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第7話


黎皇子に自ら仕立てた衣装を着てもらい、「ありがとう」という言葉を引き出すことができた夜。

麗華の心は、これまでにないほどの達成感と、確かな希望に満たされていた。

それは、まるでテキスタイルデザイナーとして、難解なプロジェクトを成功させた時のような、高揚感に似ていた。


(彼は、変われる。そして、私もこの世界で、彼の、そしてこの国の未来を彩ることができる!)


翌日から、麗華は、第六皇子である黎皇子の「色彩の回復」に向けた、より具体的な戦略を練り始めた。

彼女は、このプロジェクトを、まるで現代の企業における大規模なブランディング戦略のように捉えていた。

目標は明確だ。

「黎皇子の世界に色彩を取り戻すこと」

そのためには、段階的なアプローチが必要だと考えた。

第一段階は、「五感へのアプローチ」だ。

視覚が機能しない彼にとって、他の感覚、特に触覚、嗅覚、聴覚、味覚、そして第六感ともいうべき「心の感覚」を刺激することが重要となる。

麗華は、書庫から様々な文献を持ち出し、煌国の伝統的な芸術、工芸、食文化について、さらに深く学び始めた。

煌国には、古くから織物、陶器、漆器などの豊かな工芸品が存在していたが、色彩は単調で、様式美を重視する傾向が強かった。


(この国の素材と技術に、現代の色彩理論とデザインを融合させれば、もっと素晴らしいものが生み出せるはず……!)


麗華は、まず離宮の庭園を「色彩のインスピレーションの源」として再評価した。


庭園は、黎皇子の母君である月華げっか妃が生きていた頃は美しく手入れされていたが、今は荒れ放題だった。

しかし、麗華の目には、その荒れた中にこそ、煌国固有の豊かな自然の色彩が隠されているように見えた。

枯れた草木の下に眠る、肥沃な土壌の深みのある茶色。

ひっそりと咲く野草の、素朴だが力強い緑と、小さな花々の可憐な色。

そして、夜空に輝く星々の、無限のグラデーション。

麗華は、それらの自然の色を、まずスケッチブックに描き写した。

次に、それらの色を表現できる染料や顔料の原料を探しに、離宮の敷地内を歩き回った。


彼女は、侍女の翠蘭すいらんを伴い、庭師のりんに協力を仰いだ。

翠蘭は、麗華に仕える侍女の中でも、特に聡明で、麗華の奇抜な発想にも理解を示してくれる数少ない人物だった。

林は、長年離宮の庭園を手入れしてきた老年の庭師で、最初は麗華の指示に戸惑っていたが、彼女の熱意に触れ、次第に協力的になっていった。

「林殿、この植物は、染料になりますでしょうか?」

麗華は、書物で見つけた、色素を多く含むとされる植物の絵を林に見せた。

林は、目を細めて絵を眺め、ゆっくりと頷いた。


「ほう……これは、確かに染料にも使われますな。しかし、色を出すのが難しいと聞いておりますが……」


「わたくしにお任せください。必ず、美しい色を引き出してみせます」


麗華は、自信に満ちた笑顔で答えた。

彼女は、林に、庭園の手入れの仕方についても具体的な指示を出した。

単に美しく剪定するだけでなく、特定の植物を育てること。

季節ごとに異なる色彩の計画を立て、それを実現するための準備を始めること。


それは、単なる庭園の美化ではなく、黎皇子の「色彩の庭」を創造する、壮大なプロジェクトだった。

麗華は、林から集めた植物や鉱物を使い、自室で再び染料と顔料の実験を繰り返した。

今度は、それぞれの色に、異なる香りを付与することにも挑戦した。

例えば、緑色の染料には、林が育てた新鮮なハーブ「青葉せいよう」の爽やかな香りを。

茶色の顔料には、書庫で見つけた古い香木「土香どこう」の深く落ち着いた香りを。


(色彩と香りのペアリングは、彼の記憶に強く訴えかけるはずだわ)


麗華は、色と香りの組み合わせが、黎皇子の記憶や感情にどのような影響を与えるかを緻密に分析した。

これは、現代のマーケティング戦略において、製品のブランディングに用いられる「多感覚マーケティング」の概念と共通するものがあった。


第二段階は、「日常への浸透」だ。

麗華は、黎皇子の執務室、寝室、食堂といった彼が日常的に過ごす空間に、意図的に色彩と香りを配置していった。

彼の執務室には、深みのある緑色の絨毯を敷き、窓辺には青葉の香りを忍ばせた小さな壺を置いた。

集中力を高め、心を落ち着かせる効果を狙ったのだ。

寝室には、淡い桃色の寝具と、安眠を誘う星草の香りを。


食堂には、食欲を増進させる鮮やかな黄色の陶器と、柑橘系の香りのする果物を配置した。

これらの変化は、離宮の使用人たちにも大きな影響を与えていた。

以前はどこか沈みがちだった彼らの表情が、日々明るくなっていくのが麗華には見て取れた。

離宮の空気全体が、以前よりも活気に満ち、穏やかなものに変わっていく。

麗華は、使用人たちにも、色彩と香りの重要性を説いた。


「皆さんが明るく振る舞うことが、殿下の心にも光を灯すのです」


麗華の言葉は、彼らの心に深く響いた。

彼らは、麗華の指導の下、新しい染料の使い方や、香り袋の作り方を学び、積極的に離宮の環境改善に取り組むようになった。

中には、自分たちが普段使う食器や衣類を、麗華が作り出した新しい染料で染め始める者もいた。

離宮全体が、麗華の「色彩戦略」によって、少しずつ、しかし確実に変容していった。

黎皇子は、これらの変化に、直接的な反応を示すことはなかった。


しかし、麗華は、彼のわずかな仕草や表情から、変化を感じ取っていた。

彼は、以前よりも、部屋の絨毯の上をゆっくりと歩くようになった。

食事の際には、新しい色の陶器を手に取り、その感触を確かめるような仕草を見せるようになった。

そして、時折、香りのする方向へと、わずかに顔を向けることがあった。


(彼は、確かに「感じて」いる……!)


麗華は、確かな手応えを感じていた。




ある日の午後。

麗華は、書庫で煌国の歴史書を読んでいた。

その書物には、第六皇子である黎皇子の母君、月華妃が、いかに宮廷の人々に慕われていたかという記述があった。

彼女は、文武両道に秀で、特に芸術と学問に造詣が深かったと記されている。

そして、その記述の中に、麗華の目を引く一文があった。


「月華妃は、特に『瑠璃色』を愛し、その色で染められた衣を多く身につけていた」


瑠璃色。

それは、麗華が最初に作り出した、あの鮮やかな青色のことだ。


(そうか……黎皇子の母君、月華妃は、瑠璃色を愛していたのね……)


麗華は、すぐに黎皇子の執務室へと向かった。

執務室の扉をノックする。


「……入れ」


黎皇子の声が聞こえる。

麗華は、部屋に入ると、彼が書物に向かっている姿を見た。

彼は、いつもと同じように、無表情で机に向かっている。

麗華は、深呼吸をして、話し始めた。


「殿下……少し、お時間をよろしいでしょうか」


黎皇子は、書物から顔を上げず、ただ頷いた。

麗華は、ゆっくりと話し始めた。


「わたくし、書庫で殿下のお母様、月華妃に関する書物を読んでおりました」


その言葉に、黎皇子の手が、わずかに止まった。

彼は、ゆっくりと顔を上げた。

その瞳は、やはり無色だったが、麗華の言葉に、明確な反応を示している。


「月華妃は、特に『瑠璃色』を愛しておられたと記されておりました」


麗華は、そう告げると、以前彼に見せた瑠璃色の布片を差し出した。

それは、澄み切った煌国の空の色のような、深い青色だった。

黎皇子は、布片を手に取った。

彼の指先が、布の表面をなぞる。

その顔は、無表情のままだが、彼の指先が、布をぎゅっと握りしめているのが見て取れた。


「……瑠璃色、か」


黎皇子が、静かに呟いた。

その声には、微かな震えが混じっていた。


「殿下……この色は、月華妃が愛された、希望の色でございます」


麗華は、彼の目を見つめて、語りかけた。


「月華妃は、殿下の未来を、この瑠璃色のように明るく、そして希望に満ちたものになることを願っておられたはずです」


黎皇子は、麗華の言葉に、深く息を吐いた。

彼の顔に、苦痛と、そして深い悲しみが入り混じった表情が浮かんだ。

しかし、その中には、これまでになかった「光」が宿っているように見えた。

それは、過去の苦しみと向き合い、それを乗り越えようとする、かすかな決意の光だった。

彼は、布片を胸に押し当てた。


「……母が」


黎皇子の声が、震える。


「母が、この色を……」


麗華は、彼の言葉を待った。

黎皇子は、目を閉じ、深く息を吐いた。

その姿は、まるで、失われた記憶の断片を懸命に呼び起こそうとしているかのようだった。

やがて、彼はゆっくりと目を開いた。

彼の瞳は、やはり無色だった。

しかし、その瞳の中に、麗華は、かすかな「輝き」を見た。

それは、光を反射するのではなく、内側から発せられるような、微かな、しかし確かな輝きだった。


「……確かに、温かい」


黎皇子が、ぽつりと呟いた。

彼の指が、布片を優しくなぞる。


「この色から……母の温かさが、伝わってくる」


その言葉に、麗華の心は、喜びで満たされた。


(彼は、今、瑠璃色を「感じて」くれた……! お母様の愛を、この色から!)


それは、単なる色の認識を超えた、魂の再会のようなものだった。

麗華の胸に、熱いものがこみ上げる。

彼女の「色彩戦略」は、着実に、彼の心の奥底にまで届いていた。


「殿下……」


麗華は、黎皇子を見つめ、優しく微笑んだ。

黎皇子は、麗華の表情を見て、わずかに眉を寄せた。

しかし、その表情には、以前のような冷たさではなく、かすかな安堵と、戸惑いが混じり合っているように見えた。


「……下がれ」


その声は、やはり静かだったが、麗華には、その言葉の奥に、以前よりもずっと柔らかな響きが感じられた。

それは、彼が心を開き始めている証拠だった。

麗華は、深々と頭を下げ、部屋を辞した。

部屋を出た後も、麗華の胸は高鳴り続けていた。

黎皇子の言葉と、彼の瞳の輝きが、麗華の心を温かく包み込む。


(私の力は、彼を救うことができる……! この世界で、私は、私の使命を果たすことができる!)


麗華の「色彩の挑戦」は、まだ始まったばかりだった。

しかし、彼女は確信していた。

いつか、黎皇子の無色の世界は、鮮やかな色彩で満たされる日が来ると。

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