第23話 お風呂わんこと、揺らぐ境界線
水風呂がお湯に変わり、ひとしきり身体を温めてから風呂を出た。さっきのとんでも宣言のことは、ひとまず頭の外に追いやって。
徹底的に可愛がると言っても、それはあくまでもわんことしてだ。
……たぶん。
そうそうおかしなことにはならないだろう。
……たぶん。
「沙霧、風呂空いたよ」
ドライヤーを片手に、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると、ソファに座っていた沙霧の身体がビクリと飛び跳ねた。
「はわっ……! お、おかえりなさいませですわんっ……!」
慌てて正座をするその姿は、まるでイタズラがバレて説教を待つ仔犬のようだった。犬耳はしょんぼりと垂れ、尻尾もしゅんと丸まっていた。
「……なにしてんの?」
「あの、その……一人で反省中、ですわん……」
「反省? なんの?」
「それはその……さっきお風呂から追い出されて、思ったのですわん。もしかして、ご主人様を怒らせてしまったんじゃ、ないかって……」
おっと……これは意外だな。
どうやら、沙霧の辞書にも反省という言葉はあるらしい。二日連続で同じことをやらかしたから、そういうのとは無縁だと思い込んでいた。
沙霧は胸の前で両手を組み、立ち上がる。そして、静かに俺の前に歩み寄ってきた。
「ご主人様ぁ……私、悪いところは直します。ちゃんとごめんなさいもします。だから──捨てないでほしいですわん……」
うるうると潤んだ瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。そんな目で見つめられて、怒ってる、なんて言えるわけがない。
俺はそっと右手を持ち上げた。沙霧はピクッと身体を竦ませて、ぎゅっと目をつぶる。
……だめだな、俺。
怖がらせるつもりなんてなかったんだけど。
わんことの関係は、信頼が第一。それがきちんと築けていれば、こんな顔をさせなくてすんだはずなのに。
しかし、そこはまだ正式に沙霧を迎えて初日だという言い訳が立つ。つまり、これからが大事だってことだ。
俺はその手をポンと軽く、沙霧の頭に置く。しっとり艷やかな髪を撫でると、沙霧の瞳が恐る恐る開いた。
「……ご主人様?」
「沙霧。俺はね……反省してる子に、怒るような真似をするつもりはないよ。ただ、風呂に突撃してくるクセだけはなくそうね?」
「……わふん。ごめんなさいですわん……」
「うん、ちゃんと謝れて偉いぞ。そんな沙霧を捨てたりなんて、絶対にしないから──安心しなよ」
「本当……ですわん?」
「本当だって。なんたって沙霧は──俺の愛犬、だからね」
その言葉に、ぺたんとしていた犬耳がピンと立つ。ふわりと大きく尻尾が揺れ、次の瞬間──
「ご主人様ぁっ! 大好きですわんっ♡」
「──ぐふぅっ!?!?」
沙霧が勢いよく飛び込んできて、頭が鳩尾にめり込んだ。息が詰まる俺の胸に追い打ちをかけるように、沙霧は満足気にぐりぐりと額を押し付けてくる。
……まったく、沙霧には敵わないな。
俺は乱れかけた呼吸を整えて、優しく沙霧を引き剥がした。
「ほら、沙霧も風呂に行っておいでよ。また水になっちゃう前にさ」
「あぅ……ご主人様、イジワルですわん。私も反省してますのにぃ……」
「あっ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど。でも、沙霧も荷物運んで疲れてるでしょ。ゆっくり温まってきなよ」
「……はぁい。じゃあ行ってきますけど──」
名残惜しそうにそろりと俺から離れた沙霧は、リビングの隅に置いてあった自分の荷物を手に取った。そして、すれ違いざまに耳元で囁く。
「後でたくさん可愛がってくださるって約束、でしたよね……? 楽しみに、してますわんっ♡」
「……えっ」
沙霧はそれ以上はなにも言わず、するりとリビングを抜け出した。俺はただ、それを呆然と見送るしかなかった。
もしかすると、俺は今の一連の会話で沙霧のなにかに火を付けてしまったのかもしれない。
沙霧が風呂場へ消えてから、部屋の中は急に静かになった。ずっと、絶え間なく聞こえていたわんわんの声がなくなると、拍子抜けするほど空気が落ち着く。
けれど、俺の心臓の鼓動は、それを打ち消すように騒いでいる。
二度目の『大好き』という言葉が頭から離れない。誘惑するように囁かれた去り際の言葉も、耳に残ったままだ。『捨てないで』と、泣きそうになりながら訴えてきた健気さもまた、胸を締めつける。
あんな風に言われたら、誰でもこうなるだろう。
頭ではわかっているのだ。あの全ては、沙霧がわんこになりきった上で発したものだと。
なのに、心がそれを割り切れなくなりつつある。たった一日、ご主人様とわんことして過ごしただけ。でも、安全で、心穏でいられる境界線は、確実に揺らぎ始めていた。
そんな自分に舌打ちをして、俺はソファに背を預けた。そこからは、ほんのりと沙霧の匂いがするような気がした。
静かな部屋の中、時計の秒針の音がやけに大きく響く。遠くから、かすかに届くシャワーの音。
やがて、脱衣所のドアが開く音が聞こえてきた。その瞬間、心臓のリズムが一段加速した。
そして──
「ご主人様ぁっ、お待たせしましたっ! いいお湯でしたわんっ♡」
弾むような沙霧の声に振り返った俺の脳は、フリーズした。
沙霧は、淡いピンク色のベビードールを身にまとっていた。肩から羽織っているガウンが、身体から立ち昇る湯気とともにふわりと揺れる。
長い黒髪から滴る雫が鎖骨を伝い、胸元へと消えていく。
──長い、静寂が世界を染めた。
さっきまではっきりと聞こえていた時計の音も、今は止まったように感じる。
「え……なに、その服……?」
「あれ……なにか、変ですわん?」
沙霧は自分の服を見下ろして、きょとんと首を傾げる。無防備なその仕草が、さらに拍車をかけた。
「いつも、寝る時はこんな感じなのですが……だめ、でしたわん?」
「……まじかよ」
スラリとした綺麗なラインを描く脚は、太ももの中程から先が全て露わになっている。胸元は大きく開き、豊かな膨らみが薄い布地を押し上げていた。
無意識に、ゴクリと喉が鳴る。沙霧は首を傾げたまま、心底不思議そうに瞬きをした。
「……やっぱり、変、でしたか? 似合って、ませんか?」
「いやっ、似合ってる、似合いすぎてるよっ! だから問題、というか……」
「はて? 似合っているのなら、問題はないはずでは?」
「そう、かもしれないけど……」
いや、大問題だってばっ!
だめでしょっ!
俺だって、健全な男子高校生なんだからさぁっ!
「目の毒すぎる……」
俺は小声で、ポツリとこぼした。
正直、目のやり場に困るのだ。だというのに、沙霧はくすぐったそうにくすりと笑う。
「えへ……♡ 似合うって、言ってもらっちゃいましたわん♡」
もしかすると、沙霧は無自覚に人を追い詰める天才なのかもしれない。
俺は黙って視線を逸らし、持ってきておいて使っていなかったドライヤーを沙霧に押し付けた。
「と、とにかくっ! 風邪引く前に髪乾かしなよ!」
「わんっ! 今日もご主人様に乾かしてもらいたいですわんっ!」
そう言って、俺の目の前で華麗なお座りを決める沙霧。そこから繰り出される、おねだりの上目遣いは破壊力が強すぎた。
こんなの、陥落しない方がどうかしている。
「……しょうがないなぁ」
再び手元に戻ってきたドライヤーのコンセントを繋いだ。スイッチを入れると風が鳴り、沙霧の髪から甘いシャンプーの香りが漂う。
なるべく見ないようにと気をつけても、つい視線が吸い寄せられた。
白い肌のうなじ、華奢な肩、髪の隙間から覗くほんのり赤くなった耳。そして、時折振り返って見せてくる無邪気な笑み。
どこをどう見ても、そこにいるのは『わんこ』なんかじゃなくて──
紛れもない、女の子だった。




