第10話 ポンコツわんこと、焦げた匂い
「ごっはんっ、ごっはんっ♪」
ベッドを抜け出した月島さんは、尻尾をぶんぶんと振りながら、ぴょんこぴょんこと飛び跳ねる。どうやらよほどご飯が嬉しいらしい。
あれ──実際には尻尾なんてないはずなのに、俺、どうかしてんのかな……?
月島さんは俺に調教されたなんて言っていたが……むしろ、調教されてしまったのは俺の方なのではないだろうか。
俺の目がまだ寝ぼけているのか、月島さんの黒髪が艶めく頭からは黒い犬耳が、お尻の辺りからはふさふさと毛並みの良い尻尾がくっきりと見えている。
あまりにも元気に振られる尻尾、つい触れてみたくなって手を伸ばすと、虚しく宙を切った。俺はひとり、ぼんやりと手を見つめた。
……なにしてんだろ、俺。
朝からこんな幻覚が見えるほど、さらに進化したわんこモードが強烈だったようだ。その諸悪の根源たる月島さんは、ちょこんと俺の前に立ち、にぱっと明るい笑顔で見上げてくる。
俺が淡い憧れを抱いていた頃の月島さんの面影は、もうどこにもない。どこからどう見ても、ただの人懐っこいわんこだった。
「あい──ご主人様っ、今日の朝ごはんはなんでしょう?」
「なんで今呼び直したっ?!」
「そっちの方が喜んでもらえるかなぁと思いまして」
「あー、うん……そっか」
なんだか段々と慣れつつある自分にびっくりだ。人の適応能力とはなんと素晴らしいものか。俺はやれやれと頭を振って、月島さんの横を通り過ぎる。
「月島さんは、パンとご飯どっちがいい?」
そう尋ねながら、ドアを開ける直前で振り返ると、月島さんは目を丸くしてきょとんとしていた。
「私が選んでも……いいんですわんか?」
「また無理にわん挟んできたな……いいよ、どっちでもすぐ用意できるし。おかずはそれに合わせるから、選んじゃって」
「じゃあ……パンがいいですわんっ」
「了解。じゃあ、準備してる間に着替えておいでよ。洗濯物、たぶんもう乾いてると思うからさ」
だぼだぼTシャツに加えて、その中は履いてない着けてない状態でいつまでもいられるのは俺が困る。主に、理性的な意味で。
「あ……そうでした。えへへ……いってきますわんっ!」
自分の身体を見下ろした月島さんは、ちょっぴり恥ずかしげに胸元を押さえ、元気よく返事をして俺の部屋を飛び出していった。
……一応、羞恥心は残ってるのか?
あまりにもわんわんが板につきすぎて、それすらどこかに置き忘れてきてしまったんじゃないかと心配していたところだった。
月島さんにまだ人の心が残っていたことに安堵して、俺も階下に下りる。顔を洗いたかったが、我が家の洗面所は脱衣所を兼ねている。そこでは只今月島さんが着替えの真っ最中なので、諦めてその前を横切ろうとした時だった。
「あああっ!!」
既視感のある叫び声に、心臓が跳ね上がった。発信源は、もちろん脱衣所である。
……またか。
なんとなく予想はしていたが、月島さんがいると、穏やかな朝というわけにはいかないようだ。
俺は、もう何度目かもわからないため息をついた。
「月島さん、どうしたの? 大丈夫?」
「……大丈夫、じゃないですぅ」
返ってきたのは、弱々しい声。続いて、静かにドアが開き、犬耳をしゅんとしおれさせた月島さんが出てきた。
「今度はなにがあったの?」
「えっと……ブラが……しっかり乾燥機にかけられて……形が崩れちゃいましたぁ……!」
月島さんはめそめそと涙で瞳を濡らし、俺の前に両手で淡い水色のなにかを広げた。
「ほら、見てくださいっ! ぺしゃんこですっ……!」
それは紛れもなく、女性用下着だった。寝ている間ずっと押し付けられていた、やわやわでふわふわなアレを守るための。
今は見るも無残に潰れているが、本来の形を想像させるには十分だった。
「なんで見せたっ?!」
「だって! ご主人様のせいだわん……」
「いや、洗濯機に入れたの自分だよね?!」
「うぅ……今日もツッコミの切れ味がさすがですわん。でもこれ……お気に入りでしたのに、もう着られません……」
「うっ……」
だらんと垂れ下がり、股の間に挟まれるようになってしまった幻覚犬尻尾が痛々しい。そんな姿を見せられて、さらに追い込むようなことを言えるわけがない。
ペットには、愛情を持って接するのが基本だ。もちろん、躾もきちんとしなければならない。初めて迎えたわんこで慣れない部分も多いが──
俺はポンと、月島さんの頭に手を置いた。わしゃわしゃ撫で回すと、涙で潤んだ瞳で見上げてくる。
「これからは、乾燥はかけないように気をつけような」
「わふん……」
こくりと頷いてくれる、素直ないい子だった。愛いやつめ、おまけでもう少しよしよししてあげよう。
「くぅん……♡」
月島わんこが嬉しそうに喉を鳴らした。犬耳はピンと立ち上がり、尻尾も機嫌が直ったようにゆらゆらと揺れ始める。こんなもんでいいだろう。
「さて、そのぺしゃんこはひとまず諦めてもらうとして……残りの着替え済ませちゃいなよ。そしたらご飯にしよう」
「わんっ!」
このままいつまでも撫でていたいたいとは思うが、今日は起き抜けからすでに出遅れている。急がなければ、本格的に遅刻だ。
やれやれ、家に可愛いわんこがいると大変だぜ。いつもは弁当も作ってるけど、今日は諦めるしかないな。
キッチンに向かい、冷蔵庫からハムを一パックと卵を二つ、それから牛乳を取り出す。フライパンに軽く油をならして火にかけ、ハムを焼いていく。その上に卵を割り落として蓋をした。
時間がないから、お手軽にハムエッグトーストだ。
ハムと卵が焼けるまでには、まだやることがある。マグカップ二つに牛乳を注いで電子レンジに、食パン二枚はトースターへ。
全ての作業を終えた俺は──ハッとした。
やっべぇ……俺、普通に受け入れてる……。
さっき、完全に犬扱いしてたぞ……。
その事実に気付いた瞬間愕然として、俺は膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「ご主人様っ! お着替え終わりましたわんっ──って、どうしたんですかぁっ?!」
拾った時と同じ私服姿に戻ったポチ月島さんは、心配そうにトテトテと駆け寄ってくる。
「いや……現実と空想の壁にぶち当たってただけ」
「それはいけませんね。私が慰めて差し上げます」
ふわりと、頭が抱きしめられた。
「……たくさん優しくしてくれたお礼ですわん」
後頭部に、ぽよんとした感触が当たる。着替えを済ませてもなお、月島さんの防御力は低かった。俺のTシャツから、自前のTシャツに変わっただけなので当然である。
「月島さん、おすわり」
俺は短くコマンドを唱えて立ち上がる。
「わんっ!」
月島さんは指示に従い、即座にしゃがみ込んだ。さすが賢い、これならお手やおかわりもすぐに覚えられるだろう。
「そのまま待て」
そう言い残して、俺は自室に駆け上がる。適当な上着を持って戻り、月島さんの肩に羽織らせた。これで多少はマシになるはずだ。少なくとも、見た目的には。
そして再びのため息。
……もう勘弁して。
「ご主人様、なんか焦げ臭いけど大丈夫ですわん?」
焦げたハムエッグの香りが、俺の敗北を告げていた。




