第26話 正夢わんこと、着替えの優先順位
階段を上りきると、二階はまだ薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。九月も半ば。蝉の声はすでに遠のき、朝晩には秋の匂いが混じっている。
俺は沙霧の眠っている部屋の前に立ち、ノックしかけて──やめた。
これから開けようとしているのは、自分の部屋のドア。遠慮する理由なんてないはずだ。たとえ、その中で女の子が寝ていようとも。
そもそも沙霧は、俺のわんことしてここにいる。
それなのにノックなんてしたら、その前提が壊れてしまいそうで……いや、正直に言おう。
沙霧と過ごす時間が、終わってしまう気がしたんだ。
俺はそっとドアノブを回し、静かに開く。
カーテンが閉じられたままの室内には、まだ夜の余韻が残っていた。
ベッドの上で、沙霧がすやすやと眠っている。タオルケットに包まり、胸のあたりで枕をぎゅっと抱きしめて。まるで、俺が抜けた隙間を埋めるように。
頬にかかった髪が、寝息に合わせて微かに揺れた。
「……本当に、よく寝るなぁ」
思わず、笑いがこぼれる。
猫は一日の大半を寝て過ごすというけれど、わんこも同じなのかもしれない。いやもちろん、沙霧が犬でも猫でもないことくらいわかっているが。
でも、この寝顔を見ていると起こすのが惜しくなる。
とはいえ、このまま放っておけば学校に遅刻するのは確実。俺はベッドの縁に腰を下ろし、少し寝乱れた髪をそっと撫でながら声をかける。
「沙霧、朝だよ。起きて」
「わふぅ……あと五分だけ……なでなでしてほしいです……わん……」
「五分も撫で続けるのっ?!」
そこは普通、あと五分寝かせてって言うところじゃないっ?!
微妙にずれたボケをかましてくる沙霧に、声が上ずった。
沙霧は微睡みの中で薄く目を開け、くすりと笑う。
「……冗談ですわん。でも、一分だけでいいので……お願いします、わん」
「どのみち撫でるのね……」
呆れながらも、断りきれない俺。すっかりこの愛犬にペースを握られている。
でもまぁ……これくらいなら、いいか。
俺だけの特権ってことで。
頭を撫でると、髪が指の間をさらさらと流れていく。そのたびに、ほんのり甘い香りがした。
「しょうがないなぁ……一分だけだよ」
「ん〜……♡ ご主人様の手、きもちぃですわん……♡」
うっとりと目を細めて喉を鳴らす。その幸せそうな表情に、結局三十秒おまけしてしまった。
「はい、おしまい。今度こそ起きるよ」
「あぃ……」
こくりと頷いた沙霧は、もぞもぞと動いて四つん這いになる。そのまま腰を高く掲げて、背中をぐぐっと反らした。
「ふぁぁぁぁ…………ん〜っ♡」
その姿は、まるで伸びをするわんこ。
けれど、沙霧は本物のわんこではなく、わんこになりきった女の子である。
ベビードールの肩紐がずり落ち、二つの膨らみがこぼれ落ちそうだ。突き出したお尻も、タオルケットが引っかかっていなければ色々とアウトだった。
見てはいけないと思うのに、視線が外せない。寝起きの声も、妙に色っぽくて──
「朝から刺激が強すぎるって……!」
降参するような俺の言葉は、沙霧には届かなかったらしい。伸びを終え、ベッドにぺたんと女の子座りをした沙霧は、くしくしと目をこすりながら俺を見上げた。
「まだ眠たいですわん……」
「で、でも……そろそろ起きないと……」
「ん〜……♡ ご主人様の匂い……」
あくびを一つした沙霧は、ふらりと身を乗り出し、俺の胸元に顔を埋める。くんくんと匂いを嗅いで、その次の瞬間、ぐんっと伸び上がった。
鼻先同士が掠め、身動ぎを一つでもすれば唇まで触れてしまいそうな距離感。緊張で、身体が強張る。
沙霧はまた俺の匂いを嗅ぎ、ぱぁっと瞳を輝かせた。
「ご主人様から、美味しそうな匂いがしますわん……ぺろっ♡」
「うわっ! ちょっ、沙霧っ?!」
頬をぺろりと舐められて、心臓が跳ね上がった。
「まっ、まさかの……正夢っ?!」
「……正夢って、なんのことですわん?」
「い、いや……なんでもないっ! それよりほら、早く顔洗っておいでよ。朝ごはん、できてるからっ!」
「わんっ♡ ご主人様のごはん、大好きですわんっ! いってきますっ!」
ぱたぱたと尻尾を振りながら、沙霧は部屋を飛び出していった。残された俺は、頬に手を当て、深く息を吐く。
「これ……普通に考えたら、キスじゃん……」
頬を撫でた温もりが、まだそこにしっかりと残っていた。
***
沙霧が出ていった部屋の中、俺は騒がしい心臓をなだめながら着替えを済ませた。それからキッチンに戻ると、そこにはまだ沙霧の姿はない。
女の子は身支度に時間がかかるもの、というのは俺でも知っていることだ。顔を洗い、髪を梳かし、メイクをして、着替えまでするのだからそうなるのも仕方がない。
俺は沙霧を待つ間に、食パンをトースターにセットし、牛乳を電子レンジにかけた。やがて、チンッという音とともにトーストが焼き上がったタイミングで、ぱたぱたと足音が近付いてきた。
「ご主人様ぁ〜っ! お腹すきましたわんっ!」
元気よく飛び込んできた沙霧を見て──俺はフリーズした。
「沙霧っ?! 着替えはっ?!」
沙霧はさっきまでと同じ、ベビードール姿だった。
「だって! 朝ごはんできてるって言ったのはご主人様ですわん。なので、着替える前にきちゃいましたわんっ♡」
にっこりと笑って、当然のように椅子に座る。
肩紐が片方ずり落ちたままで、相変わらず胸元が危うい。しかも、裾から伸びた素足が朝陽に照らされて眩しい。
カーテンを開ききった明るい室内で見ると、また違った魅力が──
……って違うっ!
そうじゃないっ!
「いやいやっ! まず着替えよう?! 食べる前にっ!」
「そんなのあんまりですわんっ! ご主人様のごはんが目の前にあるというのに……すごく、美味しそうですのにぃ……」
ぐぅっ……!
この破壊力のやばさは、俺にしか理解できないはずだ。
沙霧は、あられもない格好からの着替えよりも、俺の作ったごはんを優先してくれている。無防備な服装と、健気なわんこの涙目に、俺はたちまち陥落した。
「……沙霧」
「くぅん……」
俺の呼びかけに、沙霧はしょんぼりと応えた。どうやら、これだけでは俺の想いは伝わらなかったらしい。
ならば、もっとわかりやすく──
「沙霧……よしっ!」
「っ……?! いいんです、わん?」
椅子から立ち上がりかけた姿勢のまま、沙霧は首を傾げる。
「沙霧がいい子だから、今日は特別。明日からは先に着替えるんだよ?」
「わんっ♡ いただきますっ!」
嬉しそうに鳴いた沙霧は、がっつくことなく、きちんと手を合わせる。それから箸を取り、玉子焼きをパクリ。
「ほわぁ……なんですか、この玉子焼きっ! ふわふわで甘くて幸せな味がしますわんっ♡」
よっしゃあっ!!
心の中でガッツポーズを決めた。
「玉子焼き、弁当にも入れてあるから、楽しみにしてなよ」
「はわっ……! 幸せ二倍になりましたわん♡」
玉子焼きよりも甘く蕩けそうな表情に、頬が緩む。俺は、沙霧の前に焼けたばかりのトーストの乗った皿をコトンと置いた。




