骨城の朝
骨城の朝は遅く、昼でもない時間に始まる。石畳に散る光は白骨のように薄く、屋根の影はいつも少しだけ背を曲げている。市場には生者の笑い声は少なく、代わりに古いスプーンの金属音や、封蝋をちぎる指の音が目立つ。ここでは「過去」を配る者が重宝される。過去は重いが、業として軽く包まれて渡される。
稲荷巳郎は配達鞄を肩にかけ、いつもの順路を歩いた。鞄の中には封のされた手紙が幾通か――どれも外に住所がない。住所の代わりに短い注記がある。「忘却の側へ」「戻すべし」「保持者:未定」。骨城の郵便は住所ではなく、欠落の種類で振り分けられる。手紙は人の忘れた何かを運び、その受取人が指先で触れると、触れた部位の記憶がひとつ書き換わる。古い怒りが沈み、子どもの名が消え、思い出の色が変わる。取引は簡潔だ。受取り、読む、そして何かがまた別の場所へ跳ね返る。
巳郎は配達人としての礼儀を心得ていた。手紙を受け取ったら、まず外側を三度撫でる。これは「封印の挨拶」だ。次に受取人の掌に手紙を乗せ、口元で短く「どうぞ」と告げる。最後に背を向けて三歩歩き、後ろから届く反応を聞く。反応が小さいうちは配達は成功だ。大声で泣いたり、叫び声がこだまする時は、余波が大きく、誰かが代償を払う。巳郎は今日も慎重に歩いた。
最初の配達先は市場の外れにある骨董屋だった。店主は顔の皮膚が皺になって落ちているような老人で、いつも古い茶椀の影に身を隠している。巳郎はそっと手紙を差し出した。老人は封を裂きもせず、指先で表面をなぞっただけで、目を細めた。
「ああ、来たか」老人は低く言った。声は陶器を叩いたときの余韻に似ていた。「この種の手紙は、昔の女房が置いていった香りを、二日だけ返すらしい。明日にはまた消えるだろうが、夕食の時にその香りを胸に抱えるためにな」
巳郎は黙ってうなずき、三歩下がった。背後からは、市場の向こうで誰かが紙を揉む音がしていた。老人の目に淡い光が戻る。巳郎はそれが満足かどうか分からないまま、次の配達へ向かった。
二軒目は古い修道院の中にある小さな暖炉のある部屋だった。そこに住む女は、幼い頃の自分が何度も出入りしていたという迷路のような庭の記憶を求めていた。巳郎は手紙を渡すと、女は封を切るでもなく、紙を膝に置き、目を閉じた。女の顔に一瞬、子どもの光が差した。彼女は笑った。「ああ、思い出すわ。小さな犬の足音、母の薬の匂い」そして、次の瞬間、女の指先が白くなり、視線は遠くへ行った。巳郎はその変化を背中越しに感じた。受け取ったものは確かに戻ったが、返すものが別の棚へ移動した――それが配達のルールだ。
配達を続けるうちに、巳郎の胸にはいつもならない冷たさが溜まっていった。配達人は中立の立場だと教わる。欲も罪も感情も、配達の途中で薄れていく。だがここ数日、巳郎は自分の胸からいくつかの景色が消えていくのを感じていた。それは最初は些末なものだった。幼い頃に拾った青い石の存在、母が作ってくれた薄い味噌汁の香り――そんな小さな証拠だ。配達をするほど、何かが取り残される。
そして昼下がり、巳郎が持つ最後の手紙が、彼の鞄でひらりと動いた。封は重く、封蝋には奇妙な印が押されていた。印は円の中央に小さな三角が入っていて、そこに一本の縦線が刻まれている。巳郎はその印を見た瞬間、胸の奥の何かがひりつくのを感じた。印象は記憶の欠片のように親しい。彼は忘れているのではなく、誰かが先に忘れて代わりにその記憶を届けている――そう思った。
配達先は、骨城の一番古い図書館の管理人だと記されていた。図書館は骨のように白く、入り口の門にはいつも閉じられた鍵の重みがあった。巳郎は鞄を押し下げ、門をくぐった。中は静かで、埃が空中に緩やかな道を作っている。管理人は薄い紙のような存在で、机に座って手紙を待っていた。
「また君か」管理人は言った。声はページをめくる音を伴っていた。「今のところ、返事はほとんどない。だが時折、意図せずして誰かの記憶がここへ戻ってくる。それで十分だ」
巳郎は手紙を差し出した。管理人は印を見て、表情を変えた。彼の指先が封を撫でると、封蝋の縁がかすかに崩れ、紙の中から微かな灰の匂いが立ち上った。管理人は封を開く前にゆっくりと巳郎を見た。
「これは、誰宛てだ」管理人は低く訊いた。声はいつもより遠かった。
巳郎は答えられなかった。手紙の表面に、いつのまにか自分の名前が薄く浮かんでいたのだ。文字は自分の筆跡に似ていて、しかし微かに歪んでいる。管理人は封を裂き、中紙を広げた。そこに書かれていたのは、少年が路地裏で手にした紙切れの話だった――巳郎が覚えているはずの、だが忘れている小さな出来事。しかし文の一節に、見知らぬ地名と見知らぬ人名が混じっている。読めば読むほど、記憶は馴染んでゆき、同時に巳郎の胸にぽっかりとした穴が開くようだった。
管理人は顔を上げた。目に光が宿っているが、その瞳は何かを測っているだけに見えた。「配達とは、不在を埋めることだ。しかし、埋めた後に誰が消えるかは、予測できぬ」
巳郎は背後の門の方を見た。門の向こうには、今日もまた誰かが忘れ物をしていく気配がある。彼は自分の手から、何かが滑り落ちるのを感じた。そして手紙の最後の行に視線が触れたとき、そこに小さく記されている言葉が目に入った――「返送先:稲荷巳郎」。
その瞬間、周囲の空気が一度ひくついた。巳郎の足元で、石畳の一枚が小さな音を立てて割れ、その割れ目から冷たい風が流れ込んだ。背筋が凍るほどの恐れではなかった。ただ、確かな欠落の匂い。巳郎は手紙を握り締め、深く息をついた。これが始まりか、それとも終わりか――彼にはまだわからなかった。
だが一つだけ。配達はいつも戻ってくるという、骨城での古い諺が彼の頭に浮かんだ。「出した物は、いつか戻る。だが戻る者が同じとは限らぬ」
巳郎は門を出て、次の配達へと向かった。空には骨のような雲がゆっくりと流れていた。




