第36話 わがままわんこの、ご褒美の要求
俺の腕を引き、沙霧はゆっくりと歩き出す。そっとその役目を終えようとしていた俺の心臓は、沙霧によって、半ば強引に再起動させられた。
「くぅん……♡ ご主人様ぁ♡」
甘く蕩けるような声。それと同時に、指の隙間をすりすりと撫でてくる。それがまるで電気ショックのように、俺の心臓を強く脈打たせた。
はっ……?!
俺、今……大切な愛犬を遺して逝くところだった?!
うわぁ、危なっ……!
俺がいなくなったら、沙霧が路頭に迷ってしまう。そうなれば、ひもじい思いをさせるだろうし、寂しい思いだって。それは、ご主人様の使命を放棄するに等しい。
そんな謎の責任感で、俺は奇跡的に持ち直した。沙霧がわんこモードで向かってくるのなら、俺もご主人様モードで迎え撃つしかない。
今度は俺から沙霧の手を──いや、リードをしっかりと、けれど優しく握り返す。すると、なぜか沙霧がピクリと肩を跳ねさせ、素っ頓狂な声をあげた。
「はわっ?! ご、ご主人様っ?!」
「なんで沙霧が驚いてんの……? 自分からしてきたくせに」
「い、いえ……ちょっとドキッとしちゃっただけですわん。えへへ……ご主人様、しゅき……♡」
んぐおぉっ……?!?!
今度はまた、俺が悶える番だった。
だめだこのわんこ、破壊力が強すぎる。どれだけ俺の心臓に負荷をかければ気が済むんだ。
でも──
沙霧はこうして、何度もわんことして愛情表現をしてくれるのに、俺は一度もそれに応えていないことを、ふと思い出した。
それはたぶん、良くない。
今後の躾にも影響が出るかもしれないし、信頼関係を築くうえでも大事なことだ。相手がわんこだろうが、人間だろうが、言わなければ伝わらないことだってあるだろう。
照れくさい、なんて言ってはいられない。
そんな考えが頭をよぎり、気付けば俺は足を止め──沙霧を胸に引き寄せていた。
「……えっ?」
「俺も……沙霧が好きだよ。可愛い可愛い、俺のわんこさん」
あくまでも、わんことご主人様という奇妙な関係の上で告げた。けれど、今はこれでいい。本当の気持ちを伝えるのは、もう少し勇気が出てからで。
それにまだ、この心地よいごっこ遊びに浸っていたいから。
沙霧は一瞬、驚いたように目を見開いた。けれど、すぐ頬をふにゃりと緩ませて、小さく鳴いた。まるで、昨夜の夢の再現のように。
「……わん♡ 両想い、ですわん……♡」
一度は肩透かしを食らったが、今度こそ確かに正夢になった。
俺はふっと微笑みを返し、また歩き出す。もちろん、沙霧と指を絡ませ、腕に抱きつかれたままで。
それから俺達は、お互いに一言も口を開かなかった。
恥ずかしかったからなのか、それとも、もう言葉は必要ないと思ったからなのか。どちらにせよ、繋いだ手から伝わる熱だけで、心は十分に満たされていた。
家に帰り着き玄関を開けると、沙霧はするりと俺の腕から離れ、真っ先に家へと飛び込んでいく。そして靴を脱ぎ、くるりと振り返る。
「おかえりなさいませっ、ご主人様ぁっ♡」
「いや、一緒に帰ってきたじゃん」
「細かいことは言いっこなしですっ。ご主人様をお出迎えするのは、愛犬としての勤めですわん♡」
「それは知らなかったなぁ。それじゃあ──ただいま、沙霧」
「わふんっ♡」
嬉しそうに鳴いた沙霧の頭を、よしよしと撫でてやる。家の中に入ってしまえば、他人の目はない。つまり、もう変な遠慮は不要だ。
「さて──わかってると思うけど、まずは手洗いだよ」
「わんっ♡ またご主人様に洗ってもらいたいですわんっ」
「えっ……?」
「だって、昨日は洗ってくださったじゃないですか」
「いやぁ……そうだけど」
確かにやった。夕方のお散歩という体を取った買い出しの後で、変な勢いに突き動かされて。それをまさか、今日は沙霧から強請られるとは予想外すぎる。
「だめ、なのですわん……? 私、今日はとっても頑張りましたのに……ちゃんと、ご主人様との秘密を守り通したんですよ……」
しゅんとうなだれる沙霧。悲しそうに犬耳が垂れ、尻尾が脚の間に隠れていく。それでもめげずに、上目遣いに見上げてくる。
そんな顔をされて、だめとは言えない。
まったく……甘いご主人様だよ、俺は。
ため息混じりに、ふっと気が緩んだ。
沙霧が俺の隙を見逃すはずがない。一息にトドメを刺しにきた。
「ご主人様ぁ……ご褒美、ほしいですわん……」
あぁ……やっぱり。
ついにこの時が来たか。
俺は瞬時に悟った。この甘えん坊わんこが、あれだけの手柄を立てて、ご褒美を要求しないなんてあり得ない。それくらい、まだ沙霧のご主人様歴が浅い俺でもわかる。
そして、その要求を俺も楽しみにしていたのも事実。なら──
「わかったよ。いい子には、たくさんご褒美あげないとだよね」
「ご主人様ぁっ♡ じゃあ、じゃあっ! 今日が終わるまででいいので、私のわがまま、ぜーんぶ叶えてくださいっ! わんわんっ♡」
「はぇ……? 全部って、手洗いだけじゃなく……?」
「たくさんって、言ってくださったのはご主人様ですわんっ!」
「あっ……!」
やっべ……!
もしかして俺、余計なこと言っちゃった……?
今更気付いたところで、手遅れである。
「えへ……やっぱりご主人様、らいしゅきっ!♡」
キラッキラに瞳を輝かせた沙霧は、全力で胸に飛び込んでくる。ぶんぶん振られている尻尾が、その喜びようを物語っていた。
もうやめてっ!
あんまり好き好き連呼されると、ご主人様モード保てなくなっちゃうからぁっ!!
さらなる追撃を避けるため、俺は沙霧を連れて洗面所へ直行した。
「ほら、綺麗にしような」
「きゅーん♡」
嬉しそうに鳴いた沙霧の後ろに立ち、その小柄な身体を抱き締めるようにして、ハンドソープで手を洗ってやる。
ご主人様としてやるべきことをしているだけだ──と、必死で自分に言い聞かせながら。
「よし、こんなもんかな……?」
「まだ、ですわん……指の間まで、もっとしっかりと……」
「うん……」
返事をして、もう一度ハンドソープの泡で沙霧の手を包み込む。泡にまみれた手と手を重ね合わせながら、俺達の間に静かな時間が流れた。
指先を滑らせるたび、沙霧はくすぐったそうに肩を震わせて笑う。その無邪気な表情が、どうしようもなく愛おしい。
これは……俺にとってもご褒美かも。
やってることは昨日と同じはずなのに、たった一日でここまで変わるなんて──
「はいっ。今度こそ、綺麗になったよ」
「わふ……♡ ありがとうございます、ご主人様っ!」
濡れた手をタオルで拭きながら、沙霧は幸せそうにふわふわと尻尾を振った。その姿を見て、俺もつい笑ってしまう。
はてさて、次はどんなわがままを要求されるのやら。
今日が終わるまで、か……。
長い時間になりそうだなぁ。




