第3話
「監督・・・何を言ってるんですか・・・?」
「・・・分かった、なんで私がそうしたいか、すべて教えてやる
お前らをベンチから外す理由、そしてそれは・・・」
アレは今からもう20年前のことだ
私が高校3年生、夢にまで見た甲子園出場を決めたとき・・・
―――――――――――――――—――――――――――――――――――
―――20年前、夏の県大会決勝
『・・・高校、優勝!!念願の甲子園出場決定です!!
エース上町君がマウンドで右腕を高々と掲げます!!
女体化を乗り越え、ついに甲子園への切符を手にしました!!』
「上町!!やったな!!俺たち、ついにやったんだ!!」
「あ・・・あぁ・・・高津、俺たちついに・・・行けるんだ・・・」
マウンドで選手たちが歓喜の輪を作る。
輪の中心にいるのは、高校3年生の上町那由多。
駆け寄ってきたのは、3年間苦楽を共にした『愛妻』の高津祐太郎。
この日、上町たちの高校は県大会を優勝し、念願の甲子園出場を決めた。
このとき、すでに上町は女体化していた。
そのために数々の困難を迎えることになったが、その苦労や努力が、ついに報われるときが来たのだ。
「・・・上町、どうした?」
「いや・・・なんでもない、ただ・・・」
「ただ・・・?なんだよ?」
「・・・疲れた」
今でもそうだが、高校野球とプロ野球の決定的な違いは、
絶対的なエースが最初から最後まで投げきる傾向が強いことだ。
この年の上町も、県大会初戦こそ温存のために登板しなかったが、2回戦以降は連戦連投の日々。
特に決勝の相手は、前年まで5年連続で甲子園に出場していた強豪だ。
そこには高校3年間最大のライバルとして立ちはだかり続けた、高校屈指の強打者がいた。
その強打者を、女体化したこの身体で如何に抑えて、甲子園への切符を掴むか。
2年生の秋に女体化した上町は、この1年弱の間、その一点に集中し、
マスクを被る高津と共に切磋琢磨してきた。
その疲れが相当なものであったことは高津にも分かっていたし、
それがここで一気に溢れ出てきたのも無理はないと理解できた。
「はっ・・・ははっ、そうか、そうだよな、でもこれで少し休めるんだから、
また今度は甲子園に向けて頑張っていこうぜ!」
「あぁ・・・そうだな・・・」
しかし、このときの上町には、また新たな、別の困難が訪れていた。
それはまだ上町しか知らないことでもあった。
『・・・うん、こんなところで休んでるわけにはいかないんだ
やっと甲子園に行けるんだ、こんなところで休んでるわけには・・・』
そのときの上町の表情は、高津はおろかチームメイトの誰も、
ましてや監督も推して量ることができなかった。
上町が必死で隠そうとしていたからだ。
そして、上町たちは甲子園の土を踏むこととなる。
『さぁ、いよいよ今大会屈指の左腕、上町君が甲子園のマウンドに立ちます
県大会では6試合に登板、すべて完投でここまで勝ち上がってきました』
「いいな、やっとここまで来れたんだ、来たからには勝って帰る、分かったな!」
「「「「「はい!!!!!」」」」」
監督が檄を飛ばし、選手たちが呼応する。
その中には上町と高津ももちろんいた。
「上町、いけるな?」
「は・・・はい!大丈夫です!」
「よし!全力で行け!」
なんとか気丈に応えた上町だったが、その顔色はあまり優れていない。
さすがにこの様子には高津も心配になって声をかけた。
「・・・上町、本当に大丈夫か?」
「大丈夫だって・・・お前まで何を言うんだよ・・・」
「お前が大丈夫って言うんならいいけどさ・・・」
しまった
ああは言ったけど、体調があまりよくない・・・
やっぱり監督には話すべきだったか・・・?
いや・・・でも・・・せっかくここに来れたんだ
俺は・・・俺はやっぱり投げたい・・・
おなじみのサイレンが鳴り響き、運命の初戦が始まった。
1回、2回、3回と試合は進んでいく。
上町はなんとか相手打線を抑えていくが、そのボールには力があまり入っていない。
やはりというか4回、打順が二回り目に入っていくと、甘く入ったところを打たれ始めた。
ランナーが出ると、それだけ試合時間が長くなっていく。
加えて夏の甲子園だ、その気温や熱気は容赦なく上町の体力を奪っていった。
『ここで伝令がマウンドに向かいます、どうやら上町君、調子がよくないようです』
ベンチからの伝令がマウンドへと走り、円陣が組まれる。
そこには高津もホームベースから来ていた。
「上町、もう一度聞くぞ?本当に大丈夫なのか?」
「うるさい・・・俺が大丈夫って言ってんだろ・・・」
「なんだよ、その言い方」
「えぇい・・・散れ!ランナーくらい俺だって出すだろ!」
「・・・分かったよ、エースならなんとかしてみせろ」
それは6回表のことだった。
バックの守りにも助けられて、ここまでピンチは作るものの、なんとか0で抑えていたが、
試合前、いわんや県大会から続いていた上町の体調不良は、ここに極まった。
あ・・・ヤバ・・・目の前が・・・
その瞬間、上町の身体から血の気が失せ、そして。
ドサッ
「・・・上町!!」
「タイム・・・ターイム!!担架だ!!担架を持ってこい!!」
上町がマウンドに倒れた。
球審が即座にタイムをかけ、担架を持ってこさせる。
駆け寄った高津が見たのは、信じられない姿だった。
「上町・・・この・・・馬鹿野郎!!」
上町のユニフォームのパンツからは、赤いものが染み出していた。
明らかに出血している。
しかも、その出血箇所的に、これはもしかしたら。
次に上町が目を覚ましたとき、目の前に拡がっていたのは白い天井。
自分がどこにいるのか、まったく想像がつかなかった。
「こ・・・ここ、は・・・?」
「上町!お前、なんで黙ってたんだ!」
「高津・・・?・・・っ!お前、試合は!?」
傍らにいたのはさっきまでバッテリーを組んでいたはずの高津。
いや、高津だけではない。
監督も、他のチームメイトも、みんな自分の傍らにいた。
「この馬鹿野郎!お前、なんで言わなかったんだ!」
高津が凄い剣幕で上町に捲し立てる。
上町は未だに状況が呑み込めていなかった。
その高津をなだめ、監督がなんとも言えない表情をしながら、上町に話し掛ける。
「・・・上町、そんな大事なことをなんで」
「監督!!試合は!?試合はどうなったんですか!?」
監督は首を横に振って、上町に答えた。
それを見た上町は顔を覆った。
「・・・ちくしょう・・・せっかく・・・せっかくここまで来れたのに・・・」
その様子を見た監督は、なおも上町に問い掛けた。
「なぁ・・・なんで・・・なんで言ってくれなかったんだ・・・
もし言ってくれてたなら、俺だって考えることはできたのに」
「ここは・・・監督、ここはどこなんですか?」
「・・・ここは、球場の医務室だ」
その段になって、ようやく上町は自分の身に何かが起きたことを理解した。
そして、思わず腹部に手を当てた。
それが上町が隠そうとしていたものの正体だった。
「上町、お前、いつから分かってたんだ?」
高津が上町に問う。
その声は上町の耳には聞こえていたが、上町はしばし呆然としていた。
「俺・・・俺・・・全部失っちゃったんだ・・・はっ・・・ははっ・・・ははははは・・・」
「上町、頼む、答えてくれ・・・いつから分かってたんだ」
「・・・県大会の・・・準々決勝の前からだよ」
上町の返答に、その場にいた全員が唖然とした。
中でも高津の表情には、落胆を通り越したものがあった。
この・・・お前・・・てめぇって奴は・・・
いつでもそうだ
お前って奴は、いつでも自分でなんとかできると思ってやがる
もっと周りを頼ってくれたらいいのに、と何度思ったことか
その挙げ句がこれ、だよ
一歩間違ってたらお前は・・・お前って奴は・・・
「上町・・・お前って奴は」
刹那、感情の溢れた高津の両手は上町の襟首を掴んでいた。
その様子に監督が高津を止めようとする。
「高津!落ち着け!」
「これが落ち着いていられますか!!上町!!なぁ!!お前って奴は!!」
「・・・なんだよ」
「一歩間違ったらお前だって死んでたかもしれないんだぞ!!
たかが野球じゃないか!!高校野球じゃないか!!
そのためにお前は、この先の野球人生を潰してもよかったのか!?」
「高津!やめろ!お前の言いたいことは分かる!」
「なんで・・・なんで俺たちに話してくれなかったんだ!!
いや、俺たちには話さなくてもいい、なんで監督には言わなかったんだ!!」
「・・・」
「なぁ!!上町!!なんか言えよ!!」
上町は高津の手を振り払って答えた。
「・・・こんなことで終わりたくなかったからだよ」
「・・・どういうことだよ」
「俺は・・・あぁ、そうだよ、女体化したときから決めてたんだよ
この先、この身体に何があろうとも俺は乗り越えてみせる、って」
そう、俺はそのつもりだったんだ
女体化したときは俺だってショックだったよ
もうこれ以上野球は続けられないかもしれないって思ったよ
でも、そんなことで野球をやめたくなかった
俺は・・・俺も野球が大好きなんだよ
だから、何が起きようとも、俺は野球を続けるつもりでいたんだ
例え、それで命を落とすようなことがあっても、だよ
「結局、それで俺はすべてを失ったんだ
子供も、未来も・・・な」
「・・・大馬鹿野郎」
「言いたけりゃ言えよ、高津」
「あぁ、言わせてもらうさ、この大馬鹿野郎!!お前ほどの大馬鹿野郎、見たことがねぇよ!!」
「お前にこの気持ちが分かるか、高津!!」
「分かんねぇよ!!女体化せずにここまで来れた俺にはな!!
でも、そんなことで自分まで死ぬかもしれなかった奴に言えるのは、これしかねぇよ!!
この・・・大馬鹿野郎!!」
そう言い放った高津の眼からは大粒の涙が滝のように流れていた。
それは高津だけではない。
監督も、チームメイトも、医務室の医師も看護師も。
その場にいた誰もが、その涙を隠すこともなく上町を見つめていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「そして、私は選手として野球を続けることを諦めたんだ」
間谷地高校の保健室。
上町の昔話にカナタとミツキ、そして保健室のメンバーが耳を傾けていた。
そこにミツキが尋ねる。
「じゃあ、監督の甲子園での映像を俺たちが見た記憶がないのは・・・」
「そう、私がテレビ局にお願いして、映像を封印してもらったからだよ」
「でも、監督は結局野球からは離れられなかったんですよね?」
今度はカナタが尋ねる。
上町はそれにも真摯に答えていく。
「なかなか意地の悪い聞き方だな・・・まぁいい
その通りだ、私は私みたいな奴を今後出さないために、指導者になる道を選んだのさ」
「・・・だからボクたちを使わないんですか?」
「笑いたかったら笑え、私のエゴだと言いたければ言えばいい
だけどな、これはお前らのこの先の人生のためでもあるんだ」
そうさ、これは私なりにお前らを思ってのことなんだ
お前らの野球人生をここで終わらせるわけにはいかない
この先も続くだろうお前らの野球人生、そして産まれてくるお前らの子供のためだ
それに今はまだ12月、お前らが3ヶ月くらいなら、もしかしたら
「・・・もしかしたら、夏には間に合うかもしれないからな」
その言葉にカナタとミツキはハッとした。
「・・・そうか、そういうことか、なぁ!カナタ!」
「・・・」
やはりどこか釈然としない表情を隠さないカナタだったが、
ここは上町の説得を受け入れることにした。
「・・・分かりました、監督」
「そうか・・・分かってくれるか、カナタ」
そこにミツキが割って入る。
それならそれで、と、カナタを焚き付けるかのように。
「カナタ、お前、みんなにも言ってるだろ」
「・・・うん、そうだね、みっくん」
2人のその顔を上町もしたり顔で見つめる。
どちらかというと、上町がそこに着地するのを望んでいたかのように。
それに追い討ちをかけるかのように、上町も2人に尋ねる。
「2人とも、分かってるようだな」
「「はい!」」
そう、ボクらがいつも言われてることだし、ボクがいつもみんなに言ってることだ
正直、聞きすぎて俺は飽きてきたところだけどな
「「自分にできることを全力で」」
「そうさ、その通りさ!お前らが帰ってくるのを待ってるからな
私だけじゃない、みんなが、だ、
なぁ!お前ら!そんなところで聞いてないで入ってこい!」
上町のその言葉に、保健室のドアを開けて、チームメイトのみんなが入ってきた。
いったいいつからこいつらはそこにいたんだ、と、カナタとミツキは面喰らったが、
あっという間に2人を囲む輪ができあがった。
「監督の言う通りだ!俺たち、待ってるからな!」
「なぁに、心配しなくても俺たちだけでなんとかしてみせるさ!」
「今は元気な赤ちゃんを産むことに専念してください、先輩!」
「何か手伝えることがあったら、僕たちもお手伝いしますから!」
「夏はまた、みんなであそこに帰ろうぜ!」
仲間というのは、やっぱりいいものだ。
カナタとミツキはしみじみそう思った。
その様子を見た上町もまた、そう思った。
そして、同時にこうも思った。
あぁ
私にも、あのときの私にも、素直に仲間を信じられる心があったならな
そうだったなら
そうだったなら、あのときの私は、間違いなく止まることができただろうな
・・・まぁ、今さら何を言っても後悔になるだけだけど
あのときに失ったものは取り戻すことはできない
取り戻すことはできないけど、新しいモノを手に入れることはできる
私は・・・私は何があっても、コイツらの未来を守る
それが、それこそが今の私にできることだ
想いを内に秘め、上町は声を絞り出す。
「・・・必ず、夏までには戻ってこられるはずだ」
「監督、大丈夫です、必ず戻ってきます」
「俺も戻りますよ、監督」
こうして、カナタとミツキの「センバツ」は終わった。
しかし、それは「次の夏」への始まりでもあった。
「次の」、そして「最後の」夏。
4月になったら3年生となるカナタとミツキにとっては高校生活最後の夏。
それを悔いのないものにするために。
もう一度、あの深紅の大優勝旗を持って帰るために。
今この瞬間、カナタとミツキは「夏」が始まった。
「・・・とはいうものの、だな」
「うーん・・・」
チームとは離れ、特別メニュー組として別に練習することになったカナタとミツキではあったが、
カナタの抱えた問題そのものも解決しなくてはいけなかった。
そう、女体化によって大きく変わってしまった今の身体だと、
それまでの投げ方では、恐らくもう通用しないかもしれないという問題だ。
事実、先の秋季大会では、何度も危ない場面があった。
今の投げ方のままでは、それまで投げられていた威力のあるボールは投げられない。
しかし、このときまで、カナタにもミツキにも、有効打となるアイデアは浮かんでこなかった。
加えて、上町が与えたアドバイスともつかない謎の発言も、カナタのモヤモヤを大きくするだけだった。
「コマはなんで回り続けられるのか・・・」
「あぁ、監督が言ってたことか、カナタまだそれ覚えてたのか」
「うん・・・よく分からないけど、なぜか引っ掛かっちゃって・・・」
どうしていいか分からない2人のところに、
大きな声で騒ぎながら、一人飛び込んできた。
「先輩!!先輩!!堀江先輩!!春見先輩!!」
「醒ヶ井くん・・・?」
「なんだサメ、うるせぇな」
飛び込んできたのは1年生の醒ヶ井だった。
彼もまた、監督が残した言葉を聞いていた一人だった。
「あっ・・・すいません・・・いや、そんなことよりもですね!」
醒ヶ井の手には1枚のディスクがあった。
不織布とビニールでできたスリーブに入ったそれは、どうやらDVDか何かのように見える。
「分かったんです!監督が言ってたことの意味が!」
「監督の言葉の・・・?」
「意味が分かった・・・?」
醒ヶ井は2人を部室に連れていき、
ノートパソコンを使って、そのディスクの中身を見せた。
「2人とも、これを見てください」
醒ヶ井がその中身の映像を再生する。
そこに映っていたのは。
「・・・これは、まさか」
「醒ヶ井くん、どうやってこの映像を・・・?」
「親戚がテレビ局勤務なんです
なんとかお願いして、この映像をDVDに焼いてもらいました」
そこに映っていたのは、紛れもなく、高校時代の上町だった。
しかも、その上町が立っているのは、どう見ても甲子園球場のマウンド。
そう。
それは、封印されているはずの、上町の甲子園での登板映像だった。
その上町が投げている、そのフォームは。
「「・・・サイドスロー!?」」
「そうなんです先輩、これが監督が言っていた言葉の意味だったんです」
年齢相応に、今よりも張りがあるように見えるその豊潤なバストを振り回すように、
腰のキレを使って、遠心力を生み出しているように見える。
そのサイドスローから繰り出されるストレートは、上町がサウスポーであることを抜きにしても、
素人目に見ても切れ味満点のように見える。
「・・・そうか、そういうことだったのか」
「・・・みっくん、ボクも分かったよ」
なんでコマは回り続けられるのか。
それは回転に対して慣性が働いているからだ。
また、その慣性は、回転軸の外周部が重いほど大きく働く。
つまり、女体化によって大きく育ったバストをウェイト代わりにして、
サイドスローから放たれたボールには、相応の威力が発生するのである。
なるほど、監督が言っていたのはそういうことだったんだ。
カナタ・ミツキ・醒ヶ井の3人はようやく気付くことができた。
一つの道筋が作られたことに、ミツキと醒ヶ井は安堵の表情を浮かべたが、
カナタだけは不安と困惑を隠さなかった。
「・・・どうした、カナタ?」
「いや・・・みっくん、分かるでしょ?」
「・・・あっ!!」
「・・・醒ヶ井くんは気付いたみたいだね」
「何が・・・あっ・・・ああ!!」
少し遅れてミツキも大事なことに気付いた。
大事なこと、その上にある大きなリスクに。
「このタイミングでフォームを大きく変える、ってことだよ?」
それまでのカナタは細身の、それでいてしなやかな身体をフルに使って、
右腕を上から下へ、鞭を振り下ろすように叩き付けるオーバースローだった。
そのフォームから繰り出されるストレートは糸を引いてキャッチャーミットに吸い込まれ、
自慢のスプリットは、そのままバッターの意識もろとも奈落まで落ちていった。
そのフォームをサイドスローに変えるのである。
サイドスローはオーバースローと比べると、コントロールはつきやすくはなるが、球速はやや落ちる。
そして何より、オーバースローと比べての、サイドスローのデメリットは、
「下に落ちる変化球が投げにくくなる」ということだった。
サイドスローだと下に落ちる変化球がまったく投げられなくなるわけではないのだが、
少なくとも、それまでのようなスプリットは投げられなくなるし、
投げられる変化球そのものが限定的になってくる。
もっとも、変化球に関しては、オーバースローと比べるとメリットになる部分も多い。
メリットとしては「横変化の変化球は投げやすくなる」「シンカーを投げやすくなる」といったところが挙げられる。
だが、そんなことよりもカナタが気にしているのは、故障のリスクだ。
ピッチャーにとって、フォームの変更ほどリスクを大きく孕んだ選択肢はない。
成功すれば、タイプの違うピッチャーとしてもう一段の成長ができる可能性があるが、
もし失敗してしまうと、肩や肘や腰などの関節を痛めるばかりか、
最悪の場合はイップスになってしまう可能性もある。
イップスになってしまった場合は本当に最悪だ。
下手を打つと、二度とピッチャーとして野球を続けられなくなるかもしれない。
そして、さらに、もう一つ大きな懸念点もあった。
「サイドスローって、身体を折り畳んで投げるんだけど」
「・・・ああっ!!」
そう、サイドスローは力を溜めるために、身体を折り畳むことになる。
それはつまり、この先間違いなく大きく膨らんでいくお腹を圧迫することになる、ということだ。
「つまり・・・身体を折り畳まずにサイドスローで投げる・・・?」
「そうするとどうなりそうか、みっくんなら分かるでしょ?」
「・・・ただの手投げになるじゃねぇか」
「春見先輩、答え出たじゃないですか」
醒ヶ井が口を挟む。
その言葉にミツキはピンと来ない顔をしたが、
カナタはなんとなく気付き、そして先を続けた。
「・・・あるな・・・うん、ある、多分これ一つだけだけど
手投げでも相手を抑えられるサイドスローになる方法が」
「さすが堀江先輩」
「いや・・・醒ヶ井くんの考えと合ってるかは分からないけど・・・醒ヶ井くん、ちょっといい?」
そう言うと、カナタは醒ヶ井に耳打ちして、自分の考えを伝えた。
どうやらそれは、醒ヶ井の考えと間違っていなかったらしい。
「その通りです堀江先輩、春見先輩にも言ってあげてください」
醒ヶ井の言葉に、カナタは軽く頷いて応え、
醒ヶ井のと間違っていなかった自分の考えをミツキに告げた。
「みっくん、一つだけだけど、あるんだよ」
「手投げのサイドスローで相手を抑えられる方法が、か?」
「うん、そう、その通り、それはね」
カナタは傍らにあったボールを掴むと、ある変化球の握りにして、それをミツキに見せ付けた。
それを見たミツキもまた、自分のキャッチャーとしての不明さを恥じることになった。
「・・・そうか!手投げとは言わんけど、それでもそれなら確かに!」
「ようやくみっくんも気付いた?」
「あぁ、もしかしたら・・・なんとかなるかもしれんな」
カナタがミツキにしてみせた変化球の握り。
それは、ナックルボールだった。
ナックルボールは「現代の魔球」と言われる変化球だ。
握り方も特殊なら、投げ方も特殊、そして変化の仕方も特殊である。
力感のないフォームから、独特の握りにより、ほぼ無回転で放たれたボールは、
空気抵抗を大きく受けて、不規則な変化を起こす。
ナックルボールが効果的な変化を起こすためには、
その投球フォームや腕の振りから、可能な限り力感を取り除く必要がある。
下手に力が入ってしまうと、ナックルボールは単なる緩い棒球になってしまうからだ。
そのために、ナックルボールは習得がかなり困難な変化球なのである。
しかし、その困難な道を、カナタはあえて進むことにした。
「・・・夏の県大会まで、あと7ヶ月・・・カナタ、いけるか?」
「行くしかないでしょ、みっくんこそ大丈夫そう?」
「・・・お前がやるって言うんなら、俺もやるしかねぇだろ」
こうして、カナタとミツキの特訓が始まった。
参加しているのは2人だけ。
来年の夏までに、外に漏れないよう、可能な限り誰にも知られずに進めなくてはならない。
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「・・・これでいいのかな」
体調を見ながら、少しずつフォーム作りを始めたカナタだったが、
やはり「これでいいんだろうか」と、探り探りになるのは仕方なかった。
無理もない。
それまで本格派のオーバースローだったのをサイドスローにし、
それに加えてナックルボーラーにならなければならないのだ。
遊びでサイドスローで投げてみたり、それこそおふざけでナックルボールを投げてみたことはある。
しかし、その両方を両立させて、試合で使えるように、
いわんや、完璧に抑えられるようにしなければならないのだ。
そう考えると、夏の県大会が始まる7月までの、およそ6ヶ月という期間は、
思ってるほどには長いわけではなさそうだった。
しかし、カナタはあえて回り道をすることにした。
「どう、みっくん?」
「おお、いい感じじゃないか?こっちから見てても回転ないのが分かる」
まずカナタは、ナックルボールの投げ方を完璧にするところから始めた。
最初からサイドスローでナックルボールを投げることを考えると、
恐らく、もとい、ほぼ確実にフォームがバラバラになってしまうだろう。
だからこそ、まずはこれからの武器になる変化球の投げ方から始めた。
そのおかげか、あるいは元々ピッチャーとして才能を持っていたカナタだからか、
少なくともオーバースローからナックルボールを投げることに関しては、1ヶ月ほどで支障がなくなった。
今度はその腕の位置を、少しずつ下げていった。
徐々に、日に日に少しずつ、腕をオーバースローからサイドスローの位置にしていき、
腕の位置を下げながらナックルボールを投げ続ける。
この作業におよそ半月ほどがかかった。
特訓開始から2ヶ月ほどが経っているわけだが、
このころの2人は揃って妊娠5ヶ月を迎えていた。
「すげぇな、どんどんでかくなっていくな、その腹」
「・・・みっくんこそ、人のこと言えるの?」
2人が特訓を進めていく間にも、その胎内に宿った命は成長していった。
最初に妊娠が発覚したあと、しばらくしてから行なわれた検査で、
2人が授かった胎児の数がはっきりと判明した。
「・・・堀江くんは三つ子みたいね、春見くんは・・・これは・・・」
「・・・なんですか、先生?」
「・・・聞いて落ち着いていられる?」
「今さらもう何聞いても驚けないです」
「春見くんは7人いるっぽいわね」
さすがにその数を聞いたミツキは、驚きを隠せなかった。
そのミツキの表情を見たドクターは、少し悪戯っぽくミツキに言った。
「・・・もう驚けないんじゃなかったの?」
「いや・・・さすがに七つ子は想像してなかったです・・・え?ていうか、大丈夫なんですか?」
「保健の授業とかでも習ったでしょ?
女体化による妊娠は多胎の確率が高いけど、母体への悪影響はほとんどない、って」
「「まぁ・・・そう聞いてますけど・・・」」
ドクターの言葉に、カナタとミツキが声を合わせて答えた。
そう、世界を覆ったこの女体化異変によってもたらされる妊娠は、
多胎妊娠になる確率が、通常の妊娠よりも高くなることが判明している。
もちろん多胎妊娠しない場合もあるし、実際に上町の高校3年生のときの妊娠は単胎だった。
しかし、それによる多胎妊娠では、本当に理由や原因が分かっていないのだが、
何故か母体へのトラブルが起きにくくなることも判明していた。
神の悪戯か、悪魔の遊興か。
それまで普通に生活していた男性が、急に女体化し、あまつさえ妊娠する。
それまでドラマや漫画の話でしかなかったことが、今や世界では普通のことになっている。
あまりにも多くのことが起こりすぎて、もはや自分たちが男性であったことを忘れそうになるが、
それでも、それぞれが自室に、未練のように残している学生服を見ると、
「あぁ・・・本当に女体化しちゃったんだな」と、カナタもミツキも物思いに耽ることがある。
その上で、日々大きくなっていくお腹が、2人には愛おしく感じられた。
そんな日々を過ごしながら、特訓も進めていくカナタとミツキだったが、
いよいよ本格的なサイドスローのフォーム作りに入った。
しかし、ここで一つの問題が発生した。
それは、2人にはすでに分かりきっていたことではあったが。
「・・・みっくん、ダメだ」
「いや、まぁ、しょうがねぇよなぁ・・・」
2人にはすでに分かりきっていたこと。
それは、「サイドスローは力を溜めるために身体を折り畳むフォームである」ことだった。
そのイメージがあるため、どうしてもカナタは、上半身を前傾させてしまっていた。
このままでは、すでにある程度の膨らみを見せていて、この先さらに大きくなっていくお腹を圧迫することになる。
いくら女体化による多胎妊娠は母体への悪影響がほとんどないとはいえ、
これを続けてしまうことがいい方向に動くとは到底思えない。
しかし、かといって、これではフォームを完成させることができない。
が、それは、あまりにも単純なアイデアで解決されることとなった。
「・・・ぷはっ!ははははは!なんだよカナタ、その格好!ははははははは!」
「・・・笑いたかったら笑いなよ、みっくん
これでもボクは本気なんだよ」
ある日、室内練習場に現れたカナタは、ミツキが笑ってしまうのも無理のない姿だった。
それは、練習で使っているバランスボールをテーピングでお腹に固定し、大袈裟なボテ腹を抱えた様だった。
「はははははっ!確かにそれなら身体が曲げられないだろうけどさ!ははははははは!」
「いや、ホント・・・みっくん、そこまでにしようよ、始めるよ」
「OK、OK、分かった分かった!さぁ、来い!」
そのアイデアが、ピッタリとハマッたモノであったことに、
ミツキは最初の一球で気付かされることになる。
お腹が大きいが故に、脚は上げられない。
クイック投法のように軽く振った程度で、あとは上半身を少し捻り、
大きく実ったバストと、これから大きく実ることを想定したお腹を重りにして、遠心力で腕を出していく。
その投げ方から放たれた一球は。
「おい、カナタ・・・これ・・・」
「・・・どう、みっくん?」
監督の言ってたことへの
これがボクの『答え』だよ、みっくん
「いや・・・まさか・・・やっぱてめぇって奴は・・・」
高校入ってからコイツとはずっと一緒だったけど
まさかここまでだとは思ってなかったよ
まさか・・・いや、ホントまさか、こんな短期間でここまで行けるなんてな・・・
ナックルボールを投げるために必要な、力感のないフォームがその身体によって作られた。
そのフォームから放たれた一球は、完璧なナックルボールだった。
回転のないボールは空気抵抗をモロに受け、それによって生み出される揺れと共に下へと落ちていく。
あまりの変化に、ミツキはそのキャッチャーミットに収めることができなかった。
その上で、2人にはさらにもう一つの問題が浮かび上がってきた。
「悪ぃ、カナタ、ちょっと休ませてくれ・・・」
「あっ・・・うん、そうか、そうだよね」
ミツキの身体で育っている胎児は7人だ。
お互いに5ヶ月を迎えているが、そのお腹はカナタと比べると違いがはっきりと分かる。
三つ子を孕むカナタとは比べ物にならない大きさを、ミツキはすでに抱えていた。
その体型では、とてもじゃないがキャッチャーの体勢を取り続けることはできない。
さらに、カナタはナックルボールを仕上げてしまった。
ただでさえ捕球が難しいボールに、例え練習だとしても付き合えないとなると、果たして誰が捕ればいいのか。
だが、その答えはすぐに出た。
「「さーめがーいくぅーん」」
「はい、なんですかせんぱ・・・堀江先輩!?なんですかそれ!?」
カナタとミツキの考えは至極単純で簡単だった。
「俺が無理でも、キャッチャーはいるじゃないか」
その白羽の矢は、醒ヶ井に立てられた。
「いいからいいから、ちょっとボクたちに付き合ってくれないかな?」
「はぁ・・・」
こうして、カナタのナックルボールを受けるために、醒ヶ井を使うことにしたのであった。
醒ヶ井もナックルボールを受けるのは初めてだ。
しかし、だからこそ、醒ヶ井の受け方を見て、自分も学ぶところはあるはずだとミツキは考えた。
加えて、恐らく自分のあとにレギュラーとなるのは醒ヶ井だろうと踏み、
自分が持っているモノを醒ヶ井に教えるにはいい機会になると思ったのもある。
カナタにしても、せっかく投げられるようになったこのフォーム、このナックルボールを、ただ投げるだけにはできない。
未完成であっても、せめてホームベースにいてくれるキャッチャーがいなくては宝の持ち腐れだ。
この機会に、いろんなことをこの後輩に教えるのは、間違いなくチームのためになるはずだ。
さらに醒ヶ井からしても、これは間違いなく勉強になるし、経験になる。
ミツキがいることで、その卒業までは自分がレギュラーとなることはないだろう。
それならば、せめて練習だけでもミツキから学ばせてもらうのは大きな財産になる。
ここに3人の利害は一致した。
その様子を、見つからないよう小窓越しに、外からこっそりと見ていた人物がいる。
「・・・任せたぞ」
時はあたかも3月も半ばになろうというところ。
本来なら自分たちもそこにいたはずのセンバツのため、
チーム本隊が甲子園に向かう日がやってきた。
「・・・すまん、カナタ、ミツキ」
「監督、謝らないでください」
「そうですよ監督、勝って帰ってきてくれればいいんですよ」
「ミツキぃ・・・お前分かってるだろぉ・・・あそこで勝つことがどれほどしんどいかって・・・」
「堀江、春見、見守っててくれ」
「俺たちだけでも、やれるところを見せてやるからな!」
「どうかこのセンバツは僕らに任せてください、先輩」
「僕も、頑張ってホームベース守りきってみせます、春見先輩」
そう言ったのは、ミツキに代わってキャッチャーを任されることになった醒ヶ井だった。
ユニフォームのその背中には、レギュラーキャッチャーの証である「背番号2」が輝いていた。
「はっ、言ってられるのも今のうちだぞ、サメ
夏には奪い返してやるからな、それまではせいぜい楽しみな」
「・・・はい!」
「大丈夫だよ、今の醒ヶ井くんなら充分やれるはずだから」
「ありがとうございます、堀江先輩」
カナタとミツキを激励しながら、上町に率いられて、チームはいよいよ出発する。
「よし・・・じゃあ行ってくるからな!カナタ、一発頼む!」
「はい、監督・・・じゃあ、みんな」
カナタとミツキ、そして上町を中心に置き、チームメイトが輪を作って囲む。
その中で、カナタはキャプテンとして檄を飛ばした。
「ボクらもスタンドにはいるからね、でもボクらのためにやろうとは思わないで
グラウンドでプレーするのはみんななんだから、自分のために頑張って」
「「「「「はい!!!!!」」」」」
「自分ができることを全力で、だよ、そんなわけで・・・ファイトだ!」
「「「「「ファイトだー!!!!!」」」」」