番外編その2後編 お嬢様わんこの、鮮やかな策略
俺の右腕を枕にした沙霧は、タオルケットに包まり、少し荒くなった呼吸を整えていた。
母さんにバレた。それがスパイスになったのか、俺達は大いに盛り上がった。おまけに、わんわんと甘い声で鳴く沙霧が愛おしくて、俺も歯止めが利かなくなってしまったのだ。
「くぅん……♡ ご主人様ぁ、すごかったです♡ あんな餌付けをされては、ますます骨抜きになってしまいますわん♡」
「俺はもうとっくに沙霧に骨抜きにされてるけどね。可愛かったよ、沙霧」
そっと頭を撫でると、沙霧の顔はよりトロトロに蕩けていく。
「えへっ……♡ ご主人様ぁ、大しゅき♡」
「俺も大好きだよ、沙霧」
「はわぁ……幸せですわん♡」
「それはなにより──って、時間やばくないっ?!」
時計を見た俺は、思わず跳ね起きた。とっくに正午は通り過ぎたどころか、さらに長針はもう一周している。
母さんの言う夕方が一体何時なのか。早ければ、あと数時間で帰ってきてしまうかもしれない。
周囲を確認すると、二人分の衣服が床に散乱しているし、ゴミ箱の中身はとても母さんに見せられたものじゃない。おまけに、部屋の空気は自分でもわかるほどに甘ったるい。
「沙霧も起きて! 早くシャワー浴びて! 服も着て!」
「むぅ……ご主人様はせっかちですわん。もう少し余韻を……」
「言ってる場合かっ! さすがにこんなの見られたらまずいって!」
「仕方ないですわんね……ですが、これもご主人様との生活を守るため。では──準備いたしましょうか。まずは──一緒にシャワー、浴びましょう?♡ 愛犬をきれいきれいするのは、ご主人様の務めですわんっ♡」
「あぁもうっ! それでいいから早くするよ!」
俺達は、服も着ずに風呂へと駆け込み──
シャワーを浴びながら、俺はもう一度沙霧に食べられた。朝食と昼食を抜いたせいでお腹が空いていたのかもしれない。
そのおかげで、その後余計にドタバタするハメになったのは言うまでもないが、沙霧が嬉しそうにしていたから良しとしよう。俺は愛犬に甘いご主人様なのだ。
その後は部屋を換気して、ゴミをまとめて証拠を隠滅、ベッドメイキングも完璧に。それから俺は母さんの機嫌を少しでもよくするためにと料理にとりかかる。
メニューはビーフシチュー。週末の夜を沙霧と楽しむために食材を用意していたのが功を奏した。本来は時間のかかる料理だが、俺には圧力鍋という武器がある。
「そういえばご主人様、お義母様はお酒は嗜まれますわん?」
「えっ、うん。そんなに強くはないけど、よくワインとか飲んでるかな」
「わふんっ♡ 有益な情報、ありがとうございます!」
「え、今のなにが有益だったの?」
「飲ませてしまえばこちらのもの、ということですわん♡ 交渉を有利に進めるためには、場を制することが大切ですの♡ そこからは私に任せていただければ……うふふっ♡」
こっわっ……!!
沙霧はどこか、この状況を楽しんですらいるらしい。策を巡らす沙霧の表情に、背筋がゾクリとした。
……これは俺も、沙霧を怒らせたりしないようにしないとなぁ。
といっても、沙霧は俺には忠犬なので、あまり心配はしていない。
「さて、私も準備がありますので、ご主人様は美味しいお料理をお願いしますわん♡」
「あ、うん。わかったよ」
俺の返事に満足そうに頷くと、沙霧はふらりとキッチンを出ていった。廊下をパタパタと歩く足音が聞こえてきたり、風呂場から水音が聞こえてきたりするので出かけてはいないらしいが、いったい何をしているのやら。
忙しなく動き回る沙霧の気配を感じながら、ビーフシチューの付け合わせをいくつか作っていると、なぜか風呂の給湯が始まった。
まさか、母さんが帰る前にひとっ風呂……なわけないか。
給湯後も湯温を維持してくれる全自動モードを使っているところから考えると、沙霧の狙いが少しだけ見えてくる。
というか……あの時もこうしておいてくれてたら、水風呂に入らなくて済んだんじゃない?
そんなポンコツエピソードも、今となっては良い思い出だが。
そして陽が傾き、部屋の中が茜色に染まり始めた頃。いよいよ俺の料理も完成して、一息つこうかと思った矢先ことだった。
ついに、その時が訪れた。
玄関から、鍵を回す音が聞こえてくる。続いて、ドアの開く音がして──
「樹ーっ! 帰ったわ────よ?」
勢い込んで帰宅した母さんの声が尻すぼみになり、疑問形で締めくくられた。慌ててリビングを飛び出すと、沙霧が三つ指をついて母さんを出迎えている。
「お義母様、おかえりなさいませ。私、樹くんとお付き合いをさせていただいている月島沙霧と申します。どうぞ沙霧とお呼びくださいませ」
「えっ……あの……」
さすがの母さんも、これには面食らったらしい。呆然とした顔で、沙霧を見下ろしていた。
名残だなんだと言っても、沙霧は名家のお嬢様。あまりに完璧すぎる、美しい所作だった。
「お義母様のご不在中に勝手に転がり込んだこと、お詫びいたしますわ。申し訳ございませんでした。ですが、それも故あってのことなのです。そのお話は後ほどさせていただこうかと思いますが──まずはお義母様」
「……はい?」
「長期の出張であったことは聞き及んでおります。久しぶりの我が家でしょうから、先にお疲れを癒やされてはいかがでしょうか。お風呂の用意を整えておりますので」
「え、えっと、その……じゃあ、そうさせてもらおうかしら?」
「はいっ、ではこちらへ。樹くん、すいませんが、お義母様の荷物を運んでいただいてもよろしいですか?」
「あ、うん」
のっけから、沙霧の独壇場だった。動揺する母さんを手玉に取り、あれよあれよと風呂に放り込んでしまった。
俺が、おかえりを言う隙すらなかった。
「やりましたっ! 第一関門突破ですわんっ♡」
戻ってくるなり、沙霧はそう言って俺に飛び付いてきた。
「いや、なにがどうなってるのやらさっぱりなんだけど?!」
俺は、すぐにでもお説教タイムが始まると思ってヒヤヒヤしていたのだ。けれど沙霧は、得意げに胸を張る。
「簡単なことですわん♡ 他所の子供をいきなり叱りつけるなんてこと、普通の人にはなかなかできるものではないですからね。そしてご丁寧にお出迎えをすることで、虚を突いたのですわん♡」
「まじですごいんだけど……!」
「そう思っていただけたのでしたら、またご褒美を頂戴しなくてはなりませんね。期待しておりますよ、ご主人様っ♡」
「いや、でもまだ終わったわけじゃ……!」
「ここまでしてしまえば、あとはイージーゲームですわん♡ お風呂でリラックスしていただいた後は、ご主人様の美味しいご馳走とお酒が待っておりますので♡」
自信たっぷりなこの言葉通り、風呂から上がった母さんはあっという間にダイニングの椅子に座らされ、沙霧に勧められるままにワインを口にした。
もはや、見事と言う他ない手腕である。
いや待てよ……。
そのワイン、どっから出てきたっ?!
俺の知る限り、我が家にあったものではない。ということは、誰かが持ち込んだものということになる。
そんなの沙霧に決まっているが、未成年が買えるものでもない。つまり──
俺は考えるのをやめた。沙霧のバックにいるであろう人物の鋭い眼力を思い出して。余計な口を挟んで、万が一事がうまく運ばなくなった場合、割を食うのはたぶん俺なのだ。
やがて、アルコールで母さんの判断力が鈍った頃合いを見計らい、沙霧は一気に勝負をつけにかかった。
家出の経緯から始まり、俺に拾われたこと、お互いに好意を抱き交際に至るまでと、沙霧のご両親との決着をありのままに語っていく。
「樹くんとの交際を認めてもらえたまでは良かったのですが……花嫁修業をしてこいと家を追い出されてしまいまして。出戻りは許さないと──その時は、二度と家の敷居は跨がせないと言われてしまいましたの。お義母様……私、ここを追い出されたら行く当てがないのです。ご迷惑はかけませんので、置いてはいただけないでしょうか?」
沙霧の話の中に、一部だけ大嘘が潜んでいたことを俺は見抜いている。極端なことをする沙霧のご両親ではあるが、出戻り云々は完全に沙霧のでっちあげだ。
しかし、酔っ払いの母さんが気付くわけもなく。
「しょっかしょっかぁ……沙霧ちゃんも大変らのねぇ。うちでよければ、いくらでもいてちょうらい。部屋も余ってるしぃ、好きに使ってくれたらいいからっ」
「お義母様っ! ありがとうございます! ですが、お部屋は樹くんと一緒に使わせていただこうかと思いますので……」
「そうよねぇ! 二人は付き合ってるんらもんね。そりゃ片時も離れたくないわよね。夜な夜な怪しげな声が聞こえてきたりしてっ! きゃーっ、若いっていいわねーっ!」
「もしかすると、そういうこともあるかもしれませんね。樹くんは、私を深く愛してくださっておりますので♡」
「や〜んっ! 沙霧ちゃん言うじゃな〜い!」
酔っ払い母さんのセクハラ発言も含めて、もう無茶苦茶である。しかも沙霧は、この会話を全て録音していたりする。後々の証拠にでもするつもりだろうか。
やがて、呆気なく母さんは酔い潰れた。仕事の疲れもあったのだろうが、沙霧の策略にどっぷりとハマって。
「わふんっ♡ ミッションコンプリートですわんっ♡ ささ、ご主人様。お義母様を寝室にお連れして差し上げませんと。その後は──またたっぷりと愛してくださいね?♡」
まさかそのために酔い潰したんじゃ……。
沙霧がどこまでを想定して動いていたのかを考えると末恐ろしさすら感じるが──
「まぁ、約束だったし……でも、明日の学校に響かない程度に、だよ?」
「わかっておりますわんっ♡」
こうして、俺達の平穏は守られた。翌日の母さんの二日酔いという犠牲を払って。
結局、沙霧が俺のわんこであるという話は、いつの間にか闇に消えていた。




