第49話 目覚ましわんこと、ツッコミのキレ
閉じたままの瞼に朝陽が差し込み、ゆっくりと意識が浮上していく。まだ身体の自由は効かないが、ぼんやりとした頭で考える。
さて……今日の弁当にはなにを入れようか。
玉子焼きは、絶対に外せない。また茶こしで丁寧にこした、あの滑らかな食感の玉子焼きを作ってやろう。
それから、他には──
冷蔵庫の中身を一つひとつ思い出しながら、作れそうなものを考えていると、肩にとんっと衝撃があった。続いて、ぐりぐりと押される感触。
ギシッとベッドのスプリングが軋んだ音を立て、
「わんわんっ♡」
耳元で、わんこが鳴いた。
「んぅ……沙霧?」
薄っすらと目を開けて顔を向けると、朝の淡い光の中で、沙霧が俺の肩に頭を擦り付けていた。艶のある黒髪が目の前で揺れ、甘いシャンプーの香りがふわりと漂う。
「わふんっ♡ お目覚めですわんね、ご主人様ぁっ♡」
「いや……なにしてんの?」
「なにとは失礼しちゃいますわんっ。せっかく愛犬が健気にも起こしてさしあげているというのに。言うなれば、モーニングわんちゃん、ですわん♡」
「なんじゃそりゃ……? でもまぁ……ありがと。沙霧が先に起きてるなんて珍しいね」
沙霧と一緒に眠ったのは、これで三度目。過去二回は、俺の方が先に起きていた。
「そういう日もあるのですっ。えへっ♡ ご主人様の寝顔、とーっても可愛かったですわんっ♡」
「うっ……!」
寝起きにこの甘ったるい声は心臓に悪いって。
おまけに寝顔を観察されてたとか、恥ずかしすぎるんだけど……。
とはいえ、俺も沙霧の寝顔はばっちり堪能させてもらっていたので、反論はできない。
口を横に結んで身体を起こすと、沙霧が俺のエプロンを着けていることに気付いた。もちろん、ナイトわんちゃんスタイルであるベビードールの上にだ。
「……あれ? エプロンなんて着けて、どうしたの? まさか──」
「そのまさかですわんっ♡ 今日は早く目が覚めてしまいましたので……この機に少しでもご恩をお返ししようと思いまして、お弁当のおかず、作ってみたんですわんっ♡」
「……まじ?」
「まじですわんっ♡」
「怪我とかしてない?!」
沙霧のポンコツっぷりは、すでに身に沁みている。キッチンが戦場跡のようになっている可能性についてはまだいいが、怪我なんてされたらご主人様としての監督不行き届きである。
──なんてのはただの言い訳で、純粋に心配だったのだ。
そっと両の手を取ってみると、流血や火傷は見当たらない。白く滑らかな肌が、手から腕へ、そしてベビードールの奥へとずっと続いていた。
「はぁ……よかったぁ」
「ご主人様……今日は本当に失礼ですわん……私だって、やる時はやるのですよ?」
「みたいだね。でも、俺の見てないところで無茶するのはやめてよ。びっくりするからさ」
「……びっくり、させたかったんですもの。それに……もっと喜んでくれるかと思ってましたのに」
しゅんと肩を落とし、ぷくりと頬を膨らませた沙霧に、ちくりと胸の奥が刺された。
きっと沙霧は、俺のために頑張ってくれたんだろう。なのに、そこに一切触れもせず……。
俺はその膨らみを元に戻すように、そっと沙霧の頬に触れた。すべすべでもちもちの肌が優しく指を押し返してくる。沙霧は逃げるどころか、もっと触れと言わんばかりに自分から擦り寄せてきた。
「ごめん、沙霧。すっごく嬉しいよ。言うのが遅くなって、ごめんね」
「まったく、もう少し雌犬心を勉強してほしいものですわん。でも、これで報われました……ご主人様のために、心を込めて作ったんですもの♡」
沙霧は膨れっ面を、心底嬉しそうな笑顔に変えた。ちょろくて可愛いわんこである。
「まーた雌犬心言ってるし。それはやめなってば」
「ふふっ、悪いのはご主人様ですもん♡」
責任転嫁も甚だしい。なのにちっとも怒る気にはなれず、逆に笑えてきた。
なんか俺……昨日よりツッコミのキレが落ちたんじゃないか?
毎度叫ぶのも喉が辛いから、別に構わないんだけど。
原因はたぶん、寝る前の──
やべ……。
思い出したら、また恥ずかしくなってきた……。
「と、ところで……作ってくれた弁当ってどんなの? 見てもいい?」
「あっ……だ、だめですわんっ!」
ベッドから抜け出すと、沙霧がしがみついて全力で行く手を阻んでくる。
「……なんで?」
「だって……恥ずかしいんですもの♡ お昼のお楽しみにとっておいてもらうわけには……いかないですわん?」
「えー……気になって授業どころじゃなくなるじゃん。ねぇ、ちょっとだけ見せてよ」
「いけませんっ! 殿方のちょっとだけは信用してはいけないと、なにかで読みましたのっ! ちょっとだけちょっとだけと言いつつ、結局は──」
「結局は、なに……?」
沙霧は恥ずかしそうに頬を手で押さえながら、上目遣いで見上げてきた。
「私に言わせないでくださいっ! もうっ……ご主人様のえっち♡」
「……あのさ、それが言いたかっただけなんじゃないの?」
「きゅーん♡」
…………。
いやいやっ!
そんな可愛い顔されたって、誤魔化されないぞ!
俺は指先で、沙霧の額をちょんと弾いた。誤魔化されはしないが、諦めはして。
このまま問答を続けていたら、次はどんな危ないワードが飛び出してくるかわかったもんじゃない。すでにギリギリ──いや、アウトかもしれない。
朝からするには、ちょっぴりお下品だと思う。
「はいはい。なら、さっさと身支度整えて朝ご飯にしようか。今日は沙霧も先に着替えるんだよ?」
「わかっておりますわんっ♡ しっかり擬態しないといけませんもの!」
相変わらず、沙霧の本性はわんこのままらしい。さすが、俺にずっとご主人様でいてほしいと頼み込んできただけのことはある。
「んじゃ、俺は顔洗ってくるから」
「わんっ♡ お弁当、覗き見してはだめですよ?」
「わかってるって」
苦笑しつつ部屋を出て、洗面所へ向かう。
冷水で顔を流すと、頭にへばりついていた眠気の残滓もすっきりはがれ落ちていった。寝癖を直すために少しだけ髪を濡らし、洗面台の三面鏡を駆使していつもより丁寧にセットする。
可愛いと言われたままじゃ終われない。
できれば、沙霧には格好いいと思われたいから。
だって、男の子だもんっ!
洗面所での用事が終わったら、次は着替え。そろそろ沙霧も擬態を終えている頃だろう。自室の前に戻り、ドアをノックする。静かな廊下に、コココンッと軽い音が響いた。
「沙霧、入っていい?」
「わんっ♡ どうぞっ」
沙霧に促されてドアを開け放った俺は──
思いっ切りフリーズした。沙霧の着替えがまだ完了していなくて。
全裸でも下着姿でもないが、キャミソールの上に制服のブラウスを羽織り、ボタンは全開。沙霧は俺の顔を見て、へにゃりと微笑んだ。
「やんっ、覗かれてしまいましたわんっ♡」
「いやっ、どうぞって言ったよねっ?!」
「わふんっ♡」
わんこモードで雑に誤魔化す沙霧を残し、俺は後退しつつドアを閉めた。ドアに背を預け、肺いっぱいに空気を吸い込む。
そして──
「アホなことしてないで、さっさと着替えなさーーーいっ!!」
穏やかな朝の空気を、俺の叫びが切り裂いた。
やっぱりツッコミのキレ、落ちてなかったかも……。




