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栄光の彼方に光る月  作者: はぐりはるひさ


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第7話

続く2回戦と3回戦も、間谷地高校・多々井学園高校ともに、初戦同様の試合運びで勝利を収めた。

2回戦はともかく、3回戦に関してはやはり、より強い相手と戦うことになったせいか、

多々井学園高校の猛攻も、それまでほどの勢いはなかったが、それでも9得点を取った。


間谷地高校、もといカナタのピッチングは、この3回戦ではやや苦戦した。

実はナックルボールには、攻略法がないわけではない。

コントロールが定まらないことを前提として、甘いボールが来るまで待つ「待球作戦」というのが、それだ。

実際このとき、グラウンド上がかなり蒸し暑くなっていたこともあって、

カナタの集中力がやや途切れがちになっていた。

そのために、繊細な投球を必要とするナックルボールの精度が、少し甘くなってしまったのだ。


それに気付いた相手校はこの消極策へと、積極的に打って出て、

果たしてその選択は、相手校にとっては吉と出た。

この試合でカナタは3イニングを投げ、6個のフォアボールを出し3失点と、

6回無失点で2点のリードを守っていた恩智の力投を、水泡に帰してしまった。

この窮地を救ったのは、他でもない盟友だった。


「オラァッ!!」


カッッッ・・・キィーーーン!


『糸を引くような打球がレフトスタンドへと伸びて、伸びて、伸びてぇぇぇ・・・吸い込まれていったぁ!!

逆転サヨナラ2ランホームラン!!3年生、春見君の一撃が出ました!!』


「みっくんーーー!!」


「どうだカナタぁ!!お前がいるから俺も諦めねぇ、って言っただろぉ!?」


『間谷地高校、春見君のサヨナラホームランで3回戦突破、準々決勝へ駒を進めます!』


この様子をスタンドから見ていた人物がいる。

その人物は試合の結末を見届けると、人知れず場から去り、

そして、とある場所へと向かっていった。

そんな人物がいたことは、グラウンド上の両校はもちろんのこと、球場内にいた誰もが知る由もない。


「監督、失礼します」


「やぁ、キミか・・・で、観てきたんだろう?」


「はい、ここに映像とスコアをご用意しております」


「御苦労様・・・ゆっくり見させてもらうよ、次もよろしく頼むぞ」


ここは多々井学園高校の宿舎の一室。

その部屋の主は、監督の四之宮である。

つまり、先ほどまで間谷地高校の試合を見守っていたのは、

四之宮が偵察のために送り込んだスコアラーというわけだ。


そのスコアラーも、実に巧妙に仕立てられていた。

白の野球帽に白いポロシャツ、ベージュのチノパンを履いて、

バックネット裏でビデオカメラとスピードガンを構え、スコアブックをつけながら、

その眼が捉えているのは、スタイルチェンジしても依然プロ注目の右腕であるカナタだ。

端から見れば、プロ野球のスカウトにしか見えない。

しかし、その実、その正体は四之宮が用意した、いわばスパイなのだ。


これもまた、多々井学園高校の、何より四之宮の力が為せる技だった。

四之宮はこの夏を制するために、間谷地高校を、20年来のライバルである上町那由多を、

そしてその上町がエースとして育て上げた堀江彼方を唯一の標的と定めた。

『彼女ら』を倒さなければ、自身の『帝国』を、『王朝』を築くことはできない。


逆に言えば、『彼女ら』と相見えるまでの相手は、ただの木っ端に過ぎない。

木っ端に過ぎないからこそ、県大会と同じ戦い方で粉砕しようとし、実際微塵にできた。


やはり、自分を満たすことをできるのは、自分が定めた『最高の相手』以外にはあり得ない。

その『最高の相手』たりえる『彼女ら』は、自分たちと同じように順調に勝ち上がってきている。

最高にして最後の舞台で、自分に土を持って帰らせると豪語した『彼女』に『最期』を迎えさせるために。

四之宮は、実は1回戦から間谷地高校の試合に、件のスコアラーをバックネット裏へ忍び込ませていたのだった。


「ふん・・・所詮はナックルボーラーということか、やはり待球には弱いと見える

・・・ありきたりではあるがな」


スコアラーが持ってきた映像を、スコアと照らし合わせつつ、

チェアに深く座って、大きなお腹を撫でながら四之宮は見ていた。


15年に渡ったプロ野球での現役生活でも、四之宮がナックルボーラーと対戦した経験はそこまで多くはない。

それだけナックルボーラーというのは希少な存在なのだが、

それでも、まったく対戦経験がないというわけでもない。

来日してくる外国人投手に時折ナックルボーラーがいたし、日本人でも稀にナックルボールを投げる投手がいた。

また、日米野球でメジャーリーグ選抜と対戦したときに、その中にナックルボーラーがいたこともある。

そのときの指示や経験で、「ナックルボーラーには待球作戦が有効」というのは、四之宮も理解していた。


しかし、現役時代から攻撃型選手として鳴らした四之宮には、

その消極的な作戦は、どうもしっくり来なかった。

もとい、『四之宮琉生という美学』には、どこか反するものがあった。


相手の一番自信のある、相手が一番の自慢としている、

その決め球―――マネーピッチを完璧に捉えてこそ、『真の勝利』を迎えられる。

相手の決め球、いわば「一番いい球」を打つことこそが『真の好球必打』。

相手の心を完全に砕く一打を放つことこそが『真の一撃必殺』。


四之宮はそう信じて疑わず、そして現にそうしてきたからこそ、プロ野球の歴史に名を刻んだのだ。

その『彼女』からすれば、カナタの完璧なナックルボールを打ち、

深紅の大優勝旗を手に入れてこそ、『彼女』にとっての完全勝利だ。


しかし、今、四之宮がこうして見ているカナタのナックルボールは『ありきたりな作戦』をもち、

名を棄てて実を取るのが現実的かもしれない、と思わせた。


「やらせるしかない、か・・・んっ」


四之宮の決心に応えるかのように、その胎に宿る赤子たちが胎動した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


3回戦の全試合が終わると、それに続いて即座に、準々決勝以降の抽選会が行われた。

どうやら今年の運命の女神は、本当に悪戯が好きと見える。

この抽選でも、間谷地高校と多々井学園高校は別々の山に振り分けられた。

つまり、これによって、両校が顔を合わせるのは決勝戦以外にはないことが決まったのである。


「いやぁー、こんなことってあるもんなんだなぁ、なぁカナタ、ミツキ」


「いや、ホントに・・・運命のイタズラってヤツですねぇ・・・」


上町の言葉に、カナタが相槌を打つ。

それに続いてミツキが言った。


「でも、ってことはさ」


「ん?みっくん、何?」


「俺ら、勝てるってことじゃねぇの?アイツらにさ」


ミツキのその言葉に、上町もカナタもポカンとしたが、

ミツキは真顔でその先を続けていく。


「だって、監督もカナタも思ってる通りに話が動いてるんだろ?

それが願ったり叶ったりってやつなら、最後までそうなるんじゃねぇの?」


「みっくん・・・さすがに能天気すぎるよ・・・」


「でもなミツキ、お前のそういうところが、チームをここまで導けてるんだろうな」


上町の返しにミツキも思わず照れくさくなったか、

はにかんだ微笑みを浮かべて、頭を掻いた。

そして、話の流れを上町が持っていく。


「で・・・だ、とりあえず話はカナタからも聞いているが・・・

ミツキ、お前、本当に大丈夫なんだろうな?」


「大丈夫ですよ監督、俺を誰だと思ってるんですか」


「ボクから見ても、みっくんは大丈夫ですよ

ですけど・・・お話しした通り、これは『最後の切り札』ですからね」


「うん、分かってるよカナタ、決勝まではこれまで通りの起用法で行く、それは約束する」


「ありがとうございます、監督」


こうして、大会はいよいよ終盤へと差し掛かっていった。

やはりというか、間谷地高校も多々井学園高校も、順当に準々決勝を勝ち上がり、準決勝へと進んだ。

投手力を軸に戦っている間谷地高校は、大会を通して安定した試合運びであり、

多々井学園高校は、アミダが進むに従って相手のチーム力が上がることで、

不安のある投手陣が相手打線に打たれるようになり、失点が増える傾向が高まったが、

自慢の破壊力でそれをカバーしていった。

「多々井学園高校の暴力野球」は、ひとつ、この夏の話題となっていた。


準々決勝から1日空けて準決勝が行われた。

相手の廻り合わせがよかったのか、多々井学園高校はこの試合で、

大会序盤を彷彿とさせるかのような猛打を存分に発揮し、何試合かぶりの圧勝を収めた。


間谷地高校は、少し起用に変更があった。

ここまでの4試合、恩智を先発にして、行けるところまで全力で投げさせ、

そのあとをカナタがリリーフして逃げ切る、という起用法だったのだが、

この準決勝では、もう一人の2年生を先発にし、恩智をリリーフで登板させた。

しかし、これは最初から上町の想定である。

カナタが帰ってこられることがはっきりとした段階で、上町は一つしっかりと心に決めたことがあった。


「決勝はカナタに一人で投げさせる」


それは決して恩情などではない、正攻法だ。


去年の夏、自分たちはカナタをエースに置いて、甲子園優勝の栄冠に輝いた。

今年の春、女体化の宿命とはいえ、不意のアクシデントによって、カナタは登板の機会を失うこととなった。

そしてこの夏、カナタはそれを乗り越え、進化して帰ってきた。

今年もこうして甲子園に来ることができたのは、間違いなくカナタのおかげだ。


もちろん、ミツキや醒ヶ井、恩智などの活躍もあった。

場に慣れた恩智のピッチングは小気味がいいし、それを巧みにコントロールする醒ヶ井のリードも冴え渡り、

何よりも3回戦を勝てたのはミツキのおかげだ。


しかし、『彼女』が帰ってきた以上、このチームのエースはカナタだ。

そのカナタも3年生、この夏で高校野球は終わりだ。

となれば、最後を締めるのはカナタでなくてはならない。

一番最後の一番いい舞台で起用されるべきは、一番いい投手だ。


そのために上町は、準決勝ではどんな展開になろうとも、カナタは絶対に投げさせないと決めていた。

来たる決勝戦で、『彼女』が持てる全力をすべて注ぎ込んでもらうために。


かくして、間谷地高校は準決勝も無事に勝利した。

これで残るは1試合、決勝の相手はすでにはっきりとしている。


「カナタ、行くぞ」


「うん、みっくん」


準決勝と決勝の間は、さらに1日の休養日が設けられている。

決戦を翌日に控え、間谷地高校野球部は宿舎でそれぞれが過ごしていた。

カナタとミツキ、醒ヶ井と恩智、それにヨシノの5人がロビーでくつろいでいると、

見覚えのある体型がそそくさと通り過ぎていくのが見えた。


「ん・・・アレ、監督か?」


「え、そんなわけな・・・ごめん、アレはどう見ても監督だね」


「なんなんですかね、こんな時間に」


醒ヶ井がそう言うのも無理はない。

時計の針はまもなく20時を指そうとしていた。

決勝の試合開始予定時刻は午前10時。

確かに、上町は実際にグラウンドに出るわけではないが、

それでも身体のことを考えたら、部屋で休んでいるべき頃合いである。

しかし、カナタとミツキは、そこまで深刻に考えていなかった。


「まぁ、あの監督のやることだからなぁ」


「んー、実際そうなんだよねぇ・・・あの人、この期に及んでも何かやってそうで・・・」


「それにだな、そろそろ部屋で休むべきなのは・・・お前たちもだろうが!!」


聞こえてきた声に、その場にいた5人全員が驚いたのは言うまでもない。


「うわぁっ!!」

「古市先生!?」

「すすす・・・すいませんっ!!」


「人のことを心配する前に、自分のことに気を遣いなさい

せっかくここまで来れたのに、それで台無しにしてしまっては、元も子もないでしょうが・・・」


「すみません・・・古市先生の言う通りです・・・」


「分かったなら、早く部屋に戻りなさい・・・まぁ、あの人のやることには、私もだいぶ手を焼いているから、

君たちがそう思うのも分かりますけどね・・・」


「古市先生も大変ですね・・・では、失礼します」


「はい、おやすみなさい」


カナタたちが部屋に戻るのを見届けると、

古市は入口のガラス扉の向こうに拡がる夜闇を見つめて呟く。


「まったく・・・上町先生、あなたって人は・・・あぁ、しまった」


古市は部屋に戻る一団を静かに追い掛け、

その中から一人を呼び止めた。


「私市さん、ちょっといいですか?」


「えっ・・・あっ!はいっ!」


古市が呼び止めたのはヨシノであった。

ヨシノは一団にあって少し後ろにいたから、ヨシノが呼び止められたことにカナタたちは気付かず、

またヨシノが離れていったことにも気付かないまま、部屋に戻っていった。

もっともヨシノもヨシノで、カナタたちとはまた別の部屋なので、

今ここでヨシノがいなくなったところで、特に問題もなかった。

問題があるとしたら、何故ヨシノは古市に呼び止められたのか、だけである。


「大変申し訳ないんですが・・・私と一緒に来てもらえませんか?」


「私が・・・ですか?」


「えぇ、というか、私市さん、あなたがいたほうがいいことなので」


「?・・・分かりました」


闇夜の中に拡がる空間。

そこは土と芝、そしてこの数週間に充満した熱気の匂いで満ちていた。

そこに佇むのは、その場には不釣り合いな大きなお腹を抱えた一人の女性。


「・・・20年ぶりか」


上町である。

先ほど、逃げるかのようにそそくさと宿舎から出てきた『彼女』が、そこにいた。

すると、一瞬にして照明が付けられた。

LED化されているとはいえ、急に明るくなると、少し目に来るものはある。


「・・・んっ・・・まぶ・・・し」


「まったく、キミも律儀な奴だねぇ、まさか本当に来てくれるとは」


明るさに目が慣れるのは早かった。

その視線が捉えた先にいたのは、自分と同じように大きなお腹をしている。


「・・・四之宮」


「キミがそこに立つのは、『あの時』以来かな?」


「・・・」


2人が立っているのは、甲子園球場のグラウンドだった。

上町はマウンドに、四之宮は18.44m離れた先のホームベース上にいる。


「・・・ふん、まぁいい、ところで、ちゃんと持ってきただろうね?」


「当たり前だろ・・・なんのつもりかは知らんけどな」


「これはね、上町、私なりに決着をつけたいんだよ」


20年前のあの日、私に屈辱を与えた相手は、

私が行くはずだった聖地で、己が何者かを示せず、

そして『己が何者かを示して』、そのまま去っていった

それはね、私にとって、一度味わったモノがさらに深みを増しただけだったんだよ

なんで私はこんな奴に負けてしまったのか

その想いを忘れることは、この20年、ひとときたりともなかった

その想いを抱えたまま、私はプロ野球で15年戦い、

そして、こうして甲子園球場に帰ってきたんだよ

だからね、上町、私はね


「どうしても、その前にキミと、もう一度戦いたいんだ

監督としてではなく、あの頃のようにバッターとして、ね」


「グラブを持ってこい、というのは、そういうことだったか

しかし・・・しかしだな、四之宮」


「ん?なんだい上町、怖じ気づいたのかい?」


「いや・・・そうじゃなくて・・・」


上町は、それが自分に対するブーメランになることに気付かずに、ついその言葉を口にした。

もちろんそれに悪気などは一切ない、心底からの心配の気持ちだ。

ただ単に、上町自身もそうであることに気付いてないだけだった。


「お前・・・その身体で打てるのか?」


「・・・ふっ・・・ははっ・・・ははははははははははは!!」


「なんだ、何がおかしい」


「キミって奴は、鏡を見たことがあるのかい!?キミも、人のことを言えた身体かな!?」


四之宮にそう言われて、上町は顔色がなかった。

あぁ、そうだった、そういえば私も妊娠しているんだった。

言われてみて、自分が言ったことに恥ずかしさを覚えた。

四之宮だって、上町に恥をかかすために指摘したわけではない。

それは上町にも理解できた。


それよりも、上町は自分が投げられるのかどうかのほうが不安だった。

練習でたまに打撃投手を務めることはあったが、いうてその程度しか近頃は投げていない。

加えて、妊娠してからはよっぽどだ。

まともに果たして身体がちゃんと動くかどうか、上町には想像もつかなかった。


対して四之宮だが、堂々と指導者としてグラウンドに立てるようになってからは、

ノックは自分で打っていたし、特に打撃指導では自ら身体を動かしていたため、

少なくとも上町ほどの不安はなかった。

確かに、お腹が大きくなってからは腰の回転を使うことが難しくなったが、

それでも、天才の名をほしいままにしてきた四之宮だ。

この身体でも充分強い打球を放つことに問題はない。


「さて・・・じゃあ、始めようか?キミから早く打ちたくて、私も身体の疼きが止まらないんだよ」


「・・・わかった」


一瞬、上町が足元を見つめ、頭の中で投球のイメージを作り始めたときだった。

一塁側のベンチから大きな声が聞こえてきた。


「上町!四之宮監督!」

「上町先生!」

「監督さん・・・四之宮琉生!?ホンモノ!?」


「ん・・・え?お前たち、なんでここに・・・」


「なんだい、水を差さないでくれるかな?」


声を上げたのは高津と古市、そしてヨシノ。

つまり、それぞれの陣営の人間である。

彼らはそれぞれ、上町と四之宮が宿舎から出ていったのを追跡し、

お互いに甲子園球場に着いたところで合流した。

そして、お互いの事情やここに来た経緯を話し合い、揃って一塁側のベンチまでやってきたのだった。


「監督さん!その身体で何をするつもりだったんですか!」


ヨシノがベンチから出て、マウンドに向かいながら上町に問い掛ける。

しかし、そのヨシノを見て、今度は上町が声を上げた。


「それ以上こっちに来るな!!」


「な・・・何を言って・・・」


「そのラインを越えるな、と言っているんだ、ヨシノ!!」


上町のその姿を見て、高津の脳裏には、20年前のあの日がフラッシュバックした。

20年前のあの日、あの試合、あの瞬間に自分が経験したあの風景と、

よく似た光景が今まさに、あのときと同じ場所で拡がりそうになっていた。

そして、高津は思わず声を荒げた。


「上町・・・この・・・大馬鹿野郎!!」


その、「魂の叫び」にも似た大声に、側にいた古市はもちろんのこと、

マウンドに向かいかけていたヨシノ、打席に立とうとしていた四之宮、

そして、マウンドからヨシノを制していた上町の、誰もが高津を見た。


「なんだと・・・高津、てめぇ、この野郎・・・」


上町がマウンドを降りて、一塁側ベンチに歩を進めると、

高津もまたダッグアウトから出て、上町に近付いていく。

そして、2人の間合いが触れ合ったとき、高津の腕は上町の襟元を掴んでいた。


「なんのつもりだ、てめぇ!!」


「お前、20年前のことを忘れたんじゃねぇだろうな!!なぁ、上町!!」


お前、あのときと同じ場所で、同じことを繰り返すつもりだってのか!?

そりゃ確かに、あのときと違って、だいぶ育っちゃいるがな

だけど、むしろ何があったっておかしくねぇだろうがよ!

ここに四之宮もいるってことは、お前ら2人の間に何かあるんだろうが

あのときに何があったかは四之宮だって知ってんだよ

それだってのに・・・お前って奴は・・・


「・・・この、大馬鹿野郎」


上町の襟元を掴んだまま、高津は顔を伏せ、人目を憚らずに泣いた。

最初は荒かった上町の呼吸も、その高津を見ているうちに、少しずつ落ち着いてきた。


「あの・・・高津・・・さん?」


「あっ・・・ああ・・・君は、確か・・・私市さん?」


「あっ・・・あっ!すいません!えっと・・・あのですね・・・」


上町と高津2人の様子を見て、ヨシノが思わず声をかけた。


「高津さんが仰っている20年前のこと、私も監督さんから直接聞いているので知っています

実は私、監督さんの体調管理もしているんです」


「と、いうと・・・?」


「こんな時間にどこか出掛けていくじゃないですか

監督さんは、古市先生にだけは何のために出ていくのかを話してたんです

それは、さっき入口で高津さんにもお話しした通りです」


ヨシノの言う通りだった。

甲子園球場に着いて彼らが合流したとき、お互いの経緯を話し合っていたから、

高津も、上町が古市には「四之宮に呼ばれている」ことを話していたことは把握していた。

つまりヨシノが古市に連れられてここまで来たのは、

万が一、上町の体調に何かあったときのためだったのだ。


対して高津は、四之宮から「ちょっと出掛ける」とだけは聞いていたが、

どこに行くのかまでは聞いていなかったし、そもそも今までそんな外出をすることがなかったので、

直感的に「何かある」と思い、四之宮を尾行してきていたのだ。


「上町、今のお前にはこれだけの仲間がいるってのに・・・

なんで同じことを繰り返そうとしたんだよ・・・」


高津は改めて上町に問い掛けた。

それを言われてしまうと、上町も答えようがない。


それは正しく高津の言う通りだった。

20年前、上町は今立っているその丘の上で、その野球人生を終わらせた。

あの頃の上町は、何もかもを自分一人の力だけで解決しようとしていた。

確かにその頃にも仲間はいたが、上町はその仲間のことを信用しきっていなかったのだ。


ヨシノは元はといえば、カナタとミツキのために連れてきた人材であって、

カナタとミツキが無事に出産を終えた今となっては、たまたま自分の専属マネージャーに収まったに過ぎない。

言ってみれば偶然の産物だ。


しかし、偶然の産物だとしても、自分の体調をしっかりと管理してくれる人物が、今の上町にはいるのだ。

その上に、カナタたちには伝えなかったにしても、

妊娠したことも、こうして四之宮に呼び出されたことも、古市には伝えている。

つまり、上町は古市を、何かあったときにとりあえずは場を任せておけるほどに信用しているのだ。


それだけの『仲間』が今の上町にはいるにも関わらず、

数分前に上町がヨシノにしてみせた態度は、20年前のあの日を高津にフラッシュバックさせるには充分すぎた。

重くなった空気が少しずつ軽さを取り戻していく中で、

上町がようやく口を開き、四之宮も応えた。


「・・・そう・・・だな」


「まったく、キミって奴は本当に果報者だね

いや、というか、これだけ頼れる仲間がいて一人でなんとかしようだなんて、傲慢にも程があるよ」


「そういうもんか?お前から見ても?」


「ふん、一人でなんとかできるとしたら、それは私くらいのものだよ

・・・まぁ、だからこそ、一度は私に勝ったんだろうがね」


四之宮には、自身が唯一無二の天才であるという自覚がある。

その自覚がある上で努力を惜しむこともなかった。

だからこそ、ドラフト直後に女体化したものの、女体化選手どころか男性選手の中に紛れても遜色のない、

一流も一流の成績を残して、プロ野球を引退することができたのだ。


その四之宮だからこそ、「一人でなんとかできるとしたら、それは私くらいのものだ」と言うのは、

決して誇張した自己評価などではないことは、誰にでも分かる。

他の人間が言うならそれは嫌味のように聞こえるが、

四之宮が言うからこそ、説得力をもって聞こえるのだ。


その四之宮をして、たった一度だけとはいえ、自分を降した上町のことは認めざるを得ないのだ。

その『たった一度』が、春夏合わせた甲子園への連続出場を止めるものだったのだから、尚更だ。


「まぁいい、さぁ上町、そろそろ始めようじゃないか、私たちには明日もあるのだからねぇ」


そうさ、私がキミをわざわざ呼んだのは、そのためなのさ

そうじゃなかったら、別に『こんな舞台』も用意する必要はない

『キミたち』にふさわしい舞台は、明日ちゃんと用意してあげるよ

だがねぇ上町、『キミ』だけは特別さ

私が認め、私の前でだけ満開となり、そのまま散っていった花、上町那由多

願わくば・・・嗚呼、願わくばこのひとときだけでいい

このひとときだけでいいから、今一度だけ、私の前で咲き誇ってくれないか

その咲き誇った姿、この場で私が、この手、この一振りで改めて


散  ら  せ  て  あ  げ  よ  う  じ  ゃ  な  い  か


それが、私の願い

それこそが、私がキミだけに特別に用意する舞台

20年前のあのとき、私ではない有象無象がキミを摘んだことだけが、ずっと心残りだったのさ


「どうだい、上町?私の願い、叶えさせてくれるかい?」


「四之宮・・・マジで、お前ってヤツは・・・」


四之宮のその独白を聞いた上町、そして高津は同じ想いを抱いた。

これは・・・これはもはや『狂気』だ。

勝負のあやとはいえ、そこに勝者と敗者が存在するのは仕方ないことのはずだ。

20年前の県大会決勝、その場で上町は勝者となり、四之宮は敗者となった。

敗者からしたら、自分に勝った以上はそのまま勝者であってほしいと願うのも、仕方ないことではある。

四之宮からすると、自分に勝った上町が1回戦で姿を消したのは、到底納得できるものではなかった、ということか。

どうせ1回戦で消えるのであれば、県大会決勝で消しておけばよかった。

四之宮の心の中には、その澱みが20年もの間、ずっと燻り続けていたのだ。


しかし、上町からしても四之宮は、高校時代どうしても越えなくてはならない『高い壁』だった。

その壁は、3年目の夏にしてようやく越えることができた。

が、越えた先に待っていたのは、いわば『代償』だった。

叶ったはずの『夢』は、上町にも、いわんや高津にも、一瞬で『悪夢』と変わった。


『悪夢』は、去年の夏にカナタとミツキによって、とりあえずは払われたが、

それでも上町の心の中には、どこか引っ掛かるものが残っていた。

そこに訪れたのが、まさかの妊娠である。

それが発覚してからしばらくのち、上町は思った。


そうか・・・これは

これは、20年前に失ったはずのすべてを取り戻せ、ということか

あのタイミングで分かったということは、この子は絶対に夏に

それも『あの時期』に産まれてくることになる

そして、そのタイミングで『アイツ』が、しかも自分と同じように妊娠した状態で現れたんだ

となれば・・・いや、きっとそうに違いない


「・・・お前こそ、早く構えな、四之宮」


「ははははは!!いいねぇ!!その眼だよ上町!!

20年だよ!!キミのその顔を、20年忘れることはなかったよ!!」


「監督さん・・・っ!!」


「上町先生!!」


ダッグアウトからヨシノと古市が、上町に呼び掛ける。

その身体で何を馬鹿なことを。

そう言いたいだろうことが、上町にはよく分かった。

だからこそ、上町は今しがた得た確信をもって、2人に答えた。


「大丈夫だよヨシノ・・・それに古市先生

今この場では、私たちの身体には絶対に何も起こらない」


「いったい何を言って・・・いつ産まれたっておかしくないんですよ!?監督さんも・・・四之宮さんも!!」


「だから・・・今この場では絶対に大丈夫なんだよ、ヨシノ

この子たちは今産まれてくることはない、それは私が断言できる」


上町の断言に、四之宮もその通りだと言わんばかりに頷いているのが見えた。

そして何故か高津にもその確信があった。

やがて高津も、上町と四之宮の2人にあてられたかのように、口を開いた。


「・・・俺が受ける」


「高津・・・お前・・・」


「その身体でどこまで投げられるかも分からねぇだろ?

だったら、せめて俺が的になってやるから、投げられる限り投げろ」


「まったく・・・友情ってやつかい?」


「審判もいねぇからな、四之宮かんと・・・いや、四之宮

上町と俺の2人で相手してやる、文句は言わせねぇぞ」


「・・・ふふふふふふふ、そうか、そういうことかい、高津

いやはや、2人揃って、いい顔をしてくれるじゃあないか!!」


いつしか高津の顔も、『あの頃』の顔付きに戻っていたようだ。

普段、多々井学園高校の野球部専用グラウンドで見る、人の顔色を伺うような、あの顔ではない。

これは間違いなく、20年前に自分を倒した、あの頃の顔だ。


もはやこうなっては、この3人を止めることは無理だろう。

場の空気を察し、観念した古市とヨシノは、相次いで言った。


「はぁ・・・分かりましたよ、上町先生・・・思う存分おやりなさい

ですが・・・みなさん、明日があることをお忘れなく」


「少しでも疲れが見えてきたら、そのときは容赦なく止めますからね!!そのときはスパッとやめてください!!」


古市とヨシノのその言葉に、四之宮も高津も、そして何より上町が安堵した。

いってみれば古市とヨシノは、3人の間にある因縁には、まったくの部外者だ。

しかし、ヨシノは上町の体調を管理している専属マネージャーだし、

古市は上町に何かあったときは代行を任されることになっている存在だ。

古市もヨシノも、上町が「絶対に大丈夫」と言うから観念したに過ぎないのだが、

それでもこの2人からの、いわば許可が出たことは、感謝しても、し尽くせない状況だ。


「ありがとうございます、古市先生・・・ヨシノもありがとう」


「待ち遠しいのは分かるが、せめて準備させろ、それくらいの時間はいいだろ、四之宮」


「あぁ、もちろんだとも高津、2人ともその気になってくれているのだからねぇ」


ヨシノのアドバイスのもと、上町はストレッチとウォーミングアップを進め、高津がプロテクターを装着している間、

四之宮はバッターボックスの土をしっかりと踏みしめ、素振りをしていた。

体型のせいで腰こそ回っていないものの、そのスイング音は、しっかりと風を切っていた。

その音は、ベンチ前で上町をチェックしているヨシノと、

ダッグアウトのフェンスに手を掛けて見守っている古市の耳に、はっきりと刺さってくる。


「すごい・・・これが・・・あの四之宮琉生のスイング・・・」


「私も・・・これほどまでに一流のプロだった人は見たことがないから・・・」


ヨシノにしても古市にしても、「本物の一流のスイング」を初めて目の当たりにして、言葉を失うしかなかったが、

上町と高津からは違った所感が出てきた。


「アイツ、やっぱ振れてねぇな、高津お前どう思う?」


「まぁ、普段のノックのスイングよりは振れてっけどな、それでも昔ほどじゃねぇよ」


「アレで『振れてない』・・・?

あの・・・監督さんと高津さんが知ってる四之宮さんって、どれほどだったんですか・・・?」


ヨシノが絶句し、2人に尋ねるのも無理はない。

しかし、それにも上町と高津は、平然と答えて除けた。


「あの身体のせいなのは間違いないだろうけどね

そうじゃなかったら、アイツのスイングはあんなもんじゃないよ、ヨシノ」


「それをどうにかするために、俺たちは3年間考え続けたんだよ、私市さん」


「聞こえているよ、上町!!キミのほうこそ、その身体でちゃんと投げられるんだろうね!?」


それを言われてしまうと、上町も返しようがなかったが、

それについては逆にヨシノが、上町に安心と自信を与えた。

言い聞かせるようにして、ヨシノは上町の耳元で囁く。


「監督さん、大丈夫ですよ・・・私が見ても、これなら充分投げられます」


「そうか・・・さすが、あの状態のカナタを見ていただけはあるな、ヨシノ」


上町の返答に、ヨシノは呆れた雰囲気を出しながら、普通に返した。


「私、知ってるんですからね、監督さんがカナタ先輩のフォーム変更を唆したの」


「ありゃ、バレちゃったか」


「醒ヶ井先輩から聞きましたよ・・・ホント、あなたって人は・・・」


「いや!でも、誤解しないでほしいんだ!唆したのはフォーム変更だけだよ!これはホント!」


「そこだけなのも分かってますって」


そこまで言ったところで、改めてヨシノは上町の耳元で囁いた。

今、これを四之宮に、なんなら高津にすら聞かれるわけにはいかないからだ。

要点だけ絞って、簡潔、手短にヨシノは上町に尋ねた。


「・・・カナタ先輩から聞いてますよね?」


「・・・あぁ、もちろん」


2人が顔を見合わせて、アイコンタクトで何かを確認しあったあと、

上町は身体をほぐしていた高津に目線を送り、高津もそれを受けて立ち上がった。


「・・・行けるか、上町?」


「俺を誰だと思ってんだよ高津、大丈夫だよ」


「だろうな・・・よし、エースならなんとかしてみせろ」


「・・・行くぞ」


「・・・よっしゃ!!」


「「待たせたな、四之宮!!」」


あのときと同じ空気が吹いてきた。

舞台こそ甲子園球場だが、シチュエーションはあのときと同じ。

マウンドから標的を見つめる2人を獲物にして、狙いを定める捕食者がバッターボックスにいる。


「ははははははは!!これだよ!!このときを私はずっと待っていたんだよ!!」


「能書きはいい、さっさと始めようぜ、四之宮」


「上町、とりあえずはいったんあのときと同じ攻め方でいこう、様子見だ」


「大丈夫だ高津、お前に任せる」


「よし、わかっ・・・え?」


「お前に任せる、って言ったんだ」


おおよそ、あの頃の上町からは聞けなかった言葉に、

高津は少しだけ戸惑いの表情を見せた。

だが、そのあとすぐに来た上町の言葉で、高津は腑に落ちた。

そして、20年越しの上町の成長を、確かに感じた。


「今の四之宮なら、お前のほうがよく知ってるだろ、だからお前に任せる

お前がまずはあのときと同じ攻め方で、って言うんなら、俺もそのように投げるよ」


「上町・・・お前・・・」


その言葉、20年前に聞けたらよかったんだがな・・・

高津の心に、その想いが駆け巡った。

しかし、言い換えれば、上町もようやく成長できたということなのだろう。

ようやく上町も、仲間を信じることができるようになったということだろう。

もしそうだとしたら、それは間違いなく。


さっき四之宮も言ったことじゃねぇけど、上町、お前って奴は

・・・まったく、俺もうらやましく思えるぜ


「分かった、俺もお前を信じる

だけど無理だけはすんなよ、俺もあのお嬢ちゃんに怒られちまう」


「さぁ、高津・・・20年ぶりのプレイボールだ」


上町と高津はグラブ同士でハイタッチをし、高津はホームベースへと向かった。

高津からしても、まさか再びこの場所に陣取ることになるとは思わなかったが、

それでも、多少の改装はされたにしても、20年前に一度だけ見た光景と大きくは変わっていない。

唯一、あのときとははっきりと違うモノがあるとしたら、それは。


「いやはや、まったく懐かしいねぇ

こんなことに感動するだなんて、私も歳を取ったということかな?」


「同い年だろうがよ」


打席に立っているのは、他でもない四之宮だ。

自分たちの世代では唯一無二、最高にして最強のスラッガー。

その評判そのままにプロ野球の世界でも活躍し勇名を轟かせた、あの四之宮琉生。

引退して5年が経っているし、20年前と違って女体化した上に、今は妊娠してもいる。

四之宮自身も、ホームベース上を塞いでしまわないように、打席の少し後ろのほうで構えているが、

それでも、お腹の先端はわずかにホームベースの縁をかすめている。


果たして今の四之宮はどこまで打つことができるのか。

確かに、高津は多々井学園高校野球部の部長として、今の四之宮をよく知っている。

先ほど準備している間にも、デモンストレーションかのように素振りしているのを見せ付けられている。

それを見る限り、普段のノックで見せるスイングよりは鋭いが、20年前の四之宮には程遠い。

それに、例えどんな強打者であっても、必ず弱点が存在する。

そしてその弱点は、一朝一夕では克服されるようなものではない。


四之宮のその弱点をピンポイントで確実に攻められるよう、練習と努力を積み重ねた上町と高津は、

20年前のあの日、ついにそれを実現させ、四之宮から王座を奪ったのだった。

それからプロ野球に進んだことで、多少は改善された部分はあるかもしれない。

あるかもしれないが、高津はまずはいったん、そこを攻めていくことにした。


「上町、来い!!」


高津の号令に、上町が投球動作に入った。

高校2年の秋口に女体化した上町は、それ以来サイドスローとなっている。

今は4つ子を孕んでいることで、出産前のカナタと同じように、脚を上げることが難しくなっていたが、

それを解決する方法を、上町の身体はまだ覚えていた。


軽く振り上げた脚を大きく前方に踏み出し、素早い挙動で左腕が振り抜かれる。

大きく実った胸とお腹が重りの役割を果たし、上町の手を離れたボールは勢いと共に高津のミットに刺さっていった。


「・・・見せ付けてくれるじゃないか、高津・・・上町・・・っ!」


「ストライクだな、四之宮?」


高津のキャッチャーマスク越しのその言葉に、四之宮は返す言葉もなく、

ただ苦虫を噛み潰したような表情だけを浮かべる。

初球、インコース高めに来たストレートを、四之宮はバットを動かすこともなく見逃した。

これが四之宮の弱点、「クイック投法」と「インハイのストレート」である。


ホームランバッターであれ、アベレージヒッターであれ、小技の打者であれ、

どんな打者でも、ほぼ全員に共通して存在する弱点。

それは「インコース高め」だ。

インコースというのは、えてして腕を畳まなくては打つことができないコースなのだが、

それがさらに高めとなれば、その打撃フォームは余計に窮屈なものとなる。

特に、スイングの大きい強打者であれば、窮屈になることでミスショットの割合が多くなる。


世代最強にして、プロ野球でも一流どころだった四之宮にしても、

このコースに限ってはプロ野球時代も、通算で2割も打てていない。

稀に打ててはいるのだが、それは甘く入ってきた変化球がほとんどで、

ストレートがドンピシャで来たときは、まったく打てないのだ。


加えて、クイック投法である。

本来クイック投法は、脚の速いランナーが出塁しているときに、その盗塁を阻止するために用いるテクニックなのだが、

ここにピッチングパターンを組み合わせることで、投球の緩急をより効かせることができるようになる。

四之宮は、相手投手を自分のペースに持ち込んで、自分の呼吸で打つタイプのバッターだ。

自分のペース、自分のタイミングをずらしてくるタイプのピッチャーとは相性が悪い。

プロ野球に進んだことで、そこに関しては改善されたのだが、

20年前の空気が支配している今、この場においては、それは機能しにくくなっていた。


「上町先生・・・すごい・・・」


ダッグアウトで古市が身を震わせていた。

ここまで数年間、苦楽を共にしてきた間柄ではあるが、

その『彼女』が実際に野球をしている姿は、ほとんど見たことがなかった。

特に、これほどまでの実戦レベルとなれば、古市にとってはまったく初めてだ。


この人は・・・

私が知らなかったのが本当に申し訳ないんだが・・・

この人は・・・この人たちは・・・

こんな、灼け付くような雰囲気の中で戦っていたのか・・・

これが・・・これが、この人たちの『高校野球』だったのか・・・


実際に目の前で見たのは、まだたったの1球。

目の前で行われている対戦でこの先、何球、何打席あるか分からないうちの、その初球、たった1球である。

しかし、その1球ほどに雄弁なものは、古市のこれまでの人生の中にはなかった。


「古市先生・・・私・・・」


「いや、私市さん・・・私も同じ気持ちですよ・・・」


ヨシノが何か言おうとしたのを、古市が制したが、

ヨシノにもまた、古市も同じ感情を抱いているのがすぐに分かった。


古市先生・・・私・・・

私、怖いです・・・

確かに、この人たち・・・監督さんたちの間には因縁があるのかもしれません

それも、私が産まれる遥かに前からの

でも・・・でも、だからって・・・

なんでこの人たちは・・・まるで・・・まるでこれじゃあ・・・

『殺し合い』してるみたいじゃないですか・・・!!


「私市さん」


「古市、先生・・・?」


古市は、思わずヨシノの手を握っていた。

ヨシノの手を握ったまま、古市は自分にも言い聞かせるように語り掛ける。


「私も怖いよ・・・私はスポーツをやっていたことがないからね・・・

いや、やっていたとしても、こんな『真剣勝負』なんて、滅多にないだろうな・・・」


「古市先生・・・」


「上町先生たちの間に何があったかなんて、私も知る由はない

こんな馬鹿げたことは、止めるのが本筋だったんだろう、しかし・・・」


古市が握る手に、空いていた手を重ねて、ヨシノが強く握り返す。

そして、続けて言葉でも返した。


「もう・・・もうここまで来たら、私たちは見守ってあげるだけでしょうね、古市先生・・・」


「・・・ええ、その通りかもしれませんね、私市さん」


続く2球目。

1球目と似たようなところに、先ほどよりは少し遅いボールが投げられたが、

これも四之宮は見逃し、ニヤリとして高津のほうに顔を向ける。


「これはボールだねぇ」


球速が落ちたことで、逆に見極めしやすくなったのもある。

確かに四之宮が言う通り、この1球は、ボール1.5個分ではあるが、コースから外れていた。

しかし、それも高津の組み立て通りである。


「まぁ、礼儀ってやつだよ、お前ほどのバッターに対してのな」


つまり、高津が言っているのは、四之宮が容易に討ち取れる選手ではない、ということだ。

どれだけ不得意なコースに投げても、どれほど相性の悪いスタイルのピッチャーがいたとしても、

同じことを続けていたら、打たれるようになってしまう。

ましてや四之宮ほどの実力があれば、1試合の中で簡単に攻略してしまうだろう。


そのために、試合を通して確実に抑えるために、上町と高津は1打席ごとに手を替え品を替え、

そうしてようやく、3年夏の県大会決勝では四之宮を4打席ノーヒットに抑えたのである。

そのときの経験から、高津はこの夜の組み立てを作っていた。

球数がかかることにはなってしまうが、それでもフルカウントになるまでは遊ぶことも可能だ。


3球目は一転、アウトコース真ん中辺りから低めにチェンジアップが入った。

2球目よりも遅いのがはっきりしていたため、変化球なのは四之宮にも分かったが、

2球続けてインハイに来ていたこともあって、そのボールは遠くに見えた。

今度はマウンドから上町が叫んだ。


「ストライクだろ!」


「これがかい、上町!」


上町の声に四之宮が返したあと、高津のほうを振り向くが、

高津のミットはボールを捕球した位置そのままで動かずにいた。

それを見た四之宮は、一瞬だけ、してやられたような表情を浮かべたが、すぐに顔色を戻した。


「やっぱ生きた球から離れてるせいか?」


「・・・うるさいよ高津、まさかあの身体でこんなピッチングができるとはね」


やはりキミは、私が思っていた通りだよ、上町

キミが散ってしまっただなんて、やはり嘘だったんだ

今こうして、キミは私の目の前で見事に咲き誇ろうとしているじゃないか

キミは・・・キミの身体はまだ忘れてはいなかったんだよ

キミの心は、まだ燃え尽きていなかったんだよ

それを、キミが勝手に終わらせてしまっただけだったのさ

さぁ、上町・・・もっと私を楽しませておくれよ・・・さぁ!


マウンドには上町が君臨している。

端から見れば堂々としているが、実は内心ではヒヤヒヤしていた。


うわぁ・・・私・・・

ちゃんと投げられてよかったぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!

いや!!自分でもバカ言っちゃったなぁ、って思ったよ!!

相手はあの四之宮だよ!?私たちの世代では最強の、あの四之宮!!

確かに一度だけ抑えたことはあるし、高津も受けてくれてるけどさ

まともに投げるのなんて、マジで20年ぶりだよ!?

なんでちゃんと投げられてるのか、私こそビックリしてるよ!!

いや、まぁ、でも・・・始まっちゃったもんなぁ・・・やるしかないよなぁ・・・

身体が投げ方覚えててくれてたことだけが、マジで今は救いだよ・・・


「・・・さぁ、次だ、四之宮」


内心を隠すようにして、上町が呟いた。

カウントは1ボール2ストライク、バッテリー有利ではある。

しかし、ここからに四之宮の恐ろしさがあることを、上町も高津も理解していた。


4球目。

ギリギリのところを攻めていたそれまでとは一転、

アウトコース低めを大きく外す、緩いストレートが投げられた。

これも高津の組み立て通りである。

四之宮の視点を外す目的もあったが、高津の意図は、次の一球が勝負であることを示していた。

もちろん、それは四之宮にもはっきりと伝わってきた。


「・・・そういうことかい、高津」


「さすがだな四之宮、やっぱ分かるか」


「アレだけあからさまではね」


「打てるもんなら打ってみな」


上町が投球動作に入る。

打席で構える四之宮の足元に力が入る。

5球目、狙い通りのインハイストレートが来た・・・かに見えた。


コキンッ


「・・・クソッ」


「まだまだ甘いね、高津」


続く6球目、7球目、8球目と、同じようなところに投げられるが、

そのいずれも四之宮は、同じようにカットしてファウルにした。

カウントは2ボール2ストライクのまま、変わっていかない。


「・・・なんのつもりだ、四之宮」


「キミが求めているのは、こんなものじゃあないよねぇ、上町?」


確かにそこは四之宮の苦手なコースである。

スピードも、そこにこの速さで投げられたら、手を出されても凡打にしかならない。

しかし、プロ野球でさらに磨かれた四之宮は、そこをカットすることはできるようになっていたのだ。

苦手なところに投げ続けられるのなら、それをカットし続ければいいだけのこと。

カットして、カットして、カットして、相手が根負けして甘くなったところを打ち砕けばいい。

天才四之宮にしては単純なやり方。

しかし、天才四之宮だからこそ辿り着いた、単純にして明朗な解決策だった。


「何を言ってるんだ四之宮、俺は・・・」


「私はキミから完璧に打ちたいんだよ!再び咲き誇っているキミからね!」


四之宮にそう言われて、上町の心臓の鼓動が強く打たれた。

そして上町には、心の中からの声が聞こえてきた。

上町はその声と自問自答する。


俺は・・・俺は帰ってきたんだ

一度終わったはずの俺は、帰ってこられたんだ


いったい何を・・・この声は・・・私か・・・?


そうだよ、俺だよ、お前が20年前のあの日に失ったと思ってた俺だよ


何を・・・何を言っているんだお前は・・・

私は・・・私はなんで、ここまで投げられているのか、私が分からないというのに・・・


お前さ、そろそろ分かれよ


何をだ


アイツも言ってるだろうがよ、「再び咲き誇っている」ってさ

お前はもう、あの頃の俺と同じように投げられるのさ


・・・は?


言っただろ、聞こえてねぇのか?

お前は、もうあの頃の俺に戻ってるんだよ

20年前の、あの頃の俺にな


あの頃の・・・私に・・・?


そうさ、胸を張って投げろよ、上町那由多

顔を上げて、まっすぐ前を見てみな

『そのときに見えるのが分かる』なら、お前は最高の一球が投げられるはずだぜ


あっ・・・ちょっ・・・ちょっと!!


きっと投げられるはずさ

あの頃の俺と同じように・・・いや・・・

あの頃の俺以上の、最高の一球が・・・


心の声との対話の間、気が付いたら目を伏せていた上町は、

最後の言葉に従って顔を上げ、ホームベースの方向をまっすぐ見た。

そのとき、上町の眼に映ったものは。


「・・・高津?」


「・・・お前、何言ってんだ?さっきから俺がずっと受けてただろ?」


高津がマウンドまでやってきていたのだ。


「それよりも・・・どうする?やっぱ、アイツ、プロで進化してやがった」


高津のその言葉に、上町がハッとした。

そうか、四之宮も進化してるということは。

そして・・・本当に『あの頃の私』と同じように投げられるのなら。


「・・・大丈夫だ高津、ここからは俺に任せろ」


上町が言ったことに、高津は反論することもなく、

むしろ晴れやかな表情を浮かべて、さわやかに返した。


「分かった、エースならなんとかしてみせろ」


上町の胸をキャッチャーミットでポンッと叩くと、

高津はホームベースに戻っていき、改めて構えた。

その様子を打席から見ていた四之宮が話し掛ける。


「井戸端会議はおしまいかい?そろそろ楽にしてあげようじゃないか」


「さぁて、そいつはどうだかなぁ四之宮、楽になるのはお前のほうかもな」


「・・・減らず口を」


「さぁ来い、上町!!叩き込んでやれ!!」


上町が9球目を投げ込む。

その一球は、四之宮の苦手なインコース高めに来たように見えた。

そのボールに四之宮は千載一遇を感じ、渾身のスイングを見舞った。

そのスイングが捉えた打球はレフトのポール際、しかし2mほど内野席側のスタンドへと吸い込まれていった。


「・・・しまった」


「うっひゃあ・・・あっぶねぇあっぶねぇ・・・おい!上町!お前、怖ぇことすんのやめろよ!」


「大丈夫だって!!俺の狙い通りだ!!」


その通りだった。

上町が投げたのは、四之宮が最も苦手とするインコース高めより、ボール2個分ほど低いところ。

打者によっては打ちやすくなるところにあえて投げたのだった。

それを四之宮は、上町が根負けしたと思い、一気に撃ち抜きにかかったのだが、

四之宮もまた打ち気に逸ってしまい、ミスショットにしてしまったのだ。


「今みたいなボールはもう二度とないぞ、四之宮!」


「それはこっちのセリフさ、上町!今みたいなミスショットは二度とないよ!」


「ああ、そうかい!命拾いさせてもらえて助かるよ!」


「2人揃って減らず口を・・・っ!!」


10球目。

今度は4球目とは逆側、つまりインコース低めの、

四之宮の足元を掬うかのようなストレートが投げられた。

その一球は四之宮の爪先で土埃を上げ、四之宮は一瞬ステップを踏み、

高津はワンバウンドしたボールをプロテクターで受けた。

あからさまなボール球、これで3ボール2ストライク、フルカウントだ。


「ちょっと、上町!!倒れたらどうしてくれるつもりだい!?」


「そんなやわな赤ん坊、孕んでねぇだろ!!」


「監督さん・・・なんて言い方を・・・」


「あぁ、ごめん、ヨシノ・・・四之宮、次で決めてやる」


そう言うと上町は、ボールの握りを四之宮に見せ付けた。

それを見た高津も思わず声を上げた。


「上町・・・お前って奴は・・・っ!!」


「ははははは!!そうだよ!!それでこそエースじゃあないか!!」


上町が見せ付けた握りはストレート。

一番の自信があり、一番コントロールできる、上町のリーサルウェポン。

このストレートで、自分は並み居る強打者たちを手玉に取ってきた。

それはいわんや、四之宮も、である。

しかし、その四之宮相手にできなかったことが、一つだけあった。


四之宮もまた、上町が握りを見せたことで、次の一球こそが最後であり、

それがどこに投じられるのか、即座に理解した。


まったく、やはりキミというヤツはどこまでも最高だよ、上町

それでこそエースさ、それでこそ私のライバルにふさわしい

キミが一番自信のあるボールを、私が一番自信のあるコースに投げ込むつもりだね

ならば・・・ならば私は、それを全力で振り抜くまでさ

さぁ・・・見せてごらん、キミの『最高で最後の一球』を・・・!!


11球目。

上町の左腕から放たれた渾身の一球は、アウトコース低めに向かっていった。

そのコースこそは、四之宮が最も得意とするコース―――ホットゾーンだ。

アウトコース低めを打つためには、腕を一番伸ばすことになる。

腕が一番伸びるということは、フルスイングしやすいコースということだ。

フルスイングしやすいということは、そのボールを捉えることができれば、長打は必至である。

ましてや、そのコースを得意にしてきた四之宮とあれば、今の体型、今のスイングでも、スタンドまで運ぶことが可能だろう。

四之宮も敢然とバットをぶつけに行った。


嗚呼・・・上町・・・キミは最高さ・・・

見事に咲き誇ってくれたキミを、こうして散らすことができるだなんて・・・

私も・・・私もなんて幸せなんだろう・・・っ!?


しかし、そのバットがボールを捉えることはなかった。

確かに四之宮のスイングは、このとき正しく完璧だった。

分解写真にして技術書に掲載し、野球少年たちへの教科書としたいほどに。

上町の投げた一球が、並のストレートであったならば、その打球は間違いなくスタンドインしていただろう。

が、実際にはバットは空を切り、ボールは高津のミットにも収まらなかった。

ボールは今、一塁側ベンチのほうへと力なく転がっており、まもなく止まりそうになっている。

高津はボールの行方を確認すると、一目散に捕りに走ったが、四之宮は打席で微動だにしていない。

というか、自分が今、どんな目に遭ったか、理解しきれていない様子だった。

マウンドでは相変わらず上町が仁王立ちしている。


高津がボールに追い付き拾い上げると、今度はそれを持ってホームベースに戻り、

打席から一切動かずに茫然と立ち尽くすばかりの四之宮にタッチした。空振り三振の成立だ。


「なんっ・・・なんだ、今のは・・・

私が・・・私が『ボールの下』を空振りした・・・だと・・・?」


「あっ・・・あぁ・・・そうさ、その通りだよ四之宮・・・」


「なんだ!?今、アイツは何を投げたんだ!?なぁ!!高津!!分からんのか!?」


四之宮の狼狽に、高津も答えることができなかった。

それも仕方ないことである。

四之宮が言った通り、四之宮は『ボールの下』を空振りし、高津はそのボールを捕球できなかった。

上町の左腕から放たれたボールは、確かに狙い通りのアウトコース低めに向かってきていたが、

その軌道は、スイングの軌道を嘲笑うかのように、

まるでボールが意思を持ったかのように、急激にホップしたのである。

そのせいで、四之宮はボールの下を空振ることとなり、高津は構えていたミットの位置から外れたことで捕球できなかったのだ。


「なんだ上町!?今のボールは!!キミはストレートを投げたのではないのか!?」


「ストレートだよ、紛れもなく」


「だとしたら、何をしたと言うんだ!!」


「ストレートはストレートだよ、今の俺の『最高の一球』さ、四之宮」


そうさ、これが今の私にしか投げられない『最高の一球』

『あの頃の俺』と同じように投げられるようになった『今の私』でなければ投げられない

『今の私』だからこそ投げられる、最高のストレートさ

でもさ四之宮、お前だって、これがお望みだったんだろ?

私だって、『これ』が投げられたおかげで、あのときにできなかったことが、ようやくできたよ

そう、「四之宮琉生から空振り三振を奪う」ということがね

お前はいいじゃないか、私からでも散々打ってきただろう

すべてを失った場所で、お前から一つだけでも取り戻すことができた

今は・・・今はただ・・・疲れた・・・


「ふぅ・・・」


上町が一息つくと、そのまま跪くようにしてマウンドにへたり込んだ。

それを見て、ヨシノが一目散にマウンドへと駆け走っていった。


「監督さん!!大丈夫ですか!?」


「あっ・・・あぁ、ヨシノ、大丈夫だよ、久々に本気出したから、ちょっと疲れただけさ」


「上町、お前・・・」


その声に上町もヨシノも顔を上げる。

高津もマウンドに駆け付けていた。


「高津・・・世話かけたな・・・」


「なぁ、俺には教えてくれ、なんであんなボールが・・・」


「高津、お前・・・なんでコマは回り続けられるか知ってるか?」


「なんでコマは回り続けられるか・・・?なんだ?何が言いたいんだ・・・?」


どうやらその声は打席まで聞こえていたらしい。

いつの間にか四之宮が、上町たちのほうに視線を向けている。


「そうか・・・そういうことか、上町・・・上町那由多・・・!!」


「しのみ・・・っ!!な、なんだ、その顔・・・っ!!」


聞こえてきた四之宮の声に、高津がそのほうを振り向くが、

高津の目に入った四之宮の表情は、思わず言葉を失うほどだった。

それはまるで、復讐に燃える悪鬼羅刹そのものだったからだ。

無造作にバットを放り出すと、何かを呟きながら、四之宮もまたマウンドへと歩みを進めていく。


何故コマが回り続けられるのか、だと?

それは、回転するコマには慣性が働くからだろう

そして、その慣性は、回転軸に対して外周部の重量が重いほど、大きく働く

ということは、だ、つまりは上町、貴様


「貴様、さっきの一球は、慣性が一番働くところに、バックスピンをかけたんだな!?そういうことだな!?」


マウンドに辿り着いたところで、ちょうど推測の論点にも辿り着き、四之宮はそれをぶつけた。

それを受けた上町は、ふふっ、と不敵に微笑んだ。


「なんだ!!何が可笑しい!!」


「いや、さすがは天才・四之宮だな、って」


「貴様、私を馬鹿にしたいのか!?この私を!!」


「いやいやいや・・・その通りだよ

だからこそアレは、『今の私』でしか投げられない、

『今の私の最高の一球』なんだよ、四之宮」


四之宮の推測通り、そして上町が認めた通りである。

上町が今しがた投げてみせた『今の私でしか投げられない、今の私の最高の一球』は、

いわゆる「火の玉ストレート」の、上町バージョンだ。


「火の玉ストレート」の正体は、バックスピンがかけられたストレートである。

通常ストレートは、キャッチャーへと近付くにしたがって、重力によって軌道が沈んでいく。

しかし、効果的にバックスピンがかけられたストレートは、マグヌス効果によって重力の影響を受けるタイミングが遅くなり、

結果として打者に、「ボールが浮き上がってくる」錯覚を起こさせるのである。


このとき上町が投げた『最高の一球』にも、確かにバックスピンがかかっていた。

もし、『上町の身体が普通の状態』であったならば、それは単なる「火の玉ストレート」で終わっていただろう。

しかし、今の上町の身体には4つ子が宿っている。

その大きなお腹に、同様に大きく実った胸を合わせて重りとし、

それによって得られた慣性は、バックスピンの効果をさらに揚力へと昇華させた。

そのために、上町の『最高の一球』は、明らかに、間違いなくホップしたのだ。

それがために、四之宮はボールの下を空振りしたのだ。


「そうか・・・そういうことか・・・はっ・・・ははっ・・・」


「し・・・四之宮・・・かん・・・」


「ははははははははははははは!!!!!!!!!

なんだい高津!!何をそんな顔をしているんだい!?」


カラクリが解けた四之宮の顔は、一気に晴れ上がった。

それを見た高津は逆に、普段の空気感へと一気に連れ戻された。


「し、四之宮監督・・・大丈b」


「まったく!!まさか20年経ってから、ここまで私を楽しませてくれたなんてねぇ!!

そうであれば、それは確かに、今のキミでしか投げられない『最高の一球』に他ならないねぇ!!」


「四之宮・・・お前・・・」


「いやはや、それでこそ私がライバルと見込み、20年忘れることのなかった相手だよ、上町

今はよかろう、よく私から三振を奪えたものさ、お見事と言ってあげようじゃないか」


「し・・・四之宮・・・さん・・・」


「まぁ、その『最高の一球』を望んだのも、この私に他ならないわけだからねぇ

自分が望んで三振したようなものだと言ってもいい、この場は素直に負けを認めよう」


矢継ぎ早にそこまで言うと、四之宮は高津の肩に手を掛けた。

あまりに駆け抜けていった一瞬のために、高津もポカンとするよりなかったが、

それでも四之宮は、なおも自分のペースで言った。


「この無念は明日、必ず晴らさせてもらうよ

それまでは、せいぜいおっかなびっくり過ごすがいいさ」


「四之宮・・・」


「明日も早いんだ、私たちも宿舎に帰って休ませてもらうとするよ、さぁ高津、帰ろうか?」


「あっ・・・あぁ、そ・・・そうだな・・・そうだ、上町・・・」


「言うな高津、終わったんだ」


「・・・そうだな」


「・・・ありがとうな」


上町の言葉に、思わず高津は目頭を熱くしたが、

感傷に浸っている時間はそこまで残されてはいなかった。

それでも、わずかにだけ残された時間で、上町は2人にもう少し言葉を掛けた。


「明日は・・・明日はお互いにいい試合にしたいな、高津・・・それに、四之宮」


「・・・お前らしいな、上町」


「ふん、当たり前じゃあないか、決勝なんだ、いい試合にしなければ失礼だろう」


「・・・これくらいはやってくれるだろう?」


上町はグラブを外し、右手を四之宮に差し出した。

この言葉のあとである、四之宮もまたそれに応えて、上町のその手を握って返した。


「まぁ、実際にプレーするのは子供たちだがね」


「そう言うなよ、一応の礼節ってやつじゃないか」


「それくらい、私が分からないと思っていたのかい?

そうじゃなかったら、絶対に握り返したりなどしていないよ、上町」


そう言った四之宮の表情は、しかし穏やかであった。

敵意などは一切ない、純粋に、上町を明日の対戦相手の監督として接している雰囲気である。

それはもちろん、上町も同様であった。

自分たちの『対戦』は終わったし、その結果についてもお互いに納得した。

上町は『最高の一球』を四之宮に見舞い、四之宮も『完璧なスイング』を上町に見舞った。

単にこの場は、上町が一枚上手を行っただけだ、四之宮はそれを得心した。

だから今こうして、2人は翌日の健闘を祈り合っているのだ。

そして、握り合ったその手は離された。


「さて、では帰らせていただくよ、行くよ高津」


「また明日な、上町」


四之宮は高津を引き連れ、グラウンドから去っていった。

上町もまた、一塁側ベンチにいる古市とヨシノに視線を送ると、

特に何か言うわけでもなく、ダッグアウトの中に入っていき、宿舎へ帰るためにそのまま奥へと進んでいった。

それを古市とヨシノも追い掛けていくが、この2人もまた、特に上町に何か声を掛けようとはしなかった。

しなかった、というか、ここで言葉を掛けることは野暮だと思った。

こうして、キャストが去った甲子園球場は、再び静寂を取り戻し、

翌日の決戦に備えて、その土も眠りについた。

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