第28話 登校わんこと、発言矯正トレーニング
沙霧を引き連れて歩く俺は、どこか新米ドッグトレーナーのような心持ちだった。リードをぎゅっと握って、暴走を食い止めるべく悪戦苦闘している。
この道中できっちりと躾を完了させなければ、学校でどんな目に遭うかわかったもんではない。俺の平穏な日常の存続がかかっているのだから、必死にもなる。
「沙霧」
「わんっ♡」
俺が呼べば、ちゃんと応えてくれる沙霧。とても賢い、いい子である。
ただし、これが家の外でなければという注釈が付く。
「……沙霧、またわんが出てるって!」
「はわっ……! ごめんなさい、ご主人様ぁ……」
しゅんと肩を落とす沙霧に、俺は頭を抱えた。
誰か……このポンコツわんこの正しい躾方、教えてくれませんかね?
熟練のドッグトレーナーを頼りたい気持ちでいっぱいだが、あいにくと周りにはドッグトレーナーどころか誰もいない。いたらいたで、困ったことになるわけだが。
にしても、家を出る直前のあの自信満々な発言はどこへ行ったのやら。『わん』を封じれば、『ご主人様』が出る。『ご主人様』を封じればきっと──
「……ご主人様もだめだってば」
「そ、そうでしたわんっ……!」
ほら、ご覧の有様だ。もう諦めるしかないのだろうか──
思わず匙を投げかけて、慌てて思いとどまる。
わんこの躾は根比べだ。俺が先に音を上げるわけにはいかない。沙霧を立派なわんこに育て上げるためにも。
……って、わんこにしてどうするっ?!
逆だろうがっ!!
あぁもう……。
それじゃ自分の首を絞めるだけだってのに……。
くそっ!
時間も限られてるし、どうにかするしかないっ!
沙霧のポンコツっぷりが、俺のドッグトレーナー魂に火を点けた。わんこ発言矯正トレーニング、始動だ。
「沙霧、よく聞いて」
「わんっ♡」
ぐぅっ……!
可愛すぎるっ!
沙霧の無邪気な笑顔が俺の心にクリティカルヒットした。しかし、ここで負けてはならない。
過去の敗因を分析すれば、見えてくるものがある。
一つは、この可愛さにやられて押し切られていたこと。さらにもう一つ、だめと言うばかりで、明確な指示を出していなかったこと。
根気とわかりやすさ、たぶんそれが大事なのだろう。
「返事はわんじゃなくて──はい、でしょ?」
「あっ……そうでした! はいっ、ご主人様っ!」
「うん、よくできました」
まだだめな部分はあるが、ここで一回褒めておく。頭をぽんぽんしてあげると、嬉しそうにぱたぱたと尻尾が揺れた。
「えへへ♡ 私もやればできるのですっ!」
「じゃあその調子でもう一ついくよ。俺を呼ぶ時は、どうするんだったかな?」
優しく諭すように問いかけると、沙霧は思案げに首を傾げる。それから恥ずかしそうに、ほんのりと頬を赤く染めた。
「えっと……樹、くん……?」
「完璧だよ沙霧! 偉いぞっ!」
ちょっとだけ、感激してしまった。ようやく俺の努力が実を結んだのだ。あとはこれを維持してもらうだけ。でも、その前に──
「頑張った子にはご褒美あげないと、ね?」
「くぅん……♡ でしたら、いっぱいよしよししてほしいですっ」
この際、多少のわんこっぽさが残っていることには目をつむってあげよう。また沙霧の頭に手を置き、わしゃわしゃと撫で回す。沙霧は気持ちよさそうに、うっとりと目を細めた。
「ごしゅ──じゃなくて……樹くん、のよしよしは偉大です……これがあれば、なんでもできちゃいそうですっ」
「そう? なら、もっとしてあげちゃおうかな」
「えへへ……幸せですっ♡」
ひとしきり撫で続けていると、沙霧の口からほぅと吐息がもれた。
さて──これで一安心だ。
わんこ発言矯正がうまくいった手応えに、胸を撫でおろす。俺の躾スキルの未熟さで沙霧に混乱させてしまったところもあるだろうが、結果良ければ全て良し。
ついにやり遂げたのだ。
沙霧も偉いが、俺も偉い!
「じゃあ、少しだけ急ごうか。時間も危なくなってきたからね」
「はいっ、樹くんっ!」
明るく、自信に満ちた返事だった。
うん、いい感じだ。これなら、どこに出しても本性がわんこだとは見破られないだろう。
晴れ渡る空の下を、二人並んで歩いていく。爽やかな風が吹き抜け、沙霧の髪が朝陽に照らされながらさらさらと流れた。
これこそ、俺が待ち望んでいた穏やかな朝のひととき──
の、はずだった。
いよいよ学校が近付いてきて、俺達の他にも登校する生徒が周りにちらほらと現れ始めた。だが、ふと気が付くと俺の手には、まだ小さな手がきゅっと握られている。
「あの……沙霧さん? そろそろ、その……」
「えっ? なにがです?」
「いや、ほら……手が……」
「手じゃないです。これはリード、ですもん」
「そうかもしれないけどっ……!」
俺と沙霧の間の認識はリードであっても、他人から見れば、仲良しカップルのそれでしかない。実際にはご主人様とわんこという関係だが、誰もそうは思ってくれないだろう。
「……だめ、なんですか?」
涙で潤んだ瞳で見上げられて、言葉に詰まる。
だからその顔は反則なんだってばっ!
「だめじゃないけど……学校も近いし……」
「樹くんは……私がどこかへ行ってしまっても良いと言うのですか? リードがなくなったら私、すぐに迷子になってしまいます!」
「ここまで来たら迷わないでしょっ! もうすぐそこが学校だよっ!」
「それでもですっ! 到着するまでがお散歩ですよっ!」
やけにお散歩を強調する沙霧に、軽い目眩を覚えた。発言は矯正できても、中身はわんこのままなのかもしれない。
「でも……」
「こうしていると、安心するんです。樹くんの手、大っきくて温かいですし……」
さらっとそういうこと言うなよなぁ……。
沙霧は絶対に放すまいと、力強く俺の手を握りしめてきた。もちろん、振りほどこうと思えばできないことはない。けれど、不安そうにじっと見つめられると、さすがに実行には移せなかった。
顔が熱くなるのを誤魔化すように、俺は前を向いた。
「……わかったよ。でも、あと少しだけね」
「やったぁ♡」
視界の隅で、沙霧の尻尾が揺れたように見えた。
いや、今の沙霧はわんこを自らの内に封印してくれているはず。俺がそれを信じてあげないでどうする。
つまり気のせいだ。スカートの裾かなにかを見間違えたんだな。そういうことにしておこう、そうに決まってる。
校門が目前に迫る。そこまでたどり着けば、お散歩ミッションは完了。この手も解かれることだろう。自然と、俺の歩みは速くなった。
背中に冷や汗が伝うのを感じながら、あと十歩、あと五歩……と、カウントダウンを取る。
そしてついに──運命のゴールに差しかかったまさにその時。
「……い、樹っ?!」
うわずったような声が、背後から俺の名前を呼んだ。耳慣れた声に恐る恐る振り返ると、驚愕に目を丸くした健太が立っていた。
ほら見ろ、言《《わんこ》》っちゃない……。




