第54話 拉致られわんこと、おんぶの逃走劇
机の上にぽとりと一つ、折りたたまれた紙切れが落ちてきた。
落とし主は──言うまでもなく沙霧である。
昼休みにあれだけ堂々と連れ出してくれたくせに、帰りだけは今日もこっそりお手紙方式らしい。放課後の教室のざわめきと、時折突き刺さってくる視線を感じつつ、俺はその紙切れを丁寧に開いた。
そこには、丁寧で丸っこい、いかにも沙霧らしい字が整然と並んでいた。
『ご主人様へ♡
昨日と同じ場所でお待ちしておりますわん♡ 早くおうちに帰って、わんわんいたしましょうね?♡
♡あなたのわんちゃんより、愛を込めて♡』
昨日とほぼ変わらない内容なのに、ラブレター具合は格段に増している気がする。最後まで読み終えた俺は、思わず小さく吹き出した。
……いや、なに「わんわんいたしましょう」って。
もしこれが『にゃんにゃん』だったなら、ほんのりと危険な雰囲気が漂っていたことだろう。
それが『わんわん』だと──
跳ねるようにすり寄ってきて、全力で甘えてくる沙霧の姿しか思い浮かばなかった。
あぁもう、想像だけで可愛すぎんかっ?!
でも……沙霧らしいな。
頬が、自分でもわかるくらいに緩んでいた。もう、一刻も早く帰りたくてたまらない。
それに今日は、二人きりの家で沙霧に告白するつもりなのだ。遅くなったら決意が鈍るということはないが、二度の妨害で、沙霧への想いが抑えきれないほど膨れ上がっていた。
これ以上は我慢できない。
早く、沙霧に気持ちを伝えたい。
そんな衝動に駆られ、俺は健太に別れの挨拶を告げるのも忘れて、転がるように教室を後にした。
どうせクラスの皆にはほぼバレているし、途中で沙霧に追いついてしまっても今更だろう。
そう考えて急ぎ足で廊下を抜けたが、なかなか沙霧の後ろ姿は見えない。靴を履き、校舎を出た俺は、そのまま下校する生徒の波に乗って校門へと向かう。
そこで、異変に気が付いた。
小さな人だかりができている。生徒達がざわつき、好奇の視線が一点に集中していた。
その隙間から、校門の正面に停められた黒塗りの車が見える。さらに、言い争いをするような会話が聞こえてきた。
「いやっ、離してっ……!」
「離したらまたどこかへ行ってしまうだろ。いい加減頭も冷えただろうし、そろそろ──」
「いやっ!!」
「沙霧……お願いだから言うことを聞いて……!」
「いやったらいやですっ!!」
口論は、ますます白熱していく。その中には、聞き捨てならない名前があった。
……沙霧?!
今一番俺の心を占領している名前の登場に、心臓が跳ねた。
そこに沙霧がいる。
沙霧が揉め事に巻き込まれている。
そう理解した瞬間、俺はいてもたってもいられなくなって、人混みをかき分け前に出る。
ようやく視界がひらけると、一組の男女が沙霧に詰め寄っていた。スーツ姿の男に腕を掴まれた沙霧は、必死に抵抗している。もがいて、もがいて──
不意に、ぱちりと目が合った。涙に濡れた瞳が、真っ直ぐに俺を映す。そして、沙霧の口がゆっくりと動いた。
声は、聞こえない。けれど──
これも、教室での秘密のやり取りのおかげだろうか。なにを言っているのかは、はっきりとわかった。
沙霧は繰り返し、同じ言葉を口パクで送ってくる。一音一音を区切るように。
『た』
『す』
『け』
『て』
──助けて。
沙霧はそう言っているのだ。沙霧の言葉が胸に突き刺さり、カッと、頭に血がのぼった。
考えるより先に、身体が動いていた。
いや、違う。
俺はとっくに決めていたんだ。
沙霧との時間を、俺自身の手で守り抜くって。
沙霧を見捨てて帰れるわけがない。
沙霧は……俺の可愛いわんこだぞ!
誰にも渡せるものかっ!
「俺の沙霧を返せーーーっ!!」
俺は叫びながら、緊迫した空気の中に飛び込み、沙霧の腕を掴む手を振り払う。ぎゅっと腕に抱き寄せると、沙霧は震えながらもほっと息をもらした。
「な、なんだ君はっ!」
背中に怒号が飛ぶ。それを無視して、沙霧の耳元で囁いた。
「逃げるよ。走れる?」
「……わんっ♡」
「よし、いい子だ。行くよ!」
俺は沙霧の手を取り、校門を背に駆け出した。向かうのは裏門。遠回りにはなるが、正面突破よりはマシだろう。
当然、追っ手がかかる。
「こらっ、待ちなさいっ!!」
待つわけがない。
帰宅部とはいえ、現役高校生と大人では走る速さも体力も違う。どんどんと距離を離していく。
このまま逃げ切れる──
そんな油断が仇になったのかもしれない。
「……きゃんっ!」
短い悲鳴とともに、沙霧の身体が前のめりに傾く。かろうじて受け止めることはできたが──そういえば、沙霧は運動音痴だったか。走るペースが速すぎたらしい。
「大丈夫……?」
「はい……なんとか」
そうこうしている間に、せっかく稼いだ彼我の距離が詰まってくる。このままでは、また捕まってしまう。俺はしゃがみ込み、沙霧に背を向けた。
「沙霧、おんぶするから乗って。捕まりたくないんでしょ?」
「でも……」
「いいから早くっ!!」
「は、はいっ……!」
ここで問答している暇はない。語気を強めると、沙霧は躊躇いがちに俺の背中に身体を預け、首に腕を回した。
どうしても守りたい女の子。その重みが、俺に尋常ならざる力を与えてくれた。
火事場の馬鹿力を舐めるなよ……!
「飛ばすから、しっかり掴まっててっ!」
言うやいなや、俺は脚に力を込め、再び全速力で走り出す。すれ違う生徒達がなにごとかと振り返ってくるが、そんなものには目もくれず、ただひたすら走った。
心臓が破れそうになっても、肺が焼けそうに熱くても、俺は足を止めなかった。
走って、走って、だんだんと頭が冷えてくると、無性に不安に襲われる。家に帰り着く頃には、その不安は確かなものとして、最大レベルのアラートを鳴らしていた。
頭に血が上っていた間は思いもつかなかったが、冷静になって考えればなんとなくわかってしまう。
あれはたぶん……沙霧の──
沙霧を背負ったまま玄関を開けて、家に入る。上がり框に沙霧を降ろすと、どっと疲れが押し寄せてきて、俺は息も絶え絶えにその場に崩れ落ちた。
「い、樹くんっ、大丈夫、ですか……?」
「……はっ、はっ……はぁ……だ、大丈夫。それよりも、沙霧……さっきの人達って……」
「あ……そ、そうですね。もうすでにお気付きかと思いますが──私の、両親です……」
ですよねー……。
ってことはさぁ──
もしかして、やばいんじゃない?
大声で俺の沙霧とか言っちゃったし。
あんな強引に連れ去って、なんか俺の方が誘拐したみたいじゃん……。
これ、どうすんだ俺……?!
沙霧の両親と、最悪なファーストコンタクトをしてしまった。その絶望感に打ちひしがれて、俺は床に手をついた。
そんな俺を見て、沙霧は居住まいを正して深く頭を下げる。
「ごめんなさい……樹くん。私の家の事情に巻き込んでしまって……そういえば、家出の理由もまだお伝えしてませんでしたよね。今更ですけど、全部、打ち明けます……聞いて、くれますか……?」
家に帰ってきたというのに、沙霧はわんこモードには戻らず、とても真剣な目をしていた。




