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第4話


黎皇子の過去を知ってからというもの、麗華の心境には大きな変化が生まれていた。

これまで彼は、ただの無口で感情の読めない「廃皇子」だった。

しかし、今は違う。

母を失い、深い悲しみと憎悪を抱え、それでも懸命に生きる孤独な青年。

そう思うと、麗華の胸には、同情だけでなく、彼を救いたいという強い衝動が湧き上がってきた。


(私は、彼に寄り添いたい。彼の無色の世界を、私の手で彩ってあげたい……!)


それは、政略結婚という冷たい現実の中で見つけた、確かな熱だった。

藤の花の絵は、麗華にとって、黎皇子の心を開くための最初の鍵だった。

彼女は、日中の大半を部屋にこもり、試行錯誤を繰り返しながら、藤色を再現する作業に没頭した。

書庫から持ち出した古い染料の文献や、煌国に自生する植物の図鑑が、彼女の唯一の指南書だった。

現代の化学知識を総動員し、この世界の素材と組み合わせる。

小さな土鍋の中では、様々な草木や鉱石が煮詰められ、独特の匂いが部屋中に充満した。

時には、思い通りの色が出せずに、苛立ちを覚えることもあった。


(どうして、この色が出ないの……! あと一歩なのに!)


悔しさで筆を握る手が震える。

しかし、森川彩音として培った不屈の精神が、麗華を奮い立たせた。


(大丈夫。もっと深く、もっと丁寧に。きっと答えはあるはず)


失敗を繰り返すたびに、彼女の知識と技術は磨かれていった。

そして、幾度もの試作を経て、ついに麗華は、驚くほど鮮やかな藤色を作り出すことに成功した。

それは、澄み切った煌国の空のような、深い瑠璃色だった。

麗華は、その色を小さな絹の布切れに染み込ませた。

布は、まるで生きているかのように、美しく発色している。


(できた……! これなら、きっと彼にも「色」を感じてもらえるはず!)


麗華は、完成した藤色の布片と、時間をかけて描き上げた藤の花の絵を大切に抱きしめた。

彼女の心は、期待と少しの不安で高鳴っていた。

この絵を、そしてこの色を、黎皇子に見せに行く。

それが、彼女の次の挑戦だった。




夜。

離宮が静寂に包まれた頃、麗華はひそかに自室を出た。

黎皇子が執務を終え、自室に戻る時間を見計らっていたのだ。

彼の執務室の灯りは、まだ煌々と輝いている。


(彼は、まだ仕事をしているのね……)


麗華は、震える手で執務室の扉をノックした。

数秒の間が、永遠のように感じられた。

中から返事はない。

しかし、麗華は諦めなかった。

もう一度、今度は少し強くノックする。

すると、中から低い声が聞こえた。


「……誰だ」


黎皇子の声だ。

いつもより、かすかに疲れているように聞こえた。

麗華は、深呼吸をして、意を決して答えた。


「宋麗華にございます。殿下にお見せしたいものがございまして……」


沈黙が続く。

麗華は、扉の向こうの黎皇子が、今、どんな表情をしているのか、想像しようとした。

不機嫌に眉をひそめているのだろうか。

それとも、ただ面倒だと感じているだけなのだろうか。

やがて、重々しい扉が、ゆっくりと開かれた。

そこに立っていたのは、やはり無表情の黎皇子だった。

しかし、彼の瞳の奥には、わずかな困惑の色が浮かんでいるように見えた。


(よかった……追い返されなかった)


麗華は、緊張しながらも一歩前へ進み出た。

部屋の中は、相変わらず整然としていたが、以前麗華が覗き見た時の、荒れた痕跡は消えていた。

机の上には、書類の束がきちんと積み重ねられている。

黎皇子は、麗華を一瞥し、何も言わずに部屋の中央へと戻っていった。


まるで、「何か用があるなら、そこで話せ」と言っているかのようだった。

麗華は、震える声で話し始めた。


「殿下……以前、庭園の藤棚で、私の絵をご覧になったことがおありかと存じます」


黎皇子は、無言で麗華を見つめている。

その視線に、麗華は思わず言葉を詰まらせそうになった。


(彼の目に、私の言葉は届いているのだろうか……)


「その時に、殿下は『これは何の色だ』と、お尋ねくださいました」


麗華は、覚悟を決めて、手にしていた藤の花の絵を差し出した。

絵には、麗華が懸命に再現した、様々な濃淡の藤色が描かれている。


蕾の淡い紫、満開の豊かな紫、そして散り際の儚い紫。

黎皇子は、絵を手に取った。

彼の視線が、絵の上を滑る。

その無表情な顔に、どんな感情が浮かんでいるのか、麗華には全く読み取れない。


(彼には、これがただの灰色に見えているのかしら……)


「この絵に描かれているのは、藤の花でございます」


麗華は、ゆっくりと、語りかけるように話した。


「春になると、庭園のあの藤棚に咲き誇る、美しい花でございます」


「その花の色は、このような……紫、と申します」


麗華は、続けて藤色の布片を差し出した。

黎皇子は、絵から布片へと視線を移した。

布片の鮮やかな藤色は、離宮の薄暗い灯りの下でも、はっきりとその存在を主張していた。

彼は、その布片を指でなぞるように触れた。

彼の指先が、布の柔らかな感触を確かめる。

その表情は、やはり変わらない。

しかし、麗華には、彼の瞳の奥に、微かな変化が生まれたように見えた。

それは、疑問でもなく、驚きでもなく、ただ「何か」を感じ取ろうとしているような、そんな光だった。


「紫……」


黎皇子が、静かに呟いた。

その声は、かつて「赤」と呟いた時と同じ、理解できないものへの困惑を帯びていた。

だが、そこには、以前よりもわずかに、柔らかな響きが加わっているように、麗華には感じられた。


(彼は、何かを感じ取ってくれている……!)


麗華は、彼のわずかな変化を見逃さなかった。

この瞬間を逃してはならない。

そう直感した麗華は、さらに言葉を続けた。


「殿下のお母様も、この藤の花を大変お気に入りだったと伺っております」


その言葉に、黎皇子の体がわずかに硬直した。

彼の瞳に、感情の揺らぎが走った。

それは、怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ「反応」としか言いようのないものだった。

麗華は、彼の反応に、確かな手応えを感じた。

彼の心は、まだ完全に閉ざされてはいない。


「お母様は、この藤の花の下で、よく書物を読んだり、琴を奏でたりしておられたと……」


麗華は、侍女から聞いた話を、まるで見てきたかのように語った。

黎皇子の顔に、初めて、明確な感情が浮かび上がった。

それは、苦痛と、深い悲しみが入り混じった、複雑な表情だった。

彼は、藤色の布片をぎゅっと握りしめた。

布のシワが、彼の心の痛みを映し出すようだった。


「その色は……本当に、このような色なのか」


黎皇子が、震える声で尋ねた。

彼の瞳は、虚ろな光を宿している。

しかし、麗華には、その瞳の奥に、これまでになかった「何か」を探し求める光が宿っているように見えた。


「はい、殿下。春の藤は、まさにこの色でございます。そして、お母様が愛された藤は、きっと、もっともっと美しい色だったことでしょう」


麗華は、彼の目を見つめて、まっすぐに答えた。

彼の心に、わずかでも希望の光を灯したかった。

黎皇子は、布片を握りしめたまま、沈黙した。

彼の瞳は、遠くを見つめているようだった。

その視線は、過去の記憶を辿っているのだろうか。

どれほどの時間そうしていただろうか。

やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。

麗華は、彼の顔に、これまで一度も見たことのない表情が浮かんでいるのを見た。

それは、諦めでもなく、絶望でもない。

深く傷つきながらも、まだ、失われたものを求めようとする、微かな願いの光だった。


「……ありがとう」


黎皇子が、震える声で、そう呟いた。

その言葉は、ほとんど聞き取れないほどの小さな声だったが、麗華の耳にははっきりと届いた。

そして、その言葉の響きには、これまで彼が発したどの言葉にもなかった、人間らしい感情が込められていた。

それは、感謝の言葉だった。

麗華の胸に、熱いものが込み上げた。


(彼は、確かに、色を感じ取ってくれた……!)


それは、麗華の心に確かな手応えを残した。

彼女の試みは、無駄ではなかった。

そして、この「紫」が、黎皇子の心に小さな光を灯したのなら、彼女はもっと多くの色を、彼の世界に届けたいと強く思った。


「殿下……」


麗華は、思わず彼の名を呼んだ。

黎皇子は、再び無表情に戻り、麗華から目を逸らした。

まるで、感情を見せたことを後悔しているかのように。


「……下がれ」


その声は、いつも通りの冷たい響きだった。

しかし、麗華の耳には、その言葉の奥に隠された、かすかな震えが聞こえた気がした。

麗華は、深々と頭を下げ、部屋を辞した。

部屋を出た後も、麗華の胸は高鳴り続けていた。

手のひらには、黎皇子の言葉が、温かい余韻として残っている。


(彼は、きっと変われる……私が、変えてみせる!)


その夜、麗華は、黎皇子との間に築かれた、かすかな繋がりを胸に抱きながら眠りについた。

彼女の夢の中には、枯れた藤棚が、再び満開の美しい藤の花で彩られる光景が広がっていた。

そして、その藤棚の下で、黎皇子が無邪気に笑っている。

その笑顔は、かつて見たどの表情よりも、鮮やかな色を宿していた。

それは、遠い未来の、しかし確かな希望の光だった。

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