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第8話


黎皇子の誕生日を境に、離宮の空気は目に見えて変化していた。

以前は沈みがちだった使用人たちの表情は明るくなり、どこか陰鬱だった離宮の建物全体も、麗華が施した色彩によって、穏やかな光に包まれているようだった。

麗華の「色彩戦略」は、単なる美化に留まらなかった。

彼女は、離宮の各所で働く使用人たちの作業効率や精神状態にも着目し、色彩心理学の知見を応用した。

例えば、厨房では、清潔感を保ちつつ、作業者の集中力を高めるために、純粋な白と清涼感のある水色の陶器を多く用いるよう指導した。


(白は衛生、水色は清涼感と集中力。これは厨房作業の基本よね)


食材の配置にも工夫を凝らした。

鮮やかな赤やオレンジの野菜、緑豊かな葉物野菜を、色の対比を意識して並べることで、視覚的に食欲を刺激し、同時に色彩の豊かさを無意識に感じさせる効果を狙ったのだ。

また、書庫や記録室のような場所には、思考を邪魔しない落ち着いた色合い、具体的には、深みのある緑や、アースカラーの調度品を配置した。

光の取り入れ方にも配慮し、紙面が読みやすいよう、窓には薄手の生成り色の布を吊るした。


これらの細やかな配慮は、使用人たちの間で「麗華様の御力」として語り継がれるようになり、彼らは以前にも増して麗華を慕うようになった。

彼らの明るい笑顔と活気は、離宮全体に良い循環を生み出し、黎皇子自身にも、微かながら影響を与えているように麗華は感じていた。


黎皇子は、相変わらず感情を表に出すことは少なかったが、麗華が新しい色の布を彼の執務室に置くたびに、以前よりも長くそれに触れるようになった。

特に、彼が好んで触れるのは、藍色や瑠璃色の布だった。

それは、彼の母君、月華妃が愛した色。

麗華は、彼が布に触れるたびに、彼の瞳の奥に微かな光が宿るのを確かに見ていた。


(彼は、色を「見て」いるわけじゃないけれど、その「存在」を感じているんだわ。そして、それが母君との繋がりを思い出させている……)


色彩は、単なる視覚情報ではない。

それは、記憶を呼び起こし、感情を揺さぶる力を持っている。

麗華は、その力を最大限に引き出すために、黎皇子の過去と現在の生活を繋ぐ「色彩の架け橋」を築こうとしていた。

しかし、離宮の変化は、宮廷の他の皇子たちの耳にも届き始めていた。

特に、次期皇帝の座を巡って黎皇子を疎む、第一皇子・煌淵こうえんと第二皇子・煌峻こうしゅんは、離宮の変化を警戒していた。


煌淵は、武勇に優れ、軍部からの支持が厚い。

一方、煌峻は、学識深く、文官からの信頼が篤い。

どちらも、自らの勢力を拡大し、皇位継承の有力候補となるべく、黎皇子の動向を常に探っていた。

彼らにとって、存在感の薄い「廃皇子」である黎が、麗華という妃を迎えて変化を見せ始めたことは、見過ごせない事態だった。


ある日のこと。

麗華が庭園で、新たな染料の原料となる花を摘んでいると、見慣れない男たちが離宮の門の方へ向かっていくのが見えた。

彼らは、煌淵皇子の紋章の入った衣を身につけている。


(まさか……何をしに来たのかしら?)


麗華は、胸騒ぎを覚えた。

彼女は、急いで離宮の奥へと戻り、侍女の翠蘭に尋ねた。


「翠蘭、今、煌淵皇子の使者が離宮にいらしたようだけど……何かあったの?」


翠蘭は、顔色を曇らせて答えた。


「はい、麗華様。煌淵殿下から、黎殿下への『祝いの品』だとかで、侍従の者が届けに参ったと聞いております。しかし……」


翠蘭は言葉を濁し、不安げに麗華を見上げた。


「しかし、何?」


「わたくしどもには、その中身を見ることを禁じられ……ただならぬ雰囲気がございました」


麗華の胸に、嫌な予感がよぎった。

宮廷の皇子たちの争いは激しい。

特に、第六皇子である黎皇子は、かつては有力な後継者候補だったが、母君・月華妃の死と足の怪我により、その地位を失い、「廃皇子」として遠ざけられていた。

しかし、麗華が離宮に来てから、離宮の雰囲気が変わり始めたこと。

そして、黎皇子自身にも微かな変化が見られることは、他の皇子たちにとって看過できないことだったのだろう。


麗華は、急いで黎皇子の執務室へと向かった。

扉を開けると、そこには、無数の「灰色」に染められた布が散乱していた。

煌淵皇子からの「祝いの品」とされたそれは、煌国の最高級の絹を、わざと鮮やかさを失わせるような染料で、灰色に染め上げたものだった。

絹は、本来ならば光を受けて美しく輝くはずだが、それらの布は、まるで生気を失ったかのように、くすんだ灰色をしている。


部屋の中央には、黎皇子が立ち尽くしていた。

彼の顔は、いつも以上に無表情で、その瞳には、深い虚無が宿っているように見えた。

彼の足元には、布の束が、まるで彼を嘲笑うかのように転がっていた。


(なんてこと……これは、彼を傷つけるための、悪意に満ちた贈り物だわ!)


麗華の胸に、激しい怒りが込み上げた。

彼らは、黎皇子の「色が見えない」という弱みを、残酷な形で突いてきたのだ。

麗華は、散乱する布の中から、一枚を手に取った。

その布は、まるで冷たい死の気配をまとっているかのように、麗華の指先まで冷え込ませる。


「殿下……」


麗華は、震える声で黎皇子の名を呼んだ。

黎皇子は、ゆっくりと麗華の方を振り向いた。

その瞳は、やはり無色だったが、その奥には、深い絶望と、諦めの感情が渦巻いているように見えた。


「……見ろ、麗華」


黎皇子が、静かに口を開いた。

その声は、かつてないほど冷たく、そして感情が抜けていた。


「これが、私の世界だ。どこまでも続く、灰色の世界。どれほど美しい色を纏わせようとも、私には、全てがこうして、灰色にしか映らぬ」


彼は、手にしていた灰色の布を、自らの顔の前に掲げた。

その仕草は、自らの宿命を受け入れざるを得ない、悲痛な叫びのように麗華には感じられた。

麗華は、彼の言葉に、胸が締め付けられた。


(違う! そんなことはない! 彼の世界は、もう灰色だけじゃない!)


彼女は、彼に駆け寄り、その灰色の布をそっと下ろさせた。

そして、代わりに、以前彼に見せた、麗華が作った瑠璃色の布片を彼の手に握らせた。


「いいえ、殿下! 確かに、殿下のお目にはこの灰色しか映らないのかもしれません。しかし、殿下の心には、もう既に色がございます!」


麗華の声は、はっきりとしていた。

彼女は、黎皇子の瞳をまっすぐに見つめた。


「この瑠璃色の布を、感じてくださいませ! 殿下のお母様、月華妃が愛された、希望の色でございます!」


黎皇子は、麗華の言葉に、わずかに息を呑んだ。

彼の指が、瑠璃色の布をぎゅっと握りしめる。

しかし、その顔は、やはり絶望に満ちていた。


「……無駄だ」


彼の声は、諦めに満ちていた。


「どれほど温かさを感じようとも、どれほど香りを嗅ごうとも、私の目に映るものは、所詮、灰色の虚無に過ぎぬ」


彼は、瑠璃色の布片を、静かに床に落とした。

その瞬間、麗華の心に、激しい痛みが走った。

それは、彼女の努力が否定されたことへの痛みではなく、黎皇子の深い絶望を目の当たりにしたことへの痛みだった。


(このままでは、彼は、本当に灰色の世界に囚われてしまう……!)


麗華は、黎皇子を救うため、次の手を打つ必要があると直感した。

単なる「感覚へのアプローチ」だけでは、彼の心の壁を完全に打ち破ることはできない。

彼に、自らの意思で、失われた色彩を取り戻したいと願わせるような、強い「動機」が必要なのだ。

麗華は、床に散らばる灰色の布と、その傍らに落ちた瑠璃色の布片、そして絶望に沈む黎皇子を見つめた。

彼女の瞳の中に、新たな決意の光が宿った。


(宮廷に乗り込むしかないわ……! 彼らの悪意を、色彩の力で打ち砕いてみせる!)


麗華は、煌国の宮廷が、皇子たちの権力争いの渦巻く危険な場所であることを知っていた。

しかし、黎皇子を救うためには、その危険を冒す覚悟が麗華にはあった。

彼女の使命は、彼の世界を彩ること。

そのために、彼女はどんな困難にも立ち向かう。

麗華の心の中で、テキスタイルデザイナーとしての「戦略」が、より大規模な「宮廷改革」へと昇華されていく。

それは、単なる布や色の話ではない。

人の心を変え、社会を変革する力を持つ、色彩の革命だった。




翌日、麗華は、翠蘭を伴い、宮廷への参内を申し出た。

離宮から宮廷へ向かう道のりは、これまでとは全く異なる緊張感に包まれていた。

煌国の宮廷は、壮麗な建築と、厳格な儀礼に彩られている。

しかし、その華やかさの裏には、皇子たちの権力争い、妃たちの陰謀、そして重臣たちの思惑が複雑に絡み合う、危険な場所でもあった。

麗華は、華やかな衣を身につけ、顔には微笑みを浮かべていたが、その心の中では、周到な計画が練られていた。


(私は、ただの妃じゃない。森川彩音として、ここで、私のデザインの力を見せつけるんだ!)


宮廷に入ると、麗華は、まず驚くべき光景を目にした。

そこには、離宮とは比較にならないほど、鮮やかで多様な色彩が溢れていた。

しかし、その色彩は、麗華の目から見れば、どこかちぐはぐで、統一感がない。

富と権力を誇示するためだけに、無秩序に色が使われているように感じられた。

麗華は、この宮廷の「色彩の歪み」こそが、彼女の戦略の鍵となると直感した。

宮廷の侍女や宦官たちは、麗華の存在に気づくと、好奇の視線を向けた。


「あれが、黎殿下の新しい妃殿下か……」


「離宮に引きこもっていると聞いていたが、ずいぶん派手な格好をしているな」


そんな囁きが聞こえてくる。

しかし、麗華は、それらの視線を臆することなく、堂々と宮廷の奥へと進んでいった。

彼女が目指すは、皇后の謁見の間だった。

現在の皇后は、黎皇子を冷遇する立場にあり、宮廷内で絶大な権力を握っていた。

彼女に謁見を申し出ることは、麗華にとって大きなリスクを伴う行為だった。

しかし、麗華には、ある確信があった。


「皇后様は、美を愛する方だと伺っております。ならば、私の作り出したこの『色』に、必ず興味をお持ちになるはず」


麗華は、皇后に謁見を願い出る際、あえて、自身が着用している衣の一部に、麗華が作り出した瑠璃色の布を忍ばせた。

皇后の侍女が、麗華の持つ瑠璃色の布片に気づき、驚きの声を上げた。


「これは……見たことのない色だわ!」


麗華は、皇后に謁見が叶うと、深々と頭を下げた。

皇后は、麗華を冷たい視線で見下ろしていた。


「黎殿下の妃殿下か。何の用だ。わたくしに会うなど、一体何を企んでいる?」


その声には、はっきりと敵意が込められていた。

麗華は、冷静に答えた。


「皇后様、わたくしは、皇后様の美に対する深い造詣に感銘を受け、この度、ある贈り物をお持ちいたしました」


麗華は、そう言って、丁寧に包んだ瑠璃色の布を皇后に差し出した。

皇后は、布を手に取ると、その鮮やかで深みのある色に、わずかに目を見張った。

彼女の顔に、初めて、興味の色が浮かんだ。


「これは……見たことのない色だ。煌国の染料では、このような色は出せぬはずだが……」


皇后は、疑わしげな視線を麗華に向けた。


「はい、皇后様。これは、わたくしが独自に調合した染料でございます。煌国の自然の素材と、わたくしが故郷で学んだ知識を組み合わせることで、初めて生み出された色でございます」


麗華は、自信を持って答えた。

皇后は、瑠璃色の布をじっと見つめていた。

その表情は、先ほどの敵意に満ちたものとは異なり、純粋な好奇心と、美に対する探求心に満ちていた。

そして、彼女の口から、麗華が待ち望んでいた言葉が発せられた。


「……この色を、わたくしの衣装にも使ってみたい。この染料について、詳しく話を聞かせてもらおう」


その瞬間、麗華の心に、勝利の確信が広がった。

これは、麗華の「色彩の挑戦」の、次のステージの始まりだった。

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