雨は何処へ降る
2日ばかり秋晴れに恵まれ、仕事終わりに無理をしてでも稲刈りを行ったが、3日目は流石に晴天が続かず降る雨を眺めながらの休日となった。
本当にどうでも良いことなのだが、アスファルトの上に降る雨の様子がどうも好きではない。
なぜ?と問う人は多い。そうして私が説明をすると、誰に話してもわけがわからないという顔をされるのであまり話さないことにしている。
雨は地面に降るものではない。
脈絡が無いのは承知だが、雨はまず木の上に降るだろうという謎の観念がある。地面に降るのではない。植物を、特に空へ向かって伸びる木の葉や枝に、最初に雨が触れるのだと。そういう感じ方が幼いころからずっとある。
雨は雲より生じる。それが生じる瞬間を我々は普通、知っていても直に見ることはない。そして雨粒は天から落ちてくる。
木は様々生じ方があるが、ここでは種から生じるとしよう。木を種から育てた人はそういないと思うが、であればやはり、種が芽吹く瞬間に立ち合い、大きく育っていくその様をゆっくり近くで見る人は少ないと思う。そして木は言わずもがな、地に生じて天を目指し伸びていくのだ。
人々の頭のはるか上、地上10メートルの空で彼らは出会う。天より落ちる雨粒と、空を目指す木の枝葉が、すれ違うように、偶然のように、ぶつかって丸い水の玉になる。あるいは枝から幹を伝って垂れ落ちる分もあるかもしれない。
うまく言えないがつまり、それこそが雨の通る本来のルートなのではなかろうか。全く役に立ちもしない妄想じみた観念だが、人生の実に30年近くを、雨のイメージに樹木を重ねて見てきた。
雨の下降しようとする力と、樹木の上昇しようとする力。それらが偶然触れ合ってその先にさまざまなものがある。それは木の実を実らせるかもしれないし、木の真下で雨宿りを始める人か獣が来るのかもしれない。雨と木が出会うとき、様々の命の活動が始まるかも知れないし、実は別に始まることなく、水分子が植物体の上に落ち、吸収されて光合成に使われるのかと考えることもできる。
なんというかその現象にに意味を持たせても持たせなくても良い、そういう、雨がもたらす物語が好きだ。
これがもし、雨がアスファルトに降ればその先はなんというかバリエーションに乏しい。整備された排水溝を通って川へ出て海行きとなる。 どうせなら雨の降る先に、なにか物語があったらいいなと思うのだ。
ただの天気だろうと言われればそうだけれど、降ってきた雨粒にはそれなりの物語を持たせて自然の中を循環していてほしいなあと、勝手に思っている。
この世にある物事すべてに意味があったほうが良い。私の興味のない何かにも、それなりに意味がありそこに心を震わせる誰かがいたほうがいい。
私が知らない物事にも意味があり、尊ぶ人はそれを尊ぶような、そういう形なき物語。世界がそういうものにあふれていればこそ、悲しい出来事や他者の無理解を、覚悟をもって受け入れられる、そんな気がするのだ。
暇庭宅男の雨に関する感覚を書き綴ったもの。