番外編その3中編 里帰りわんこと、小さな宝石
沙霧がドアを押し開き、部屋の中へと入っていく。俺もなるべく静かにその後に続いた。
俺の部屋よりもわずかに広そうな月島家のわんこ部屋。滑り止めのマットが全面に引かれ、片隅には大きなケージが置かれている。
遠目で見る限りは、毛布の山でしかない。けれど、その中からは、キューキュー、クゥクゥと、小鳥の囀りにも似た小さな鳴き声が響いていた。
「……霞」
遠慮がちに呼びかける沙霧の声。ケージの中で、毛布の山がもぞりと蠢き、ひょこりと一匹のわんこが顔を覗かせた。
沙霧の髪と同じ、真っ黒な毛並みの大型犬。犬種はラブラドールだろうか。そこは定かではないが、この子が霞なのは間違いないはずだ。
ゆっくりと、声のした方に顔を向ける霞。沙霧と霞の視線が交差したのが、隣にいる俺にもわかった。
霞はふわりと尻尾を持ち上げ、嬉しそうに一振り──したかと思ったら、すぐにぷいっとそっぽを向いてしまった。その姿は、どう見ても拗ねているようだった。
「あ……」
沙霧は、悲しげに声をもらした。沙霧の中では、霞が喜んで飛びついてくる予定になっていたのかもしれない。
まぁでも、これは予想の範囲内だ。俺はそっと、沙霧の背を支えた。
「沙霧。ほら、霞に言うことがあるんでしょ。しょんぼりしてる場合じゃないよ」
「はぅ……ご主人様ぁ。そうでしたわん、ちゃんと謝るんでした」
「ん、いい子だね。頑張って」
「わんっ!」
胸の前で両手を握りしめた沙霧は、確かな足取りで霞へと近付いていく。ケージの前へたどり着いた沙霧は床に腰を下ろし、霞と目線を合わせた。
「霞……なにも言わずにいなくなってごめんなさい。私ね、運命のご主人様に拾ってもらったんです。今は、彼のおうちで一緒に暮らしてて……だからえっと、霞のことが嫌いになったわけじゃなくて。これからは、ちゃんと会いに来るから、お願い、許して……?」
しどろもどろになりながらも、沙霧は霞に想いを伝えた。本物のわんこである霞が言葉をどこまで理解できたのかはわからないが、きっと気持ちは通じたのだろう。
おずおずと伸ばされた沙霧の手の指を、霞がぺろりと舐めた。その姿はまさに、しょうがないわね、とでも言っているようだった。
「霞っ!」
「わんっ!」
沙霧は霞の頭を撫で、霞は目を細めてそれを受け入れる。
うんうん、仲良きことは美しきかな。無事に沙霧と霞のわだかまりは解消されたらしい。
となれば、次は俺か。霞にとっては、俺は初対面であり、警戒すべき人間だ。その証拠に、さっきからちらちらと霞が俺の顔を見ている。
お前は誰だ、そう言われている気がした。
「あのさ、沙霧。俺も自己紹介していいかな」
「あっ、そうですね。霞、今言った私のご主人様がこの方ですよ。とっても優しくて、素敵なご主人様なんですよ」
「あはは、褒めすぎだって。嬉しいけどね。それじゃ改めまして、相葉樹です。沙霧を奪ってごめんね。でも、沙霧は俺の一番大切な人なんだ。ずっと大事にするって誓うから、認めてくれないかな?」
相手は、正真正銘のわんこだ。でも、誠意は見せるべきだと思う。ちらりと横目で覗うと、沙霧は真っ赤な顔をしていた。
けれど、俺は真っ直ぐに霞を見つめた。霞はまるで値踏みをするように、俺に鼻先を寄せ匂いを嗅ぐ。
緊張の時間が流れる。霞の湿った鼻先が、俺の手の甲に触れた。
クンクンと、念入りに匂いを嗅いでいる。俺には、沙霧の匂いがたっぷりと染み付いているはずだ。あれだけ四六時中側にいるのだから。それが吉と出るか凶と出るか。
心臓をバクバクさせながら審判を待つ俺を、霞はじっと見上げて──
ぺろり。
沙霧にした時よりもやや素っ気なく一舐めした後、ふんと鼻を鳴らして、俺の膝にコツンと頭を押し付けた。
「……あ」
「わぁっ♡ ご主人様さすがですわんっ♡ 霞が初対面の人に自分から触れるなんて、とっても珍しいことなんですよ!」
「認めてもらえた、ってことでいいのかな?」
「私のご主人様なのですから当然ですわんっ♡」
「そっか。よかったぁ……」
どうやら、第一関門は突破できたようだ。ここで噛まれでもしたら面子が立たないところだった。
ほっと胸を撫で下ろす俺を見て、霞は「しょうがないわね」とでも言うように、もう一度尻尾を振った。そして、くるりと踵を返すと、毛布の山へと戻っていく。
「わふっ」
短く鳴いて、鼻先で器用に毛布をかき分けると──
「きゃんっ♡ 可愛いですわんっ♡ ご主人様ぁ、仔犬ですよ、仔犬っ♡」
「わっ……ちっさ!」
もぞもぞと蠢く、小さな命がいた。全部で三匹、体毛はまだ完全には生えそろっておらず、目も開いていない。小さな声で鳴きながら、懸命に母犬の温もりを求めて身体を寄せ合っている。
「霞、よく頑張りましたね」
沙霧が褒めると、霞はどこか得意げに胸を張り、産まれたての仔犬を口に咥え、俺と沙霧の前に差し出した。母犬である霞と同じ、全身が黒の仔犬だった。
「えっと、これは……?」
「触らせてくれるってことでしょうか?」
「わんっ」
霞の鳴き声が「早くしろと」急かしているようで、まずは沙霧が指先でそっと、子犬の背を撫でた。
「はわぁ……♡ ふわふわで、とっても温かいですわん♡ ご主人様も触ってあげてください!」
「俺も?! なんか壊れちゃいそうで怖いんだけど……」
「優しく、優しくですわん」
「う、うん。優しくね……」
ためらいつつも、俺も恐る恐る手を伸ばす。指先に触れた感触は、頼りないほど小さく柔らかで、でも、トクトクと脈打つ確かな熱があった。
その尊さに、つい頬が緩んでしまう。
「……元気に育てよ」
そう声をかけると、仔犬が俺の指に吸い付いてきた。くすぐったくて、愛おしい。
部屋の中には、この上なく幸せで、温かな空気で満たされていた。沙霧も霞も、誰もが優しい顔をしている。
そんな中、霞は鼻先で仔犬を俺の方へと押しやり、無言で見つめてくる。
「今度はなんだろ?」
「もしかして、ご主人様に名前を付けてほしいんじゃないですか?」
「えっ、俺が?!」
「ねぇ霞。霞もご主人様に名付け親になってほしいですよね?」
「わっふ!」
「ほら、そうだって言ってますよ!」
「まじかよ……」
霞さん……あなた、賢すぎません?
完全に沙霧と意思疎通してるじゃん。
けど、名前かぁ。これはとんだ大役を仰せつかってしまったぞ。
「うーん……」
俺は仔犬に視線を落とし、じっと考え込む。そんな俺を、沙霧と霞が期待に満ちた瞳で見つめていた。
沙霧も霞も、雨冠の漢字が使われてるよなぁ。
なら、その繋がりは大事にしたい気がする。
黒くてツヤのある毛並みは、宝石のようで──
「じゃあ、雲母なんてどうかな。あっ、でも雄だったら──」
「女の子みたいですわんよっ! 雲母、とっても可愛らしい名前だと思います!」
仔犬を宝物を扱うように抱き上げ、いつの間にか性別を確認していたらしい沙霧が声を上げた。霞も、俺の名付けに満足してくれたのか、わふわふと鳴きながら頷いていた。
「なら、決まりでいいのかな?」
「わんっ♡」
「あおーーーーんっ!」
喜びに満ちた鳴き声が、部屋の中に響く。こうして俺は、雲母の名付け親になったのだった。




