第47話 歯磨きわんこと、危険な距離感
沙霧から手渡された歯ブラシを見下ろしながら、俺はぽかんとして首を傾げた。
……歯、磨いてほしいって、どういう意味?
さっさと歯を磨いて寝ましょうってこと?
それとも──
はっ?!
まさか……俺の口、臭いっ?!
う、うわぁぁぁぁっ……!
そう思ったら、一気に顔が熱を帯びた。
そんな臭い口で、しかも大声でツッコミ入れていたなんて、穴があったら入りたい気分だ。ストレートに指摘しなかったのは、沙霧なりの気遣いなのだろう。
……嫌われたら、どうしよう。
不安に押し潰されそうになって、俺は歯ブラシをぎゅっと握りしめた。
「……歯、磨けばいいんだよね?」
「わんっ♡」
沙霧は嬉しそうに鳴いて頷いた。
あっ……やっぱりこれ、口が臭い説が濃厚なのでは……?
これ以上沙霧に不快な思いをさせるのはまずい。好感度がダダ下がりする可能性を想像して、半ばヤケクソ気味に歯ブラシを口に運びかけた、その瞬間──
「わわわわんっ?! なにしてるんですかぁっ、ご主人様ぁっ?! それ、私の歯ブラシですのにっ!」
「……はい?」
俺は口を開けたまま固まった。ゆっくりと、咥えかけていた歯ブラシを見つめ──
「これ……沙霧の、歯ブラシ?」
「ですわんっ!」
ようやく理解が追いついた。
ってことはつまり──ええっ?!
俺、今……めちゃくちゃやばいことしようとしてたのっ?!
沙霧の使った歯ブラシを口に突っ込もうとしていたわけで、それはもはや、間接キスなんていうのも生温い。
もっとこう……ディープな──
あっぶなっ!!
事態を飲み込んだ途端、頭が一気にパニックへと陥った。
「ご、ごめんっ! 歯磨きしろって言われたから、ついっ! 口が臭いってことかと思って!」
「ご主人様の口は臭くないですわんっ! でももし……ご主人様がどうしてもとおっしゃるのでしたら──私の、使っていただいても構いません、よ……?」
「使わないよっ?!」
真っ赤になって指先をもじもじさせる沙霧に、俺は全力で叫んだ。
そんなの、たとえ恋人同士だったとしてもマニアックすぎるわっ!
「そうですか……残念ですわん……」
「……なんで?」
いや、だめだ。
ここで沙霧のペースに呑まれたら、まじで終わる。
「……で、本当はなにをさせたかったの?」
「あ、そうですわんね。では改めて──」
沙霧はころんとソファに転がると、満面の笑みを浮かべて宣言した。
「ご主人様に、私の歯を磨いてもらいたいんですわんっ♡」
「俺が……沙霧の歯を、磨く……のぉっ?!」
「わんっ♡」
「はぁぁぁっ?! 俺、人の歯なんて磨いたことないけど?!」
なにがどうしてそうなるのっ?!
沙霧の歯ブラシを使いかけたのも衝撃だったけど、こっちはこっちで衝撃がでかすぎるんだが?!
けれど、沙霧はそんなことお構いなしに、ソファに座る俺の膝にちょこんと頭を乗せた。
「でしたら、私がご主人様の初めての相手、ですわんね♡」
「いやいや、待って! 歯くらい自分で磨けるよねぇっ?!」
「やっ、ですわん♡ 今夜のご主人様に拒否権はないはずですの。それにこれは、さっきのお話の実証でもあるのです!」
「……プロセスが大事、ってやつ?」
「ですわん♡ 確かに、自分で磨いてもきれいにはなります。ですが──ご主人様にお世話してもらうと、それだけで幸せな気持ちになるんですわん♡ ねっ? 結果は同じでも全然違いますでしょ?」
……もうめちゃくちゃだ。
俺は頭を抱えた。理屈として最低限成立しているのが逆に厄介だ。おまけに、ご褒美の約束まで持ち出すなんて卑怯にもほどがある。
やるしか、ないのか……?
そんな俺の迷いを見透かしたように、沙霧はすぅっと目を閉じて身体を完全に預けてきた。
「ささ、ご遠慮なく。もし仔犬が産まれたら、ご主人様にもお世話していただきますもの。その予行練習だと思えばいいのですわん♡」
「仔犬ネタはもうやめろぉぉぉっ!! わかったから、黙って口開けてっ!」
「わんっ♡ あーーー♡」
ぱかっと開かれる、小さく可愛らしい口。そこから飛び出す言葉は全然可愛らしくないけれど──
上下にはきれいに並んだ白い歯。その奥で、血色の良いピンク色の舌が、チロ、チロ、と歯磨きを催促するように蠢いていた。
……なんか、これ。
いろんな意味で危険すぎない……?
俺はゴクリと喉を鳴らし、沙霧の口に歯ブラシを差し込んだ。
「……んっ♡」
しゃこしゃこ。
沙霧の顎を支え、口の中を覗き込む。こんなの、親が小さな子供にするようなことなのに──
「……んぅ、お上手れす♡」
とろんとした瞳で、俺を見上げる沙霧。その無防備すぎる姿に、心臓が嫌な音を立てた。今の俺達はたぶん、わんこごっこという枠をとっくに踏み越えてしまっている。
その行き着く先って、どこなんだろ……?
俺はわきあがる焦燥感を誤魔化すように、無心で手を動かし続けた。
歯を磨く音がリビングに響く。その合間にもれる吐息がやけに艶めかしい。
「ごひゅひんひゃまぁ……もっろ、奥まれ……♡」
「言い方ぁぁぁっ!!」
どうしてだよっ?!
歯磨きしてるだけなのに、なんでちょっとエロい雰囲気になるんだよっ?!
せっかく考えないようにしてるのにぃっ!!
思考は沸騰寸前。いや、きっととっくに沸騰している。
けれど、悲鳴を上げる心とは裏腹に、手付きは慎重になる。口内という、非常にデリケートな部分に触れているのだから当然だ。
というか──
一緒に生活して三日目で許される距離感なわけ?
もしかして、俺がおかしいの?
世間的には、これが普通だったりする?
沙霧といると、どこまでが普通で、どこからが異常なのかがさっぱりわからなくなる。俺は妙に悶々としながら、どうにか一通り磨き終えた。
「はい、とりあえず終わったよ。口すすいどいで」
「わふっ♡」
小さく鳴いた沙霧は、俺から歯ブラシを受け取って洗面所へと向かっていった。どうせすぐに戻ってくる、そう思っていたのに──
んんっ……?
帰ってこないな。
沙霧が戻ってきたのは、それから五分ほど経ってからだった。
「ふぅーっ、すっきりしましたわんっ♡」
「……なにしてたの? 時間かかってたけど」
「わん? 仕上げ磨きをしていただけですが?」
あっけらかんと答える沙霧にまた、俺の堪忍袋の緒がぷちんといった。
「だったら最初から自分で磨いたらよくないっ?! 俺がやった意味はっ?!」
「きゃいんっ♡ もう……そんなに怒らないでくださいませ。意味ならちゃんとありますわん」
「……どんな意味よ?」
「えへへ……ご主人様に磨いていただいて、嬉しくて……とってもドキドキしちゃいましたわんっ♡」
「ぐふぅっ……!」
それ反則っ!
ずるすぎるぞ沙霧っ!
瞳を潤ませた蕩け顔で、しかも甘ったるい声で言われたら、反論なんてできるわけがない。
「お、俺も歯磨きしてくるっ……!」
逃げるように立ち上がると、ちょんと袖が摘まれた。
「ご主人様ぁっ♡ 今度は私が磨いてさしあげましょうか?」
「大丈夫っ! 自分でできるからっ!」
「わふん♡ では、してほしくなったら、いつでも言ってくださいませ。お待ちしてますわんっ♡」
「待たなくていいってばっ! してほしくなることなんてないからぁっ!!」
もうこれ以上いじめないでっ……!
本当にギリギリなのっ……!
すでに危険域に突入している心臓の鼓動。俺は撤退を余儀なくされ、胸を押さえて洗面所に逃げ込んだ。
そして、この日の俺は歯磨きに十五分をかけた。たぶん、これまでの人生で最長だった。




