時に、利用価値がある可能性もある。
王宮はまず監視を選んだ。その判断が甘かったのかどうか。答えは、庭園で出る。
◇
その日、勇者は辺境の湿地帯へ澱み浄化に向かっていた。私は転移陣の補助を終え、魔力の残滓を処理していたところだった。
ふと、庭園側から微細な魔力の揺らぎを感じる。澱みではないが、嫌な予感がした。
回廊を急ぐ。柱の陰から様子を窺うと、マリリア様が花壇の前に立っていた。薄い青のドレスが風に揺れている。近くには侍女が控えているが、少し距離がある。
その正面に、佐伯がいた。
「マリリア様、でしたよね?」
柔らかい声。私は回廊の影からその様子を見ていた。小柄な身体を柱の陰に隠しながら、魔力の流れを探る。
「……あなたは、もう一人の召喚者」
マリリア様は、穏やかに応じる。
「はい。勇者様の“おまけ”ですけどね」
自嘲するように笑う。
「勇者様、今日も出征ですか」
気さくな声。彼は距離を詰めすぎない。あくまで礼節を守っているように見える。
「ええ……今頃、浄化をなさっているはずですわ」
マリリア様の声は柔らかい。
「心配ですね」
「……はい。でも、あの方ならきっと」
マリリア様はわずかに視線を伏せる。佐伯の口元が、ゆるく歪んだ。
「勇者様って、すごいですよね。誰にでも優しくて、完璧で」
マリリア様の頬が、ほんのりと染まる。
「ええ……とても、誠実な方です」
佐伯の目が細くなる。
「でもあの人、ちょっと無理してません?」
空気が、わずかに揺れた。
「……どういう意味かしら」
「だって、あんなに完璧な人間いないでしょう?きっと、本当はもっと……」
声が、低く、滑らかになる。魔力の流れが歪む。これは――発動している。私は駆け出した。
「マリリア様!」
二人の間に割り込む。勢いのまま、佐伯の手首を掴んだ。その途端、粘つく魔力が霧のように消える。
「は?なんだよ、これ……」
佐伯の表情が歪む。マリリア様が、はっとしたように瞬きを繰り返した。
「……今、何を」
「申し訳ございません、マリリア様。少々、強い精神干渉の兆候がありました」
私は彼女を庇うように前に立つ。
「ご無事ですか」
「……ええ。今、少し……頭が重く……」
佐伯は腕を振り払おうとするが、無効化されている間、スキルは使えない。魔法も学んでいない男性に負けるようなひ弱ではない。
「邪魔すんなよ、チビ」
低く吐き捨てられる。
「俺はただ、話してただけだろ?」
「固有スキルの発動を確認しました」
周囲の騎士たちが駆け寄る。佐伯は一瞬だけ焦った顔を見せ、すぐに笑った。
「証拠は?」
「私が触れている間、魔力の干渉は完全に消えました」
騎士が彼の両腕を押さえて拘束具を嵌める。佐伯は抵抗して暴れながらも、なお笑っていた。
「何が悪いんだよ。ちょっと好かれたいって思っただけだろ?」
マリリア様が、蒼白な顔で立ち尽くしている。私は小さく頭を下げた。
「お怪我はございませんか」
「ええ……ありがとう、ニナ」
マリリア様の震える声。私は胸の奥が冷えるのを感じた。佐伯は騎士に引きずられながら、こちらを睨む。
「正義の味方気取りか?」
その視線が、庭園の奥へ向く。ちょうどそのとき、転移陣の光が遠くで瞬いた。勇者の帰還だ。
佐伯は、にやりと口角を吊り上げる。
「勇者様だってさ、好かれたら応えるしかねぇんだろ?あんたらの“神様の都合”のほうが、よっぽどタチ悪いぜ」
吐き捨てるように言われた言葉に、空気が凍った。騎士が彼の口を塞ごうとする。だがその言葉は、はっきりと私の耳に届いた。
完全催眠は悪だ。意志を奪い、感情を書き換える。
だが――勇者の契約はどうだ。
好意を向けられれば、無条件で応えようとする強制。期待に沿うよう、人格を上書きする仕組み。
それは本当に、正しいのか。
「連れて行け」
騎士団長の低い声が響く。佐伯はなおも笑っていた。
「どうせ俺は危険分子だ。処刑か?」
庭園が静まり返る。そこへ、筆頭魔導士レグナード卿が到着した。
「判断は確定した」
冷ややかな声。
「座標固定は完了している。必要な安定期間も経過した。逆転移を実行する」
佐伯は一瞬、目を見開いた。
「は?マジで返すだけなのかよ」
「精神干渉は王族に及んだ。危険度は最大判定だ」
処刑ではない。だが、二度とこの世界には戻れない。佐伯は拘束されたまま、転移陣へ連行される。
拘束されたまま、彼は最後に私を見る。
「ちゃんと見とけよ、小さい魔導士。勇者様の“本音”がどこにあるのか」
光が弾ける。彼の姿は消えた。庭園に、静寂が戻る。
◇
「マリリア様!」
勇者が駆け寄る。黒髪が揺れ、整った顔に焦りが浮かぶ。
「お怪我はありませんか」
「ええ……大丈夫ですわ」
勇者は安堵の息を吐き、優しく彼女の手を取る。マリリア様は微笑む。
完璧な勇者と、恋する王女。その光景を、私は少し離れた場所から見ていた。
佐伯は悪だった。明確に。だが、彼の最後の言葉は、棘のように残る。
――“神様の都合”。世界のための契約。聖魔法を強化するための強制。
勇者が振り向き、その視線が一瞬だけ私を捉えた。柔らかい微笑み。完璧な、勇者の顔。その奥に、本音はあるのだろうか。
少なくとも、私が触れたときに零れるあの低い声だけは、嘘ではない。
悪意は去った。けれど問いは残った。
自由意志のない優しさは、恋と呼べるのか。
その問いは、ますます重くなっていた。
ただひとつ事実なのは、この世界の理もまた、完全に無垢ではないということだった。
◇
佐伯が強制送還されてから、王宮は表向きの平穏を取り戻した。
澱みの発生は相変わらず続いている。勇者は定期的に転移し、浄化を行い、帰還する。そのたびに歓声が上がり、マリリア様は誰よりも先に彼の無事を確かめる。
「お疲れでしょう。今日は早めにお休みになってくださいませ」
「ありがとうございます、マリリア様」
黒髪の勇者は穏やかに微笑む。差し出された手を、自然な所作で取る。
その様子を少し離れた場所から見つめながら、ニナは胸の奥に小さな棘を抱えていた。
――あれは、彼の意思なのだろうか。
◇
私は研究室に籠もる時間が増えた。勇者召喚の術式、神託契約の構造、聖魔法発動時の魔力波形。記録をひとつひとつ洗い直していく。
解析の結果、浮かび上がったのは三つの補正。
一つ目は、感情安定補正。極端な怒りや恐怖を抑え、常に一定の精神状態へ整える働き。
二つ目は、好意肯定補正。他者から向けられる好意や期待を、無条件で受け入れ、肯定的に返そうとする傾向。
そして三つ目が、使命優先誘導。世界の浄化を最優先事項として、思考を誘導する力。
どれも、勇者としては理想的な機能だ。過去の勇者たちにも施されていたであろう、補正。
だが。
「人格の補強、というより……」
机に肘をつき、呟く。
「上書きに近い」
もし好意肯定補正が強く働いているなら。マリリア様への優しさも、彼自身の感情ではなく、契約による反応である可能性がある。考えるだけで、胸が重い。
私は資料を閉じ、勇者の部屋へ向かった。
◇
夕暮れ。勇者の私室の扉の前で、ニナは一度だけ深呼吸をした。ノック。
「失礼いたします」
「どうぞ」
返ってきたのは、いつもの穏やかな声。
室内に入ると、勇者は窓際に立っていた。差し込む橙色の光が、黒髪を柔らかく縁取っている。背筋はまっすぐで、理想的な勇者の立ち姿だった。
「本日も大きな消耗は見られません。順調です」
水晶を確認しながら、補佐官としての報告を告げる。
「それはよかった」
柔らかい笑み。誰に向けるときとも変わらない、非の打ちどころのない表情。
測定を終え、水晶を片付ける。指先がわずかに震えているのを、自覚しながら。――今なら。
「勇者様」
「はい?」
一歩近づき、そっと彼の手に触れる。瞬間。空気が変わった。
「……はあ」
深く、長い息。彼の肩がわずかに落ちる。
「ニナか」
声音が低くなる。丁寧な響きが消え、年相応の素直な調子になる。
「今日も、頭の中うるせぇな」
胸の奥がひりつく。
「補正の影響が強まっている可能性があります」
「補正?」
彼は窓辺を離れ、椅子にどさりと腰を下ろす。
「なんだそれ」
「感情を安定させ、好意を肯定し、使命を優先させる構造です。勇者としては理想的ですが……」
「俺としては?」
真っ直ぐな視線。
ニナは一瞬迷い、それでも答える。
「……ご負担が大きいかと」
「そりゃそうだろ」
勇者は小さく笑った。彼は、ふっと視線を窓の外へ向ける。
「なあ、ニナ」
掴んだままの彼女の手を、軽く引く。小柄な体が半歩よろめいた。
「俺さ」
低い声。
「本当に誰かを好きになったこと、あんのかな」
心臓が、きゅっと縮む。
「元の世界の記憶も、ぼんやりしてきてる。こっち来てからは……誰にでも優しくしようって、勝手に思っちまう」
自嘲気味に笑う。
「マリリア様にも、騎士にも、侍女にも。あれが俺の本心かどうか、自分でもわかんねぇ」
握られた手が、わずかに強まる。
「俺、誰も選んでないよな」
静かな室内に落ちる声。
「選ばされてるだけだ」
重い言葉だった。マリリアは本気で彼を想っている。だが彼は、その想いに応えているのか、それとも応えさせられているのか。
ニナは答えを持たない。
「……それでも」
気づけば言葉が零れていた。
「触れている間の勇者様は、私の知っている“あなた”です」
彼が目を瞬く。
「ぶっきらぼうで、少し俺様気質で、すぐ弱音を吐いて」
「悪かったな」
口元がわずかに上がる。
「でも、ちゃんと悩んでいる。それは補正ではありません」
彼はしばらく黙っていた。やがて小さく息を吐く。
「……ニナがいなかったら、俺どうなってたんだろうな」
その言葉の余韻を残したまま、ニナはそっと手を離す。途端に、彼の背筋がわずかに伸びる。完全ではないが、補正が戻り始めている。
失礼します、と一礼して部屋を出た。
◇
回廊は夕暮れの名残で淡く染まっていた。数歩進んだところで、背後から声がかかる。
「ニナ殿」
振り返ると、近衛騎士が立っていた。
「お疲れのようですね。少しふらついておられました」
「い、いえ……大丈夫です」
そう言った瞬間、軽い眩暈がする。
「危ない」
近衛騎士は穏やかに微笑み、ニナの手を軽く取って立たせる。
「お体が小さいのですから、あまり無理はなさらないでください」
その仕草はごく自然な、騎士としての気遣い。けれど。
「……」
私室の扉が、わずかに開いていた。勇者の視線が、二人の手元に落ちる。
空気が、わずかに硬くなった。
「勇者様?」
ニナが振り向く。表情はいつもの穏やかさに戻っているが、どこか微妙に噛み合っていない。
「いや。別に」
短い返答。だが、その声には、さきほどまでなかった棘が混じっている。その空気を知ってか知らずか、近衛騎士が美しい礼を取ってその場を後にした。
沈黙が落ちた廊下で、ニナは勇気を出して勇者に手を差し出した。その意図を汲んだ彼が、そっとニナの手を取る。
「……何でもねぇよ」
彼は視線を逸らした。
「ただ、俺の前であんまり仲良さそうにされると、ちょっとイラっとするだけだ」
静かな告白。ニナの心臓が大きく跳ねた。
「え」
思わず声が漏れる。
「意味はねぇ。ほっとけ……どうせこれも、変な反動かもしれねぇしな」
自嘲気味の言い方。しかしその目には、誤魔化しきれない感情が宿っている。嫉妬――自覚しきれていない、不器用な独占欲。
ニナは息を呑む。契約が緩んだ瞬間にこぼれ落ちた感情。それは、世界の都合では作れないものだった。
「……悪い」
勇者がぽつりと言う。
「自分でも、何に腹立ててんのか分かんねぇ。ただ、ああいうの見るとざわつく」
言葉の終わりとともに、彼は再び視線を逸らしかける。その手が、わずかに離れようと動いた。
――離れる。そう思った瞬間、ニナの指先が反射的に動いた。
ぎゅ、と。今度は自分のほうから、彼の外套の胸元を、指先で強く握り込む。布越しに伝わる体温が、やけに鮮明だった。
「……ニナ?」
驚いた声が落ちる。勇者の足が、半歩こちらへ寄り、距離が詰まる。壁際に立っていたニナの背後に、冷たい石の感触が触れた。
逃げ道を塞いだのは、自分だった。心臓がうるさい。侍女の足音が遠くで響いている。ここは回廊だ。誰に見られてもおかしくない。
それでも、手を離すことができない。
勇者はしばらく黙ったまま、ニナを見下ろしていた。逸らしかけた視線は、もう戻らない。代わりに、確かめるように彼女の顔を覗き込む。
さらに、半歩。息がかかる距離。
「補正ではありません」
ようやく絞り出した声は、思っていたよりも震えていた。
「今の感情は、あなたのものです」
掴んだままの指先に力が入る。彼の心臓の鼓動が、布越しに伝わってくるような錯覚がする。
「感情安定補正が完全に働いていれば、あそこまで鋭い棘は出ないはずです」
理屈を述べながらも、距離は縮まったままだ。勇者は少し驚いたように目を細める。
「じゃあ、俺のか」
「はい。勇者様ご自身の感情です」
視線が絡む。彼の喉が小さく鳴った。逃げるでもなく、離れるでもなく、彼はそのまま立っている。むしろ、掴まれた胸元をほどこうともせず、わずかに身を屈めた。距離が、さらに近づく。
沈黙の中で、互いの呼吸だけが混ざる。やがて彼は、小さく笑った。
「なら、ちょっと安心した」
「安心、ですか」
「世界の都合じゃなくて、俺の感情ならさ。まだ“俺”が残ってるってことだろ」
その言葉は静かだったが、胸の奥に深く落ちた。ニナの指先が、わずかに震える。
――この人は、ちゃんとここにいる。そう思った瞬間、掴んでいた布をようやく緩める。だが完全には離せなかった。指先が名残を惜しむように滑る。
そのとき、遠くから侍女の足音が近づく。ニナは慌てて一歩下がり、手を離す。勇者も同時に背筋を伸ばした。さきほどまでの距離が嘘のように、整った姿勢。
「勇者様、マリリア様がお呼びです」
「すぐに参ります」
完璧な声音。整えられた微笑み。何もなかったかのような理想の勇者。
だがすれ違いざま。ほんの一瞬だけ、指先が触れる。低く、耳元に落ちる声。
「……さっきの、忘れんなよ」
その囁きには、先ほどと同じ熱が残っていた。
回廊にひとり残され、ニナはゆっくりと胸元を押さえる。そこにはまだ、掴んでいた布の感触が残っている気がした。
彼は誰も選んでいない。選ばされているだけ。けれど、誰かに嫉妬するその感情だけは、確かに彼自身のものだった。
そして――あの距離で、自分の服を掴ませたまま離れなかったことも。
その事実が、ニナの葛藤をいっそう深くしていった。
◇
それは、前触れもなく訪れた。
王都の北東、古い砦跡地の上空に、黒い渦が生じたという報が入ったのは、夜明け直前のことだった。
それは、澱みと呼ぶにはあまりにも巨大だった。観測塔の魔術師が蒼白になって告げた規模は、過去最大級。空が裂けるように歪み、重く淀んだ魔力が大地へと降り注いでいる。
城内は一気に緊迫した。
「勇者様の出動を」
命令は即座に下る。勇者は迷いなく頷いた。整えられた穏やかな表情のまま、鎧を身につける。
「承知しました。必ず鎮めます」
その声音に揺らぎはない。だがニナの胸は、ざわりと波打っていた。
――規模が大きすぎる。契約補正があるとはいえ、限界はある。いや、補正があるからこそ、限界を超えて立ち続けてしまう。
「私も同行いたします」
補佐官として当然の申し出だったが、勇者は一瞬だけ視線を向けた。
「危険だぞ」
「承知しております」
深く頭を下げる。拒まれることはなかった。
◇
砦跡地に近づくにつれ、空気は粘つくように重くなった。重圧が肺を締め付ける。視界の端が歪み、地面の石畳が溶けるように波打っていた。澱みはもはや霧ではなく、意思を持つ濁流のようだった。
兵たちは近づくだけで膝をつき、吐き気を催していた。
「下がってろ、ニナ」
勇者は短く言い、前に出る。聖剣が光を放つ。いつもならば迷いなく世界を浄化する純白の輝き。しかし今日は、その光がどこか不安定に揺れていた。
澱みが牙を剥く。闇の奔流が彼を呑み込もうとする。それでも勇者は立ち続けた。
限界を超えているのは、誰の目にも明らかだった。呼吸は荒く、肩が震えている。だが膝だけは折れない。
――使命優先誘導。
――感情安定補正。
契約が、彼を無理やり立たせている。
「っつ……」
ニナは唇を噛む。触れれば楽になるだろう。補正を無効化すれば、過負荷は一時的に解放される。けれどその代わり、聖魔法の出力は確実に落ちる。今この規模の澱みに対して、それは致命的だ。
ニナが悩んでいる前で、勇者の身体がぐらりと揺れた。
「勇者様!!!」
ニナは駆け寄り、その腕を掴む。指先から干渉を流し込み、契約補正を一時的に遮断した。
光がわずかに弱まるとともに、彼の肩から力が抜ける。
「……っ、は……」
荒い息。焦点の定まらない目が、やがて彼女を捉える。
「……俺、怖ぇんだよ」
低く、震える声だった。
「消えたくねぇ。でも、選ばされるのも嫌だ」
吐き出された本音は、戦場には似つかわしくないほど弱く、幼い。彼はふらりと前のめりになり、額をニナの肩に押し付けた。甘えるように、縋るように。
「俺が倒れたら、世界が終わるんだろ。だから立ってる。でもさ……それが“俺”なのか、もうわかんねぇ」
ニナの胸が締め付けられる。彼は選んでいない。世界に、選ばされているだけだ。
けれど、今この瞬間に零れた言葉は、補正では説明できない。彼自身の恐怖だった。
「……勇者様」
ニナは目を閉じる。出力が落ちれば、街道は完全に消えるかもしれない。最悪、彼自身が澱みに呑まれる可能性だってある。それでも。
「……"あなた"が、消えるほうが、嫌です」
ニナは静かに決めた。彼の心を守るために。深く息を吸い込むと、固有スキルの解析式を最大まで展開した。
契約構造が視界に浮かび上がる。絡み合う鎖。光の輪。彼の魂に食い込む使命の楔。
これまでニナが行ってきたのは、あくまで一部の補正を弱めることだけだった。完全無効化は理論上可能でも、実行は不確定要素が大きすぎる。だが今は、迷っている時間はない。
「一瞬だけ」
ニナは囁く。
「あなたを、自由にする」
指先が彼の胸に触れる。その瞬間、世界が静止した。
契約鎖が、音もなく弾ける。光が途切れ、聖剣の輝きが完全に消えた。
その瞬間、澱みが歓喜するように膨張する。
この、ひと時の自由に、勇者は――迷った。初めて、何にも導かれずに立たされる。使命も、肯定も、安定もない。あるのは、むき出しの恐怖と、選択肢だけ。
「俺は――」
震える唇。聖剣を握る手がわずかに下がる。
逃げたい。消えたくない。選ばされたくない。
それでも。
彼の視線が、ニナを捉えた。そこにあるのは命令ではない。期待でもない。ただ、信じるという無言の肯定。
「……俺は、俺でいたい」
絞り出すような声が、澱みに満ちた空間に落ちる。
「選ばれるんじゃなくて、俺が選びたい」
聖剣を握る手が震えている。迷いも、恐怖も、消えてはいない。それでも彼は立っている。
ニナの喉がひりつく。これまで何度も呼んできた名が、胸の奥で形を変える。
――勇者様、と。そう呼ぶのが正しかった。そう呼ぶことで、世界は整理されていた。
けれど今、目の前にいるのは――
世界に選ばれた存在ではなく、選ぼうとしている、一人の人間。
ニナは一歩踏み出す。震える声で、けれどはっきりと告げる。
「――イオリ様」
空気が揺れた。その名は契約にも記録にも存在しない。勇者ではない、彼だけの名前。
勇者――イオリの瞳が、わずかに見開かれる。そこに宿るのは使命ではなく、驚きと、そして確かな感情。ニナは続ける。
「あなたが、あなたであると選ぶなら……私は、その選択を信じます」
その瞬間。彼の握る剣に、意志の光が灯った。
光が戻る。だがそれは、これまでの完璧で均質な輝きではない。揺らぎを孕んだ、不格好な光。それでも確かに、彼自身のものだった。
聖魔法が放たれる。白光が澱みを裂く。闇が悲鳴を上げ、奔流が崩れ落ちる。完全ではない。粗い。制御も甘い。それでも、澱みは霧散していった。
廃都に静寂が戻る。光が消えたあと、彼の身体は前に崩れ落ちた。
「イオリ様!」
ニナが駆け寄り、彼を抱き止める。彼は薄く目を開き、苦笑する。
「……疲れた。――自分で立つのって、こんなに重かったんだな」
それは、契約による補正のない、素の声だった。
世界は救われた。だがそれ以上に。彼は初めて、自分の意志で立ち、選び、戦った。
けれど、まるでその代償のように、勇者は静かに意識を手放した。
◇
目を覚ましたとき、契約はすでに戻っていた。
身体は軽い。思考は澄み渡り、使命は迷いなく胸に提示される。勇者としてあるべき振る舞いが、自然と輪郭を持つ。
契約は神託そのものだ。切断はできても、恒久的な破棄はできない。あのとき断ち切られた鎖は、再び繋がっている。違うのは――それを知っている、ということだけだった。
扉が開き、マリリア王女が入室する。その後ろに、ニナも控えていた。
「お加減はいかがですか、勇者様」
穏やかな問いかけ。
「問題ありません、姫様」
即座に返る、完璧な声音。柔らかく、礼を失さず、安心を与える調子。それが“勇者”だと、自分でもわかる。
マリリア王女の視線が、わずかに揺れる。
「……あの戦いで、あなたは契約を外されたと」
「一時的に、です」
答える声は冷静で、整っている。だがその瞬間、隣に立つニナの指先が、そっと彼の手に触れた。ためらいのない、静かな動作。
イオリは一瞬だけ息を呑む。ニナは視線を上げず、小さく囁く。
「少しだけ、弱めます」
契約補正が緩む。完全ではない。だが、彼の感情を縛る鎖が、ほんのわずかに軽くなる。彼は、その手を握り返した。勇者の整った仮面が、ゆっくりと剥がれていく。
「……姫様」
声音が変わる。滑らかさが消え、少し低く、少し荒い。
「自由意志のない恋愛って、恋愛って言えますか」
マリリア王女の呼吸が止まる。ニナの手を握る力が、無意識に強くなる。
「俺があなたに優しくできるのは、契約の“好意肯定補正”があるからかもしれない。守りたいって思うのも、使命優先の延長かもしれない。
もしそれがなかったら。俺が、何にも補正されてなかったら」
彼はまっすぐ姫を見る。
「それでも、あなたは俺に同じ答えを望みますか」
マリリア王女は唇を噛む。王女としてなら、答えは決まっている。自分は“正しい相手”だった。世界が望む組み合わせ。政治的にも、血筋としても、理想的な未来。勇者を王家に繋ぎ止めることは国益だ。
――けれど、一人の少女としては。
「……いいえ」
かすれた声が零れる。彼が今、握っているのは、自分の手ではない。
「国のためにあなたを縛ることはできます。けれど……それは恋ではありません」
静寂が落ちる。イオリはゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして、はっきりと告げる。
「俺は、あなたに応えられない」
勇者としてではなく、ニナの手を握ったままの、素の自分として。マリリア王女は涙を拭い、微笑んだ。
「それが、あなたの選択なのですね」
「ああ」
短い肯定。マリリア王女は去り際、ニナに視線を向ける。
「あなたが、彼を自由にするのですね」
ニナは小さく頷いた。
「完全には外せません。契約は続きます。でも……彼が彼でいられる時間を、守ります」
「……そう。どうか、お幸せに」
扉が閉まる。部屋に二人きりになると、補正がじわりと戻り始めたことに気が付いた。イオリは顔をしかめる。
「……やっぱ重いな、これ」
「常時無効化は無理ですから」
「わかってる」
彼は苦笑し、しかし手は離さない。むしろ、そっとニナに甘えるように寄りかかる。
「俺、誰にでも優しい顔はできる。でもな」
彼の声は、不器用で、少し照れたようで。
「お前の前だと、格好つけられねぇ」
指先が、彼女の頬に触れる。契約が戻りきる前の、素の時間。
「お前が手、握ってくれるとさ」
少しだけ笑う。
「ちゃんと好きだってわかるんだよ」
ニナの視界が揺れる。
「補正じゃなくて?」
「ああ。補正があってもなくても、お前に触れたいって思う。そばにいたいって思う。……それは、俺の気持ちだ」
胸の奥が熱くなる。彼は真剣な目で言った。
「俺は、選びたい。選ばされるんじゃなくて」
ニナは息を整え、答える。
「では、選んでください」
彼は少しだけ照れたように目を逸らし、それでもすぐに戻す。
「……他の誰でもなく、俺は、ニナがいい」
その言葉は、使命でも補正でもない。ただ一人の青年の告白だった。ニナはそっと抱きつく。
「離れませんよ」
「離す気ねぇ」
彼は自然に彼女を抱き返した。
◇
契約は続く。勇者の枷も消えない。それでも、彼はニナの隣にいる。
廊下でも、執務室でも、任務の前でも、無意識に彼女の袖を掴み、肩に寄りかかる。
「勇者様、重いです」
「今はイオリ」
「仕事中です」
「くっついてろ」
呆れたように言いながらも、ニナは彼の腕を受け入れた。
世界に選ばれた勇者は、今日もニナの隣で甘えている。




