番外編その3前編 仔犬、産まれちゃいました
とある休日の朝。
「ご主人様ぁ♡ 起きてください、わんわんっ♡」
耳元で俺を呼ぶ、可愛いわんこの甘い鳴き声。続いて──
ぺろっ♡
湿った感触が、頬を撫でた。
最近の沙霧の俺の起こし方は、もっぱらこれである。俺の愛犬としての自覚が強すぎるせいか、ますますわんこらしさに磨きがかかってきている。
ゆっくりと目を開けると、沙霧は四つん這いになって俺に覆い被さっていた。
休日なのだからもう少しゆっくり寝ていたいとは思うが、愛犬に笑顔を向けられては無視はできない。
「おはよ、沙霧。今日は起きるの早いね」
「わんっ♡ ご主人様にご報告がありまして、起こさせていただいたのですわん!」
「報告?」
「とってもビッグでハッピーなご報告ですわん! きっと、ご主人様にも喜んでいただけると思うんですの♡」
そう言うと沙霧は、俺の上にべったりと身体を預け、胸元にスリスリと頬擦りをする。その姿が愛らしくて、俺は沙霧の腰に手を回して、ぎゅっと抱き寄せた。
「それで、なにがあったの?」
「わふん……♡ それはですねぇ──」
そっと、耳元に沙霧の口が寄せられる。そして、俺を秘密を共有する共犯者にでもするように、小さく囁いた。
「夜更けに、仔犬が産まれたんですのっ♡」
「……なんだって?!」
「ですから、仔犬ですわん♡ 仔犬が産まれましたっ♡」
あー……そっかそっかぁ。
ついに産まれちゃったかぁ……。
そりゃあ、あれだけ日常的にわんわんやらかしてれば、そうもなる──
わけあるかいっ!!
えっ、待って?
沙霧……いつの間に?!
全然お腹も大きくなってなかったのに──
の前に計算がおかしくない?!
確か、一般的に出産までは十月十日と言われているはずだ。しかし、俺と沙霧が付き合い始めて、まだ二ヶ月も経っていない。
ということは……。
「えっーと……どこの仔犬の話?」
「私の実家の愛犬ですわんっ♡」
さらりと言う沙霧に、俺は口から魂を半分ほど引っこ抜かれたような気持ちになった。
……よかったぁ。
高校生のうちに母犬にさせることにならなくて。
いやまぁ、俺も沙霧もその点はちゃんと気を付けているから大丈夫だとは思っていたけども。
「というわけでご主人様ぁ♡ 仔犬、見に行きましょっ!」
かくして俺は、二度目の月島家への訪問を果たすことになった。
身支度を整えた頃には、我が家の前に月島家の黒塗りの車が停まっていて、俺はあっさりとその中に引きずり込まれる。運転手は、沙霧のお父さん。助手席にはお母さんまで座っていた。
まさかの、夫婦揃ってのお迎え。沙霧は浮かれているし、ご両親も嬉しそうである。
家族勢揃いの中での、俺の異物感が半端ない。その空気にいたたまれなくなって、俺は沙霧の耳元に小さく声をかけた。
「沙霧の家って、犬がいたんだね。前に行った時には見かけなかったけど」
「実はいたのですわんっ。あれは二年ほど前だったでしょうか。弱ってうちの庭に迷い込んでいたところを私が保護して、そのまま家族の一員になったんです」
「へぇ……そうなんだ」
全くもって初耳だ。けれど、わんこが家族の一員なら、沙霧が猫よりも犬好きなのも頷ける。きっとそのせいで、沙霧までわんこ化を果たすことになったのだろう。
それにこれって、俺と沙霧の──
「わふんっ♡ なんだか、私とご主人様の出会いに似ていますね?」
どうやら、沙霧も俺と同じことを考えていたらしい。嬉しそうにぴったりと身を寄せて、すりすりと頬擦りをしてくる。
俺はそんな可愛い愛犬であり恋人の手をそっと握った。
「そうだね。でも──」
ふと、小さな不安が胸の内に芽生えた。
「わん? なんです?」
「いや……沙霧がうちに来ちゃったから、その子、寂しがってるんじゃないかと思ってさ」
俺は、沙霧が家に帰ってしまうことを想像しただけで、たまらなく寂しくなってしまった。なら、命を救ってくれた、大好きなご主人様と引き離されたその子も、きっと寂しがっているはずだ。
俺の言葉で沙霧も気付いたようで、はっと息を呑んだ。
「──私、霞に悪いことしちゃいましたね」
「霞……それが名前なの?」
「あ、言い忘れていましたね……私と姉妹みたいになるようにと、お父様がつけた名前が霞なのです。ずっと仲良しでしたのに、私ったら、自分のことしか考えていませんでした……」
「……沙霧。なら今日は、まずそれを謝らないとだね」
「はいっ。ちゃんと謝って、これからは時々、様子を見に帰ってあげることにします!」
「うん、そうするといいよ」
本当なら家に戻ってあげるべきなのだろうが、最初は迷い犬だった沙霧も、もうすっかり我が家のわんことして定着している。今更、元の家族が見つかったからといって、素直に手放せるわけがない。
いつどうやって明かしたのかは不明だが、うちの母さんすらも、今は時々沙霧のことをわんこ扱いしていたりする。沙霧わんこワールド、恐るべしだ。
やがて俺達を乗せた車は、相変わらず広大な敷地へと入っていき、ガレージに停車した。そこには他にも高そうな車が二台も停まっていて、我が家との格の違いを思い知らされる。
とはいえ、もうビビることもない。俺は一応、ご両親にも沙霧のご主人様として認められているのだ。
……あれ、なんかおかしくないか?
普通、彼氏として認められないといけないところだよな?
まぁいいか。
なんとなく、俺とは感覚のズレた人達っぽいし。
車を降りると、沙霧はすかさず俺の腕を引いた。
「お母様っ、霞はお部屋にいますよね?」
「えぇ、あの子も沙霧に会いたがっているでしょうし、早く行ってあげなさい。でも、産後だからストレスにならないように静かにね」
「はいっ、わかりました。ほら行きますよ、樹くんっ!」
「わっ、ちょっと沙霧っ?! そんなに引っ張らなくても!」
静かにと言われたばかりなのに、沙霧の勢いはすさまじい。俺を引きずるように、ずんずんと家の中を進んでいく。
そうしてたどり着いたのは、一つのドアの前。そのドアの下の方には、犬の出入り用と思しき小窓がつけられていた。
「ご主人様っ、ここが霞のお部屋ですわんっ!」
「えっ……もしかして、犬部屋ってこと?」
「わんっ♡ 霞も家族の一員なのですから、専用のお部屋があって当然なのですわん!」
「まじかよ……ごめん、沙霧。うちには沙霧の部屋がなくて」
「わふん? ご主人様のお部屋が、私のお部屋ですわんよ? 一人のお部屋なんて用意していただいても、どうせ使わないですし。言ってみれば、ご主人様のお部屋が私達の愛の巣なんですわん♡ きゃっ♡」
沙霧は恥ずかしそうに、それでいて嬉しそうに身体をくねらせる。
いやうん……。
なんかもう、そのまんまだよね。
あの部屋で、散々沙霧と愛のわんわんスキンシップを重ねてきたわけだし。
思い出すと、ちょっと照れくさい。自然と、沙霧と目が合った。お互いにくすりと笑みをこぼし、いよいよ沙霧がドアノブに手をかける。
部屋の中からは、かすかな物音と、確かな生命の息遣いが聞こえてくる気がした。




