番外編その2前編 蜜月わんこと、忘れかけていた現実
沙霧との同居生活もいよいよ四週目に突入しようかという日の朝──
すっかり高く登った陽の光が、カーテンの隙間から燦々と差し込んでいる。
週末ということもあって、昨日今日と学校は休み。それをいいことに、昨夜は遅くまで沙霧とわんわんとじゃれ合っていたので、ほんのりとした気怠さが身体に纏わりついていた。
俺は真横で丸まる愛おしい温もりを抱き寄せ、その額に唇を落とす。
「……好きだよ、沙霧」
「くぅん……♡ 私もご主人様が大好きですわん♡」
「なんだ、起きてたの?」
「うとうとはしていましたけどね。それはそうとご主人様ぁ……キスするなら、こちらにしてほしいですわん♡」
沙霧はそう言って目を閉じ、そっと唇を差し出した。ふっくらとした柔らかそうな唇に、思わず吸い寄せられる。ちょんと軽く重ねると、もっとと強請るように、さらに深く押し付けられた。
ちゅっ、ちゅっ、と何度もリップ音が響く。
「わふん……♡ ご主人様とのキス、蕩けそうですわん♡」
「ちょっ、やりすぎっ! 昨日もたくさんしたのに……」
「だって、いくらしてもし足りないんですもの♡ できることなら、一日中していたいくらいですわん♡」
「本当、甘えん坊なんだから」
「それだけ樹くんのことが好きだということですよ。もしかして、ご不満ですか?」
時折、沙霧はこうして素の本音を出してくる。からかうような笑みを浮かべて、俺のハートを狙い撃ちしてくるのだ。
正直、まだこの落差には慣れそうにない。ときめきが限界突破して、朝から心臓に悪すぎる。
甘やかで、幸せな時間──
「ううん、不満なんてないよ。沙霧に甘えられるのは、俺も好きだしね」
「きゅーん♡ それでこそご主人様ですわん♡ ご主人様のご立派がよりご立派になっておりましたので、言わずともわかっておりましたが──やはり言葉にしていただくと嬉しいものですわん♡」
「…………俺のナニが、なんだって?」
ものすごく丁寧なわん語の中に、一部下ネタが混ざっていたような。
……気のせいだよね?
そんな現実逃避も虚しく、沙霧は頬を赤らめながら、指先で俺の額を突いた。
「何度も言わせないでほしいですわん……♡ でも、ご主人様がお望みなのでしたら──ご立派が、もっとご立派になられてますよ、と申し上げましたの♡ 昨夜もあんなに情熱的にわんわんいたしましたのに、元気なことですわん……きゃんっ♡」
「え、いや、うん……なんかごめん」
あっれ……。
俺がおかしいのかな。
恥ずかしがってるのはフリで、実際はノリノリに見えるんだが……?
「もう……謝らないでほしいですわん♡ ご主人様がこうなってしまったのは、私のせいでしょうから。なので、この愛犬がちゃーんと鎮めてさしあげます♡」
するりと、沙霧の手がタオルケットの中へと潜り込んでいく。俺の身体を伝い、下へ、下へするすると。
「あ……ちょっと、沙霧……」
「ふふっ、ご主人様可愛いですわん♡ 今すぐ、食べてしまいたいくらいに♡」
沙霧が声を発するたび、その口からは熱を帯びた吐息がもれる。沙霧の大きな二つの瞳は、完全に俺をターゲットとして捉えていた。
わんこは雑食である。これは人間と共生する中でそのように進化した結果であるらしい。けれど、大元を辿れば肉食動物に行き当たる。
そもそもとして、わんこ自体も肉食寄りの雑食なのだ。目の前に美味しそうな獲物が飛び出せば、その本能をむき出しにすることだろう。
「……ご主人様ぁ♡ まだ朝ですが……わんわん、いたしましょう?♡」
沙霧は、すでに狩りの体勢に移っている。俺に残された道は、大人しく貪られるか、立ち向かうかの二択。
沙霧に美味しく食べてもらうのも、キッチンを預かる身として幸せではあるが──
「っとに……俺がやられっぱなしだと思わないことだよ?」
俺にも男としてのプライドがある。情けないところばかり見せるわけにはいかないのだ。
「ご主人様ぁ、素敵ですわん♡ どうぞ、お好きなように♡」
沙霧はころんと仰向けになり、腹を見せる服従のポーズを取った。けれど、俺は知っている。これが沙霧の罠であると。花の蜜のような甘さで俺を誘い出し、捕食しようとしているのだ。
くっ……まだこちらの旗色が悪い。
挑発だけでこの破壊力、危うく致命傷になるところだった。
ならば、挑発ができないようにしてしまえばいいだけのこと。
まずは、事あるごとに俺を悶えさせるその口を塞いでくれるわ!
罠とわかっていても、引けぬ時もあるのだ。虎穴に入らずんば虎子を得ず──もとい、犬穴に入らずんば仔犬を得ず。
……言い得て妙だなぁ。
まぁ、まだ仔犬は早すぎるけど。
とにかく、ここは打って出るのが得策だ。
意気込み、キスを仕掛けようとした、まさにその瞬間──
ベッドボードに置いていた俺のスマホが、けたたましく振動した。今日は休日、アラームはセットしていない。つまりこれは、着信があったことを意味していた。
ピタリと、空気が固まった。
誰だよちくしょうっ!
今取り込み中なんだがっ?!
雰囲気ぶち壊しもいいところである。とはいえ、もはや俺は抑えきれないところまできてしまっている。
じっと耐えること数十秒、ようやくスマホは沈黙した。ほっと息を吐き、ようやく沙霧に口付けを──
「って、またぁっ?!」
凝りもせず、スマホはすぐにまた振動を始めた。しつこいやつもいたものだ。この空気の読めなさ、きっとケンタウロスに違いない。しかも、ろくでもない用事に決まってる。
一言だけ文句を言って、電源を切ってやろう。そう思ってスマホを手に取った俺は、画面に表示されている名前に現実を突きつけられることになった。
「……か、母さん?!」
長期出張により、しばらく家を空けていた母さんからの着信だった。
そういえば……。
そろそろ帰ってくる頃だったっけ……?
やっば……。
沙霧のこと、なんにも伝えてなかったわ。
邪魔が入ったことで沙霧が不服そうに唇を尖らせる横で──
俺は震える指で、通話ボタンをタップした。




