第15話 わんわん禁止令と、名前呼び
結論から言えば、我が愛犬はすんなりとスーパーへ入店することができた。鼻をひくひくさせ、犬耳をピコピコとあちこちに向け、パタパタと尻尾を振っていても、他の人には普通の人間に見えるようだ。
もっとも、なにが起こるのかわからないのが世の中である。うっかり正体を見破られて、追い出されるだけならまだしも、出禁にでもされてしまったら生活に困る。このスーパーが我が家から一番近いのだ。
って……なんかますます思考が下衆っぽくなってきたな。
これも全て月島さんのわんわん奇行のせいだ。家の中ならともかく、人の目があるところではやめさせるべきだろう。俺が白い目で見られないようにするためにも。
「ねぇ月島さん?」
「わんっ!」
とても元気の良い返事だ。ここは素直で忠実なわんこを褒めるところなのかもしれないが──俺は慌てて周囲を見回す。幸い誰も俺達を気にしている様子はなく、ほっと息を吐いた。
「あのさ……外でわんわん言うのはやめようか。あと、ご主人様呼びも」
「えぇっ?! じゃあ、なんて呼べばいいんですのっ?!」
わんわんを封じたせいで、なぜか急にテンプレお嬢様っぽい口調になってしまったが、問題はそこではない。
「いやっ、最初は普通に呼んでくれてたよね?!」
「うぅ……せっかく呼び慣れてきましたのに」
しゅんと犬耳が垂れ下がり、その姿に心が痛む。しかし、そんなことで折れるわけにはいかないのだ。
こんなやりとりを学校でやらかしてみろ、月島さんを傅かせてわんわん言わせている変態の烙印を押されてしまうに決まってる。これは、俺の平穏なスクールライフ存亡の危機なのである。
……わんこの躾って、難すぎるな。
けれど、妥協点は必要だ。俺だって、なにも完全にやめろと言っているのではない。
「家なら好きに呼んでくれていいから……外ではいい子で言う事聞いてほしいな」
慰めるように髪を撫でると、こくんと小さく頷きが返ってきた。
「わかり、ました……では、外では樹くん、と……」
恥ずかしげに目を伏せ、頬を染めながら俺の名前を呼んだ月島さんに、心臓が止まりかけた。
「な……なんで名前で……?」
「だめ、でしたか?」
「だめじゃないけど……」
なんだこれ……めちゃくちゃ恥ずかしいんだが?
ただ名前を呼ばれた、たったそれだけで胸の奥がくすぐったい。同時に、ほわっと温かい気持ちになるのを感じた。
まともに顔が見れなくて狼狽えていると、月島さんはするりと身を寄せてくる。そして、俺の耳元で、世界中に秘密にするように──ポソポソと囁いた。
「ふふっ。樹くんも、私のことは沙霧と呼んでもいいのですよ? なにせ、ご主人様、ですからね」
「えっ、それは……!」
「呼んでくださらないのですか? 愛犬だと言ってくれたのは、嘘だったんです?」
「嘘じゃ、ないけど……」
「では、試しに呼んでみてください。でないと、お外でもわんわん言いますよ?」
なんという交換条件なんだ。平穏を取るのか、はたまた呼び改めるか、俺の前に突き出されたのはその二択。どちらを選ぶべきかなんて、考えるまでもなかった。
「えっと……沙霧……?」
躊躇いがちに、掠れた声で名を呼ぶ。俺の心臓は、破裂するんじゃないかってくらいに鼓動を速めていた。
月島さん──いや、沙霧の頬もリンゴのように真っ赤に染まる。むず痒さを感じているかのように唇を噛み、そして小さく鳴いた。
「わんっ……嬉しいわん」
「だからわんは禁止だってば!!」
自ら条件を提示しておいて、いきなり破ってくるとは。まさにポンコツわんこそのものだった。
思わずツッコミを入れると、沙霧は驚いたように自分の口を手で押さえる。
「あっ、ごめんなさい……つい、クセで出てしまいました。どうやら私、樹くんのわんちゃんとしての自覚が強すぎるみたいですね……」
照れくさそうに笑う沙霧が、なぜかすごく愛おしい存在に思えてきた。まともに考えればおかしすぎる関係のはずなのに、俺も自覚が出てきたということだろうか。もちろん、沙霧の飼い主──ご主人様としての。
……やば。俺、どんどん沙霧に毒されてくな。
正常な思考と異常な思考が、俺の中でせめぎ合う。その結果、俺は悩むことを放棄した。
もう、その場の勢いに任せればいいんじゃないかって。
家を出てから繋ぎっぱなしの手。いきなり変わってしまった呼び名。どちらも、主人とわんこという関係がなければ成り立たないものだ。一々立ち止まっていたら、俺はいつか狂ってしまうかもしれない。
なら、目先のことだけ考えればいい。さしあたっては、買い物だ。
俺は沙霧の手を引いて、店内を進む。野菜コーナーを通り過ぎると、目当ての鮮魚売り場にたどり着いた。
「沙霧。魚、選んでよ。昨日の残りのラタトゥイユと合わせて洋食系にしようと思うから、そのつもりでね」
「わ、私が選ぶんですかっ?!」
「だって、食べたいって言ったの沙霧じゃん」
「そう、ですけど……なんとなくお魚と言っただけで、そこまでは考えてませんでしたぁ……」
緊張したように、胸の前でぎゅっと手を握りしめた沙霧は、各種魚の切り身が並べられた冷ケースに視線を落としたかと思ったら、意見を伺うようにチラチラと俺を見る。
まったく、困ったわんこだ。仕方がないから助け舟を出してやるか。
「決められないなら、俺が選んじゃうけど?」
「わふん……お願いします」
まーたわんこっぽいこと言ってるし。
と、ツッコミを入れたい気持ちをぐっと抑えて、俺は一つのパックを手に取った。
たぶん、沙霧のわんわん矯正には時間がかかるのだろう。つまり、ここで時間をかけるのは得策ではない。家に帰ってから、じっくりと愛情を込めて躾けるのだ。
「サーモンのムニエル、なんてどうかな?」
さくっとメニューを決めて告げると、沙霧はくりくりな瞳を眩いばかりに輝かせた。
「素敵ですっ! さすがごしゅ──樹くんです!」
「そりゃどうも。んじゃ決まりってことで」
「はわぁ……すごく楽しみですっ!」
「なら、早く帰って作ろうか」
「わんっ♡」
また可愛らしくわんこ返事をした沙霧だが、こんなに喜ばれるともう怒るに怒れない。期待のせいか、やたらと手をにぎにぎしてくる沙霧に、俺は静かにため息をついた。
そのため息が、これまでのものと全くの別物だったとは気付くこともなく。




