第17話 突撃わんこと、おやつの罠
沙霧は、きちんと待てのできるわんこである。
俺が買ってきた食材達を整理し、冷蔵庫に片付けている間、沙霧はキッチンの入り口付近で姿勢を正し、じっと俺を見守っていた。
わんこの中にはイタズラ好きな子も多いと聞くが、どうやら沙霧はそういうタイプではないらしい。
そんな賢く従順ないい子には、ご褒美が必要だろう。
片付けを終えた俺は、戸棚から二枚入りのクッキーを二袋取り出した。もちろん一つは俺の、もう一つは沙霧の分だ。それを片手に、キッチンを出る。
「沙霧、おいで。おやつタイムにしよう」
「わんっ!」
向かう先はリビングのソファ。
俺が腰を下ろすと、沙霧もすぐに隣にちょこんと座った。視線は、俺の手にあるクッキーに釘付けである。
「いい子にしてたから、ご褒美だよ」
「わふん、嬉しいですわんっ! ありがとうございます、ご主人様っ」
「ん、ちょっとだけ待ってね」
目を輝かせる沙霧に笑みを返し、包みを破る。中からクッキーを一枚取り出すと、沙霧はぐっと身を乗り出してきた。
「……待てだよ」
「わんっ! 待ちますわん!」
すぐに背筋を伸ばし、ピタリと静止する沙霧。待てのコマンドは完璧なようだが、うずうずと揺れる尻尾が隠しきれていない。
クッキーと俺の顔を交互に見つめる仕草が可愛くて、もう少し眺めていたくなる。でも、我慢させすぎるのも可哀想だ。俺はクッキーを沙霧の口の前に差し出した。
「よしっ」
短く声を掛けると、沙霧はパクリと噛み付いた。サクッと小気味よい音がして、クッキーは半分ほど沙霧の口の中に消えていった。
こくんと喉を鳴らした沙霧は、頬に手を当ててうっとりと呟く。
「えへへ……ご主人様に食べさせてもらっちゃいましたわん」
「まだ残ってるよ。ほら、あーん」
「はーむっ! ん〜っ、幸せですわん♡」
「そりゃよかった。もう一枚あるから、好きに食べな」
まだ袋の中に残っていたクッキーを手渡そうとすると、なぜか沙霧はすっと手を引っ込めた。代わりに静かに目を閉じ、小さく口を開く。そこから、整った並びの歯と、血色の良いピンク色の舌がちらりと覗いた。
「えっと……沙霧?」
「……最後まで、ご主人様の手から食べたいわん」
「んぐっ……!」
あざとい。でも可愛い。
いじらしく健気なおねだりは、破壊力抜群だった。
……抗えるわけがない。
こんな可愛いわんこを前にして、自分で食べなさいとはとても言えない。俺はもう一度、クッキーを沙霧に差し出した。
「……はい、あーん」
「はむっ♡」
沙霧は嬉々として、俺の手からクッキーを食べる。そして、最後の一欠片を口に含んだ直後──
俺の指をペロリと舐めた。指に残った、わずかな粉すら食べ残さないとでも言うように。
「なっ?! 沙霧っ?!」
「はふぅ……♡ クッキーも、ご主人様の指も、どっちも甘くて美味しかったですわん」
「いやっ、なんで舐めたのっ?!」
「だって……私はご主人様の愛犬ですから。これからも可愛がってもらえるように、ですわん」
「あぁもうっ……本当に沙霧は」
どこまで可愛いわんこになれば気が済むのか。
口の端にクッキーの欠片をつけている姿すら愛らしい。
俺は手を伸ばし、それを指先でそっと拭い取った。
「沙霧、食べカスついてたよ。これも……舐める?」
「はうっ……お行儀が悪くてごめんなさい。今、綺麗にしますわん」
沙霧の小さな舌がまた、ちろっと俺の指を舐めた。くすぐったくて、でも、さらに沙霧への愛着がわいてくる気がした。
……俺、とんでもないことさせてるような?
いや、ここで冷静になったらだめだ。
これはわんことのコミュニケーション、なにもおかしなことはないはず。わんこが飼い主の手を舐めるのは、普通にあることだからな。
そう自分に言い聞かせても、胸のドキドキが収まらない。沙霧もはにかむように笑っていて、恥ずかしいのを誤魔化しているように見える。
その空気に耐えられなくなって、俺は自分の分のクッキーの袋を開けた。一枚取り出して、口に放り込む。サクサクでほんのりと甘いクッキーが、心を解きほぐしてくれるようで──
なのに、やけに強い視線を感じる。沙霧はさっきよりも顔を赤くして、唇を震わせた。
「ご主人様ぁ……それ、間接キスですぅ……」
「…………えっ?!」
思考が一瞬でフリーズする。
いや、待てよ。
俺……今、沙霧に舐められた指でクッキーを食べたよな。
つまり、そういうこと、か?
理解した瞬間、俺の目に映る沙霧から犬耳も尻尾も消え失せた。
そこにいるのは──ただの女の子。しかも、とびきり可憐な。
ふっくらと柔らかそうで、艶のある桜色をした唇に視線が勝手に吸い寄せられる。触れたらきっと、ふにふにで気持ちがいい。
そんなことを考えてしまった俺は、慌てて沙霧から視線を逸らし、咳払いを一つした。
「……沙霧。クッキー、もう一枚……食べる?」
「くぅん……♡ いただきます、わん」
また、俺の手からクッキーを食べる沙霧。そして最後に、パクリと俺の指を口に含んだ。甘えるようにちゅぅっと吸い付いてきて、舌先がくすぐるように、丹念に指を撫でる。
じんわりと熱く、湿った感触に心臓が跳ね上がった。
「沙霧っ?! またっ?!」
「あむあむ……ご主人様の指、美味しいです。今の私はわんちゃんですから、こんなの──ただの愛情表現ですわんっ」
「愛情、表現……?」
「樹くんは……ご主人様ですからね。末永く、可愛がってほしいわん」
「それは……まぁ、いいんだけど……」
「わふんっ! ご主人様、大好きだわんっ♡」
沙霧の頭に再び犬耳が生え、全力で尻尾が振られる。その直後、勢いよく飛びついてきた。
「うわっ……!」
沙霧の頭が、俺の胸にドンとぶつかった。
抱きつかれた衝撃でよろめきながらも、どうにか受け止める。沙霧は顔を隠すように、ぐりぐりと額を押しつけてきた。
「ご主人様ぁっ、よしよししてほしいですわんっ!」
「あ、うん……」
そろりと頭に手を置いて、ゆっくりと滑らせる。柔らかな髪が指のすき間をすり抜けるたび、俺の心臓は鼓動を速めていった。
『大好きだわんっ♡』
この言葉が何度も何度も頭の中に響いて、なにかが弾け飛んだ。
沙霧はたぶん、わんことして言っただけなのだろう。だが、もうそんなことはどうでもいい。こんなことをされて、まともでいられる人間がいたら見てみたいものだ。
「沙霧っ……!」
ただ衝動に任せて、沙霧の背に腕を回し、抱き寄せる。沙霧は、俺の腕の中でピクリと震えた。
やけに熱くなった二人の体温が溶け合い──なぜだかほんの少しだけ、俺達の関係が変わったような気がする。
沙霧の尻尾が、一度だけ緩やかに揺れた。それが答えのような気がして、俺はふっと息を吐いた。




