第9話 寝坊助わんこと、朝の騒動
「……あっつ」
俺は、身体の半分ほどがなにかに包み込まれている感覚で目を覚ました。柔らかくて、確かな熱を持つなにかに。
ぼんやりとする頭で起き上がろうとすると、そのなにかにぎゅっと抱きつかれて阻まれた。仕方なく首だけを動かして見ると、黒い髪の毛とつむじが視界に飛び込んでくる。
黒髪の主は暖を求めるように、さらに俺に擦り寄る。舌っ足らずで、むにゃむにゃした言葉を呟きながら。
「んぅ……ご主人しゃまぁ……わふぅ……」
あぁ、そっかそっか。
昨夜は愛犬と一緒に寝たんだった。
…………。
んなわけあるかいっ!
月島さんだよっ、暴走天然ポンコツわんこだよっ!
ようやく、一気に昨日の記憶が蘇ってきた。家の前で月島さんを拾ってから寝るまで、その一部始終の。
眠れるか心配してたはずなのに、すっかり熟睡しちまったよっ!
いやまぁ……ぐっすり眠れたのはいいことなんだけども。
しかし、この状況はまずい。まずいにもほどがある。かろうじてダイレクトアタックは避けているが、今の月島さんの防御力は極めて低い。それも、月島さん本人のポンコツ具合が招いたことなのだが。
ぐいぐいふにふにと押し付けられる柔らかい感触は、まさにわんこのもの──なわけがなく、しっかりと女の子のものだった。
落ち着け、俺。
これは事故だ、完全なる不可抗力だ。
俺はなにも悪くない。
そう、悪くないはずなのに……。
『──なら、思うさま堪能してしまえよ。お前は被害者だろ?』
俺の中の悪魔が、にやりと笑った。それはあまりにも甘く危険な囁きだった。罪悪感を背徳感に置き換えるような。
『──いけません、耐えるのです! 人としての尊厳を守りなさい!』
今度は、天使が全力で反論してくる。両者は激しくぶつかり合った。
火花散る戦いを、俺はぼけーっと眺めていた。本当にこういうことってあるんだなぁ、なんて呑気なことを考えながら。
そして、熾烈を極めた勝負の行方は──天使の勝利。俺の理性が天使に加担したのだ。
決め手は『尊厳』という言葉だった。月島さんに全裸を見られたことで、一度は失いかけたそれ。もう二度と失ってなるものか。
ここからの方向性を定めた俺が、どうにか魔の手から逃れようと月島さんの頭に手を置いた時だった。再び、月島さんが鳴いた。
「くぅ〜ん……♡ ご主人しゃまのなでなで、らいしゅき……」
ぐおぉ……なんつう寝言をっ!
これはやばい、致命的に可愛い。
ちくしょうっ、夢の中ならなにを言っても許されると思うなよっ!
ぷちんと、俺の中でなにかが弾けた。気が付けば、俺の手は月島さんの頭をわしわしと撫で回していた。
「ふぁ……きもちぃ……♡」
くそぅ、随分といい夢を見てるみたいじゃないか。俺の気も知らないで。
きっと夢の中ではすっかりわんこになりきって、わんわんとご主人様に甘えているのだろう。寝る前は、恥ずかしいのを我慢して犬になりきっていたとか言っていたくせに。
どうにか理性を繋ぎ止めた俺は、現状からの脱却を試みる。頭に触れればどうなるのかは、今しがた身を持って体験済み。同じ過ちは二度繰り返してはいけない。
今度はそっと肩を掴み、押してみる。
「……逃げちゃ、やぁっ」
瞬く間に、退路は断たれた。打つ手なし。これ以上は、また破壊力抜群の反撃を受けると悟り、抵抗をやめる。
甘んじて受け止める他ないのだ。もう誰にも、この凶暴なわんわんは止められない。
……猛犬注意の札、玄関に貼っておこうかな。
俺はアホな考えで現実逃避した。大人しくして、されるがままだ。すると、すりすりふにふに攻撃はしだいに激しくなっていった。
「んふふ……ご主人しゃまぁ……わふんっ」
もしかすると、昨夜の出来事は月島さんに新たな扉を開けさせてしまったのかもしれない。人としての道を外れ、犬として生きる道への扉を。
きっともう手遅れだ。俺は大きくため息をついた。
月島さんが目を覚ましたのは、それからしばらく経ってからだった。微かに瞼が開き、とろんとした瞳が俺を見つめる。
俺が目覚めた時にはまだ薄暗かった部屋の中は、すでにすっかり明るくなっている。窓の外では小鳥がチュンチュンと鳴き、カーテンの隙間から差し込む朝陽が柔らかく月島さんの髪を照らしていた。
いつもより長く感じた夜が、ようやく終わった気がした。
俺は最後にともう一撫でして、月島さんの頭から手を離した。
こんな爽やかな朝に、なにやってんだろうな、俺……。
「むにゃ……ごしゅ────」
「おはよう……寝坊助わんこさん」
「……ふぇっ?」
戸惑いの声をあげ、目をぱっちり見開いた月島さんだが、体勢は依然として眠っていた時のまま。つまり、がっちりと俺をホールドしている。
「とりあえず──どうしてこうなったのか説明してもらえるかな?」
「あの……なんで私、相葉くんに抱きついてるんでしょう?」
「そんなの俺が知りたいよっ!」
「……きゃいんっ────えっ?!」
自分の発した犬っぽい鳴き声に、自分で驚く月島さん。どうやら救いはないようだ。
すまない、月島さん。
俺にはもうどうすることもできないよ。
諦めて立派なわんことして生きてくれ。
心の中で謎のエールを送った直後、月島さんはぽっと頬を染めてはにかむように笑った。
「……どうやら私、一晩ですっかり相葉くんに躾られてしまったようです。わんわんっ」
「いやっ、自分から進んでわんわん言い始めたよね?!」
月島さんを躾けたというのなら、それはたぶん月島さんのご両親だ。断じて俺ではない。
しかし、これで止まる月島さんではなかった。
「では……そうですね。相葉くんに……調教されてしまいました……」
頬に手を当てて照れる姿は、とんでもない色気を放っている。言っている内容は相当アレだけども。
調教ってなんなの?!
月島さんは俺をどこに向かわせたいんだ?!
俺に女の子を躾けたり調教したりする趣味はない。ここはビシッと言ってやるべきだろう。
「余計悪くなったわっ!」
「ひゃうんっ……♡」
また大声を張り上げた俺だったが、月島わんこの反応は予想外のものだった。
「……なんでちょっと嬉しそうなの?」
「相葉くんのツッコミ──だんだんとクセになってきてしまって……」
「あ……そうなんだ」
「というわけで、ちゃんと責任取ってくださいね、ご主人様?」
ニコニコと笑う愛犬を前にして、俺はがっくりとうなだれた。
もうめちゃくちゃだ。このまま会話を続けていたら、学校に遅刻してしまうかもしれない。はなから遅刻を決め込んでいる月島さんは平気なのだろうが。
「はぁ……とにかく、まずは朝ごはん食べようか……」
さすがにエサとは言えなかった。




