第6話
黎皇子との対話を経て、麗華の心には確かな手応えがあった。
彼は、色を「感じる」ことができる。
目に見えなくとも、触覚や嗅覚、そして心の奥底に眠る記憶を通じて、色彩を認識する可能性を秘めている。
これは、麗華にとって、単なる発見以上の意味を持っていた。
それは、現代の知識と、この世界の未発達な技術を融合させることで、彼を救い、そしてこの世界に新たな価値をもたらす、壮大な「デザインプロジェクト」の始まりだった。
(彼の世界を、私の手で彩る……この使命は、きっと彩音として、私がこの世界に転生した意味でもあるはずだわ!)
その日から、麗華の日常は、より一層、色彩の研究と黎皇子の観察に費やされるようになった。
彼女は、黎皇子が離宮内でどのように時間を過ごしているのか、彼の行動パターンを詳細に記録し始めた。
例えば、彼が書庫で読んでいる本の種類。
庭園を散策する際の、立ち止まる場所や時間帯。
食事の際に、どの料理に手を伸ばすのか。
それら全てが、彼が何を好み、何に心を動かされるのかを知る手がかりとなる。
(色彩感覚は、五感と密接に結びついているはず……特に、香りは記憶と感情に強く作用する)
麗華は、書庫で香に関する文献を読み漁った。
煌国には、古くから香を焚く文化があった。
香木の種類、調合方法、そしてそれぞれの香りが持つ意味。
それらの知識を、現代の心理学やアロマテラピーの知識と結びつけた。
例えば、心を落ち着かせる効果があるとされる香木は、青や緑の色と相性が良いかもしれない。
活力を与える香りは、赤や黄色と結びつけることで、より強く印象付けられるかもしれない。
麗華は、離宮の庭園で、様々なハーブや花を探し始めた。
そして、それらを乾燥させ、潰し、調合して、オリジナルの「色彩の香」を作り始めた。
その過程で、彼女は新たな発見をした。
庭園の片隅に、誰も手入れをしていない小さなハーブ畑があったのだ。
そこには、爽やかな香りを放つ「月桂」や、甘い香りの「星草」など、いくつかの有用な植物が自生していた。
(これは、使えるわ……!)
麗華は、それらのハーブを摘み取り、自室に持ち帰った。
まずは、月桂の葉を乾燥させ、丁寧に粉末にした。
その粉末を、以前作った鮮やかな青色の染料に混ぜてみた。
すると、染料の色合いが、より深みを増し、同時に爽やかな香りが加わった。
次に、星草の花弁を乾燥させ、赤色の顔料と混ぜ合わせた。
甘く優しい香りと共に、赤色がより鮮やかに、そして温かみのある色合いになった。
麗華は、これらの「色彩の香」を、黎皇子の日常の様々な場所に配置し始めた。
彼の執務室には、集中力を高め、心を落ち着かせるとされる青色の布と、月桂の香りを忍ばせた小さな香袋を置いた。
寝室には、安眠を誘うとされる淡い緑色の掛け布と、星草の香りを焚いた。
食堂には、食欲を刺激する明るいオレンジ色の器と、柑橘系の香りのする果物を置いた。
(五感を刺激することで、彼に「色」の概念を刷り込んでいくんだわ)
麗華のこの試みは、離宮の使用人たちにも、小さな変化をもたらしていた。
彼らは、麗華が作り出す「香りのする色」に驚き、その効果に魅了されていった。
「この青い布、なんだか心が落ち着きますね」
「この香りを嗅ぐと、食欲が湧いてきます!」
そんな声が、離宮のあちこちから聞かれるようになった。
麗華は、使用人たちの変化を注意深く観察していた。
彼らの表情が、以前よりも明るく、活気に満ちている。
黎皇子に直接的な変化が見られなくても、周囲の人々が明るくなることは、彼にも良い影響を与えるはずだ。
麗華は、この地道な努力が、やがて黎皇子の心を完全に解き放つと信じていた。
数週間後。
麗華は、ある特別な日を待っていた。
それは、黎皇子の誕生日だった。
これまでの誕生日には、彼は一人でひっそりと過ごしていたと、侍女から聞いていた。
(今年の誕生日は、彼にとって特別なものにしたい。彼に、色彩の喜びを届けたい!)
麗華は、黎皇子への誕生日プレゼントとして、彼のために特別な衣装を仕立てることにした。
彼の「無色の世界」に、初めて「彼だけの色彩」を与える試みだった。
使用人たちに頼んで、黎皇子の身体の寸法を密かに測ってもらった。
しかし、黎皇子は自分の衣類に関心がなく、寸法も適当にしか伝わらなかったという。
(大丈夫。デザイナーの経験が活きるはず!)
麗華は、彼の身長や体格、そして普段の動きを観察し、そこから彼の身体のラインを想像した。
そして、書庫で見つけた伝統的な煌国の衣装の型紙を参考に、現代的なデザイン要素を取り入れることにした。
生地は、最高級の絹を使うことにした。
麗華が時間をかけて探し出した、しっとりと肌に吸い付くような柔らかな感触の絹だ。
この絹に、麗華がこれまでに作り出した最高の染料で、色を染め上げていく。
選んだ色は、深みのある藍色と、燃えるような緋色。
藍色は、彼の静かで孤独な内面を表し、緋色は、その奥に秘められた情熱と、母への想いを表現しようとした。
(色彩は、感情を映し出す鏡。この衣装が、彼の内なる色を引き出してくれるはず)
麗華は、藍色の染料を丁寧に絹に染み込ませた。
布は、水中でゆらめきながら、徐々に深い青へと変わっていく。
次に、緋色の染料で、アクセントとなる部分を染め上げた。
それは、袖口の内側や、襟の裏地、そして腰帯など、普段はあまり目立たない場所だった。
まるで、彼の秘めた情熱を表現するかのように。
仕立ては、裁縫が得意な侍女に手伝ってもらった。
しかし、麗華は、細部のデザインや縫製については、一切妥協しなかった。
現代のデザイナーとして、細部までこだわり抜くのが彼女の流儀だったからだ。
特に、袖の裏地には、彼が「温かい」と感じた藤色の絹を、わずかに配置した。
これは、彼と麗華の間の、秘密の絆の証のようなものだった。
数日後、衣装が完成した。
それは、煌国の伝統的な装束でありながら、どこか現代的な洗練さを感じさせる、唯一無二のデザインだった。
深みのある藍色が全体を覆い、袖を通すたびにちらりと見える緋色が、抑えられた情熱を物語る。
そして、肌に触れる裏地には、麗華が精魂込めて作り出した藤色が、優しく彼を包み込む。
麗華は、この衣装を黎皇子に贈る日を、心待ちにしていた。
彼の誕生日の朝。
麗華は、侍女を通じて、完成した衣装を黎皇子に届けた。
返事はない。
しかし、麗華は、彼がその衣装を身につけてくれることを、ただひたすら願った。
そして、その日の夕刻。
麗華は、離宮の宴の間で、黎皇子を待っていた。
彼の誕生日を祝うささやかな宴だ。
本来ならば、彼の誕生日は宮廷で盛大に祝われるべきものだったが、「廃皇子」の立場ではそれも叶わない。
しかし、麗華は、彼が孤独な誕生日を過ごすことだけは避けたかった。
宴の間には、麗華が丹精込めて染め上げた、明るい色彩の布が飾られている。
卓上には、色とりどりの料理が並べられ、穏やかな香が焚かれていた。
使用人たちも、皆、新しい制服に身を包み、彼の到着を心待ちにしている。
黎皇子は、時間になっても姿を現さない。
麗華の胸に、不安が募る。
(もしかして、着てくれなかったのかしら……それとも、嫌われてしまった?)
しかし、その時だった。
宴の間の扉が、ゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは、黎皇子だった。
彼は、麗華が仕立てた、藍色と緋色の衣装を身につけていた。
その姿は、麗華の想像を遥かに超えるものだった。
深みのある藍色が、彼のすらりとした体躯を包み込み、抑えられた緋色のアクセントが、彼の秘めた強さを際立たせている。
彼の無表情な顔は、いつもと変わらない。
しかし、その衣装を身につけた彼の姿は、麗華の目に、これまでにないほど「色」を帯びて映った。
(着てくれた……! 本当に、着てくれたわ!)
麗華の心は、歓喜で震えた。
黎皇子は、部屋に入ると、ゆっくりと麗華の方へと視線を向けた。
彼の瞳は、やはり無色だったが、その中に、ほんのわずかだが、麗華への感謝と、困惑、そして微かな戸惑いが混じり合っているように見えた。
麗華は、彼の目の前まで歩み寄った。
「殿下……お誕生日、おめでとうございます」
麗華は、心からの祝福を込めて、そう告げた。
黎皇子は、麗華の言葉に、わずかに息を呑んだ。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……なぜ、このようなことをする」
その声は、静かだったが、どこか問いかけるような響きを持っていた。
麗華は、彼の目を見つめ、まっすぐに答えた。
「殿下に、色彩の喜びを知っていただきたかったからです」
「殿下の世界には、まだ、多くの美しい色が眠っています。それを、わたくしが、殿下にお届けしたいのです」
黎皇子は、麗華の言葉に、瞳を閉じ、深く息を吐いた。
彼の顔に、またあの苦痛の表情が浮かんだ。
しかし、以前とは違う。
その苦痛の中には、何かを乗り越えようとするような、微かな決意の光が宿っているように麗華には感じられた。
彼は、身につけた衣装の袖口に触れた。
袖の内側には、麗華が配した藤色の絹が、優しく彼の肌に触れている。
「……この衣は」
黎皇子が、ぽつりと呟いた。
「温かい……そして、香りがする」
彼の言葉に、麗華の胸は、再び熱くなった。
彼は、色を視覚で捉えられなくても、他の感覚で、そして心で、それを感じ取ってくれている。
「はい、殿下。月桂と星草の香りを、染料に混ぜております。殿下のお心が、少しでも安らぐようにと願って……」
麗華は、優しく答えた。
黎皇子は、静かに目を開けた。
彼の瞳は、やはり無色だったが、その中に、かすかな光が宿っているように見えた。
それは、麗華の言葉と、衣装から伝わる感覚を通じて、彼の心の中に、新しい「色」が生まれ始めている証拠だった。
(これで、彼の世界は、少しだけ色づいたはず……!)
黎皇子は、麗華の目を見つめ、深々と頭を下げた。
それは、彼が他者に見せることのない、心からの敬意の表れだった。
「……感謝する」
彼の声は、今度こそ、はっきりと、そして感情を込めて発せられた。
その言葉の重みに、麗華の心は満たされた。
この瞬間、麗華は確信した。
黎皇子の世界を彩るという彼女の使命は、ただの幻想ではない。
それは、確かに実現可能な、未来への道筋なのだと。
彼の無色の世界は、これから、麗華の手によって、一つ一つ、鮮やかな色彩で満たされていく。
そして、その過程で、麗華と黎皇子の間には、政略結婚という枠を超えた、真の絆が育まれていくのだろう。
それは、長い旅路の始まりだった。




