第22話 誘惑わんこと、冷たい罠
夕飯とその片付けを終えた俺は、リビングのソファに身体を沈めてのんびりしていた。膝の上には愛犬が頭を乗せてきて、俺はその毛並みを堪能するようにゆったりと撫でる。
穏やかに流れる、至福の時間だった。
「ご主人様のなでなで、最高ですわん……もっとしてほしいですわん♡」
「しょうがないなぁ、沙霧は。よしよし、いい子だ」
「くぅん……♡」
飼い主は猫の奴隷、なんて言葉をよく耳にするが、どうやらそれは猫だけの話ではないらしい。犬でも十分、むしろ従順な分、犬の方が手強いかもしれない。気が付けば、いつの間にか撫でさせられている。これを奴隷と言わずしてなんと言う。
やれやれ、家に可愛いわんこがいると大変だぜ。
…………。
ん……?
ちょっと待ってっ?!
なんで俺、ナチュラルに膝枕なんかさせてんのっ?!
というか、いつの間に?!
我に返った瞬間、ピシリと手が固まった。急に撫でるのを止めたせいか、沙霧は不服そうに眉を寄せて見上げてくる。
「ご主人様ぁ……どうか、しましたわん?」
「い、いや……なんでもないよ。ただ……ちょっと疲れたなって、思っただけ……」
咄嗟に絞り出したのは、誤魔化しに満ちた言葉だった。
「それはいけませんっ!」
ぴょんっと跳ね起きた沙霧は、勢いそのままに俺の隣にしっかりと座り直す。そして、自分の膝をポンポンと叩いた。
「どうぞっ!」
「どうぞって……なに?」
「お疲れのご主人様を私が癒して差し上げますわんっ! ささ、遠慮なく頭をこちらに」
いや、そんな堂々と膝を差し出されても困るんだけど?!
意識が現実に引き戻された今、恥ずかしげもなくそんなことができるわけがない。膝枕なんてするのは、恋人同士、もしくは親子くらいなものだろう。その点、俺達はと言えば主人とわんこという奇妙な関係。クラスメイトでもあるが、それを加味しても大差はない。
「え、えーっと……とりあえず、風呂入れる準備でも、してこようかなぁ……」
俺は半笑いで腰を上げ、そそくさとこの場を離れることを決めた。戦略的撤退ってやつだ。
浴槽を洗って湯を張って、さっさと沙霧を放り込んでしまおう。そうすれば、しばらくは一人の時間が──
「ご主人様っ!」
呼び止められて振り返ると、沙霧は得意気な顔で尻尾をふりふりしていた。
「……どうしたの?」
「お風呂でしたら、すでにいつでも入れるようにしてありますわんっ!」
「……へ? もう準備できてんの?」
「わんっ! ちゃんと、お湯もたっぷり張ってありますわん!」
「……沙霧」
「昨夜は私がお先にいただいてしまったので、今日はご主人様が先に入って、ゆっくり疲れを落としてきてほしいですわん」
柔らかな笑みを浮かべて言う沙霧に、目頭が熱くなってくる。
なんて気の利くわんこなんだ……。
ポンコツだポンコツだと思っていたが、これは考えを改める必要がありそうだ。沙霧は心優しく、優秀なわんこだと。
もしかすると俺は、とんでもなく理想のわんこを拾ってしまったのかもしれない。
「わかった、そうさせてもらうよ。ありがとう、沙霧」
お礼にまたわしゃわしゃと頭を撫で、俺は感動の涙があふれないように堪え、風呂場へと向かった。昨日と同じ轍を踏まないよう、しっかりと着替えを用意してから。
脱衣所を抜けて、浴室のドアを開ける。ふわりと漂う石鹸の匂い、しっかりと掃除の行き届いた浴槽には、沙霧の言葉通り、たっぷりとお湯が張られていた。
「まったく……いつの間にここまでしてくれてたんだか……」
そんな独り言をこぼし、先に全身を隅々まで磨き上げる。この後に沙霧も入るのだから、これは当然の礼儀だ。
シャワーで泡を洗い流したら、いざ浴槽へ。
ちゃぷんと片足を湯に浸けた瞬間、俺は叫び声をあげていた。
「つめてぇぇぇぇぇぇっ……!! 水じゃねぇかこれっ!!」
俺の叫びが、浴室に響き渡る。まだ残暑のしぶとい九月中旬とはいえ、お湯が張ってあると思って足を入れ、実は水だったとなれば叫びもする。
ちくしょうっ、やられた!
また罠じゃんか!
心の中で悪態をついた直後、ドタバタと足音が近付いてくる。やばいと思う間もなく──
「ご主人様ぁっ?! どうされましたのっ?!」
スパーンっと浴室のドアが開き、血相を変えた沙霧が飛び込んできた。一日ぶり、二度目である。
俺の手には、防具足り得るものはなにも握られていない。惜しげもなく全裸を晒し、片足を浴槽に突っ込んだ間抜けなポーズで固まったままだ。
「ちょーーーいっ!! なんでまた入ってきたのっ?!」
「緊急事態かと思いまして!」
「だからっ! 沙霧が入ってきたから緊急事態になってるんだよっ!!」
なんでだよっ?!
なんで毎回こうなるんだよっ?!
怒りと呆れで、もはや前を隠すのすら忘れていた。そこに、沙霧の視線が突き刺さる。ぽっと色付く沙霧の頬。手で顔を覆っているが、指のすき間からきっちりと真ん丸な瞳が覗いている。
「あぅ……ご主人様の裸、また見てしまいました、わん……♡ もうお詫びのしようもありません。こうなっては、私も脱いでご一緒させていただくしか……!」
「やめっ! 脱ぐなっ! 脱がなくていいからぁっ!!」
いそいそとブラウスのボタンを外し始めた沙霧を、必死で止める。淡いピンク色のブラがチラッと見えたところで、どうにか阻止に成功した。
なんなのもう……。
沙霧って、実はただの脱ぎたがりなんじゃ……?
なぜかしゅんとする沙霧に新たな疑惑が生まれかけて、俺はため息をついた。
「ところで沙霧……このお湯って、いつ入れた……?」
「えっ? それはご主人様が学校からお帰りになる前、ですわん」
「それっ、四時間以上前だろうがぁっ!! すっかり水になっちゃってるよっ!!」
「きゃいんっ……♡ えへへ、実はですね──ご主人様へのサプライズに、かの有名な、お風呂かご飯か私かという選択を迫ろうかと思って用意してたんですわんっ」
「新婚かっ?! というか、そんな素振りなかったよねっ?!」
やべぇ……。
もうノリについていけない……。
だが、俺のツッコミで謎にテンションを上げた沙霧がこの程度で止まるわけがない。犬耳をへにゃんとさせ、尻尾をゆっくりと揺らし、俺の両手を取った。
「ご主人様のお帰りが嬉しくてうっかりしておりましたが、そうですね……では改めまして──ご主人様ぁ。ご飯にします? お風呂が先ですか? それとも、私……ですわん?♡」
「…………あのさぁ、ご飯はもう食べたし、風呂も今まさに入ってるところなんだけど?」
「つまりは、私……ということですわんね。もう……ご主人様ったらぁ……♡」
沙霧がわんこらしからぬ仕草でしなをつくった瞬間、俺の中でなにかがブチンと音を立てて切れた。それは堪忍袋の緒だったのかもしれないし、理性の箍だったのかもしれない。
「えぇいっ、ちくしょうっ! もうヤケだ! 沙霧も風呂から上がったら、徹底的に可愛がってやるから覚悟しとけっ!」
「きゃん……♡ ご主人様にいっぱいもふもふされてしまいますわんっ♡」
「とういわけでだ──」
「……わん?」
「しばらくリビングで大人しくしてなさーーーいっ!!」
俺は強引に沙霧を浴室から閉め出した。
そして追い焚きのボタンを押し、まだ水のままの風呂に全身を投じる。そうしていると、熱を持っていた頭がゆっくりと冷えていく。
あれ……なんか俺、勢いでとんでもないこと言ったような?
後悔先に立たず。
今日も今日とて沙霧に振り回されている。俺はぶくぶくと泡を吐き出しながら、湯船に沈んでいった。




