第9話
皇后の謁見の間を辞した後も、麗華の胸の高鳴りは止まらなかった。
皇后が、麗華の作り出した瑠璃色の染料に興味を示したこと。
それは、麗華の「色彩戦略」が、宮廷の最も高位な人物にまで届いた証だった。
(これで、黎殿下の無実を晴らし、彼の失われた地位を取り戻すための、大きな一歩を踏み出せたわ!)
翌日、皇后からの呼び出しがあった。
麗華は、翠蘭を伴い、再び宮廷へと向かった。
謁見の間に通されると、皇后は、昨日と同じ瑠璃色の布を手に、麗華を待っていた。
彼女の顔には、疑念よりも、純粋な好奇心が色濃く浮かんでいる。
「この染料について、詳しく聞かせてもらおう。本当に、煌国の素材でこの色が出せるというのか?」
皇后の言葉には、挑戦的な響きがあった。
麗華は、深々と頭を下げ、静かに話し始めた。
「はい、皇后様。この瑠璃色は、煌国の『蒼石』という鉱物と、『天藍草』という植物を、特殊な方法で組み合わせることで生み出されます」
麗華は、染料の製法について、専門的な知識を交えながら、しかし皇后にも理解できるように、丁寧に解説していった。
「一般的な染料は、単一の素材から色素を抽出しますが、この瑠璃色の染料は、異なる性質を持つ二つの素材の反応を利用しています」
「蒼石を粉末にし、特定の温度で加熱することで、色が安定します。そこへ、天藍草から抽出した色素を、最適な比率で混ぜ合わせるのです」
「さらに、染料が繊維にしっかりと定着するよう、媒染剤の選定と、染める際の温度管理を徹底いたしました。これにより、これまでになかった、この深い瑠璃色が実現するのです」
麗華は、まるで大学の講義のように、熱意を込めて語った。
彼女の言葉は、単なる染料の製法を説明するだけではなかった。
それは、煌国の素材の可能性、そして、まだ見ぬ色彩の創造に対する、麗華自身の情熱を伝えていた。
皇后は、麗華の説明に、真剣な眼差しで耳を傾けていた。
彼女の表情は、次第に驚きと感嘆の色に変わっていく。
「なるほど……それは、我々がこれまで知らなかった、新たな技術というわけだな」
皇后は、瑠璃色の布を指先でなぞった。
「この布は、触り心地も滑らかだ。まるで、夜空の星を掴んだかのような……」
麗華は、皇后の言葉に、心の中で微笑んだ。
(触覚から、色彩を感じ取ってくれている……!)
「皇后様。この瑠璃色は、心を落ち着かせ、集中力を高める効果があると言われております。また、希望や清らかさを象徴する色でもございます」
麗華は、色彩心理学の観点からも、瑠璃色の持つ意味を説明した。
皇后は、麗華の言葉を聞き終えると、しばらく沈黙した。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「麗華妃……そなたに、この染料を使って、わたくしの衣装を仕立ててもらいたい」
皇后の言葉に、麗華の心臓は大きく跳ねた。
これは、麗華の「色彩戦略」にとって、願ってもない好機だった。
「かしこまりました、皇后様。精一杯務めさせていただきます」
麗華は、深々と頭を下げた。
皇后の衣装を仕立てる話は、瞬く間に宮廷中に広まった。
これまで「廃皇子の妃」として、宮廷の隅に追いやられていた麗華が、皇后直々に衣装の制作を依頼されたのだ。
これは、宮廷の常識からすれば、異例中の異例だった。
特に、第一皇子・煌淵や第二皇子・煌峻といった、黎皇子を疎む勢力にとっては、看過できない事態だった。
彼らは、麗華が離宮で行っている「色彩による宮廷改革」の噂を耳にはしていたが、まさか皇后がそれに手を貸すとは考えてもいなかったのだ。
煌淵皇子の執務室では、怒りにも似た声が響いていた。
「何だと!?あの廃皇子の妃が、皇后に衣装を仕立てるだと!?ふざけるな!」
煌淵は、机を強く叩き、書類を散乱させた。
彼の侍従は、恐怖に震えながら報告を続けた。
「は、はい。皇后様が、黎殿下の妃殿下が作り出したという『瑠璃色』の染料に、大変興味をお持ちになられたようで……」
「瑠璃色だと?くだらぬ!色が何だというのだ!権力こそが全てではないか!」
煌淵は、麗華の試みを嘲笑った。
一方、煌峻皇子の執務室では、また別の空気が流れていた。
煌峻は、静かに報告を聞いていたが、その表情は険しかった。
「あの黎が……そのような妃を娶っていたとはな。見くびっていたようだ」
煌峻は、静かに思案を巡らせていた。
彼は、煌淵のような感情的な反応は示さなかったが、麗華の存在が、黎皇子の地位にどのような影響を与えるかを冷静に分析していた。
「あの妃は、離宮の雰囲気を変え、使用人たちの心を掌握していると聞く。そして今、皇后様まで手中に収めようとしている。これは、警戒すべき存在だ」
煌峻は、麗華の行動を、単なる美化の試みではなく、巧妙な「宮廷戦略」と捉え始めていた。
麗華が宮廷にもたらすであろう影響について、他の皇子たちが議論を始める中、麗華は皇后の衣装制作に没頭していた。
彼女は、皇后の体型、肌の色、そして彼女の持つ威厳と個性を引き出すためのデザインを考案した。
(皇后様は、単に美しいだけでなく、この国の権力を象徴する存在。その威厳を損なわず、それでいて新しい「色彩の力」を示す必要がある)
麗華は、瑠璃色を基調とし、そこに煌国の伝統的な文様を、別の色で繊細に施すことを考えた。
しかし、瑠璃色の魅力を最大限に引き出すためには、他の色の選定が重要だった。
色彩理論でいうところの「補色」や「類似色」の組み合わせを考慮する。
例えば、瑠璃色の補色であるオレンジ系の色を差し色に使うことで、互いの色をより鮮やかに見せる効果がある。
麗華は、皇后の持つ気高さと、瑠璃色の清らかさを際立たせるため、控えめながらも効果的な金の刺繍を施すことを決めた。
金は、煌国において最高の権力を象徴する色。
しかし、単に派手に使うのではなく、瑠璃色の背景に溶け込むように、繊細な線で表現することで、洗練された印象を与える。
また、皇后の衣装には、瑠璃色の染料に、心を落ち着かせる効果を持つ「月桂」の香りを、さらに濃厚に染み込ませた。
これは、皇后自身の心境にも影響を与え、彼女が政務を執る際に、より冷静な判断を下せるようにという、麗華の密かな願いが込められていた。
数週間後、皇后の衣装が完成した。
それは、これまでの煌国の宮廷衣装とは一線を画す、圧倒的な美しさと品格を備えていた。
深みのある瑠璃色が、皇后の威厳ある姿を包み込み、金の刺繍が、控えめながらも煌国の繁栄を象徴している。
皇后がその衣装を身につけた瞬間、宮廷の侍女や宦官たちは、一斉に息を呑んだ。
彼らは、皇后の姿から放たれる、かつてないほどの荘厳さと、神秘的な美しさに魅了された。
皇后自身も、新しい衣装に袖を通し、その軽やかさと肌触り、そして瑠璃色の奥深さに、驚きを隠せない様子だった。
彼女は、静かに目を閉じ、衣から漂う月桂の香りを深く吸い込んだ。
「……素晴らしい」
皇后が、静かに呟いた。
その声には、心からの満足と、麗華に対する確かな評価が込められていた。
この瞬間、麗華の「色彩戦略」は、宮廷の最も高い場所で、最初の成功を収めたのだ。
皇后が新しい瑠璃色の衣装を身につけ、宮廷に姿を現した日。
宮廷の空気は、これまでになく大きく揺れ動いた。
他の皇子たちや重臣たちは、皇后の変貌ぶりに驚きを隠せない。
煌淵皇子は、皇后の姿を見て、不機嫌そうに顔を歪めた。
「あの妃の仕業か……」
彼の目には、麗華の存在が、単なる美を追求する者ではなく、宮廷の秩序を乱す、危険な存在として映り始めていた。
一方、煌峻皇子は、皇后の衣装をじっと見つめ、そのデザインと色彩の洗練さに、ある種の脅威を感じていた。
「あの妃は……ただ者ではない。美の力で、人心を操ろうとしているのか……」
彼は、麗華の持つ「色彩の力」が、単なる装飾ではなく、政治的な影響力を持ちうることに気づき始めていた。
麗華の「色彩の講義」と、皇后の新しい衣装は、宮廷に大きな波紋を広げた。
それは、美意識の変化だけでなく、権力構造にまで影響を及ぼし始める、新たな時代の幕開けを予感させるものだった。
麗華は、これから始まるであろう宮廷での激しい駆け引きを予感しながらも、その瞳には、確かな輝きを宿していた。
彼女の使命は、まだ始まったばかり。
黎皇子のために、そして煌国に真の色彩を取り戻すために、麗華の挑戦は続く。




