第2話
森川彩音として生きてきた日々では考えられなかった、理不尽な状況。
病弱な体質故に疎まれ、家の隅に追いやられていた宋麗華としての現実に、彩音は深い戸惑いと、拭い切れない不安を覚えていた。
(どうして、こんなことに……)
部屋に差し込む陽光は、微かに埃を揺らし、時間の流れだけが静かに、しかし確実に過ぎていくのを告げていた。
彩音は、窓辺に置かれた小さな文机に向かい、古ぼけた筆を握った。
そこには、この宋麗華が幼い頃から描き続けてきたという、薄暗い風景画が何枚も重ねて置かれていた。
どれもこれも、彩度を失い、影ばかりが強調された、見る者の心を沈ませるような絵ばかりだった。
(こんなに暗い絵ばかり……麗華は、どれだけ孤独だったんだろう)
「これが、私……麗華の絵」
彩音はため息をついた。
テキスタイルデザイナーとして、世界中のあらゆる色彩と、それらを組み合わせる無限の可能性に魅了されてきた自分にとって、目の前にある絵は、あまりにも寂しく、そして無力に見えた。
(こんな絵しか描けなかったなんて……)
彩音の脳裏には、転生前の自分が愛した、鮮やかな茜色や深い藍色、生命力溢れる緑色といった色彩が、洪水のように押し寄せては消えていく。
これまでの人生で培ってきた、色彩に対する鋭敏な感覚と、それを形にする技術。
それが今、この宋麗華の体の中で、どう活かされるのか、全く想像がつかなかった。
(この世界の技術では、私が本当に作りたいものは表現できないのかしら……)
「この世界には、あの色はないのだろうか。あの素材は?」
転生前の世界と、この煌国とのあまりにも大きな隔たりに、彩音は途方に暮れた。
(何もかもが違いすぎる。私はここで、何ができるの?)
それでも、手のひらに残る筆の感触だけは、どこか懐かしい。
宋麗華という少女も、絵を描くことを唯一の慰めとしていたのだと、記憶が告げていた。
彼女の寂しい心を、絵だけが支えていたのだろう。
彩音は、麗華の記憶の中にある絵画の技法や、使用されている顔料、染料について思いを巡らせた。
それは、現代の知識から見れば、あまりにも原始的で、非効率的なものばかりだった。
色の発色が悪く、退色も早い。
表現できる色数も限られている。
これでは、本当に描きたいものを描くことは難しいだろう。
(これでは、私の感性が死んでしまう)
ならば、と彩音は思った。
自分に残されたのは、現代の知識だ。
この世界の技術と、自分の知識を組み合わせれば、何か新しいものが生み出せるかもしれない。
そうすれば、この宋麗華としての人生にも、何か意味を見出せるのではないか。
淡い期待が、彩音の胸に芽生え始めた。
(もしかしたら、この状況を変えられるかもしれない……!)
しかし、その小さな希望は、すぐに現実の冷たさに打ち砕かれた。
麗華の体調が回復して数日後、両親から呼び出された麗華は、厳かな雰囲気の中で、衝撃的な事実を告げられた。
「麗華。お前には、第六皇子黎殿下の婚約者となってもらう」
父である宰相、宋厳の言葉は、まるで感情のこもっていない勅令のようだった。
傍らに座る正妻、宋夫人は、口元に薄い笑みを浮かべている。
その瞳には、憐れみとも侮蔑ともつかない色が宿っていた。
(ああ、やっぱり……私って、この家のお荷物なのね)
「黎殿下は、政争により母君を亡くされ、ご自身も過去の怪我で片足が不自由であると聞いている。さらに、心を閉ざされているとか……」
麗華は恐る恐る尋ねた。
宰相家の娘ならば、本来ならもっと有力な皇子、あるいは豪族の嫡男との縁談が組まれるはずだ。
なぜ、よりによって「廃皇子」と呼ばれる黎殿下なのか。
それは、麗華の存在が、この家にとって邪魔者でしかないという明確な証拠だった。
(私を、捨て駒にするつもりなのね……)
「殿下の御身の上は、我らが知るところではない。これは宮廷からのお達し。宋家として、拝命せぬわけにはいかぬ」
宋厳は冷たく言い放った。
彼の言葉には、娘を案じる親の情など、微塵も感じられなかった。
ただ、家名を保つための道具として、麗華を利用しようとする意図が明確に見て取れた。
宋夫人が、扇で口元を隠しながら、くすりと笑った。
「病弱で社交も苦手なお前には、これ以上ないお相手ではないか。宮廷に上がれば、宋家の名に泥を塗ることもなかろう」
その言葉は、麗華の胸に深く突き刺さった。
(こんな屈辱的なことを言われるなんて……私は、こんなにも無価値なの?)
彩音として生きてきた過去の自分が、どれほど恵まれた環境にいたのかを痛感させられた。
自由に仕事をし、自分の才能を思う存分に発揮できた日々が、今では遠い夢のように思われた。
麗華は、自分がこの政略結婚を拒否すれば、宋家が宮廷からの不興を買い、立場が危うくなることを知っていた。
この時代において、個人の意思など、家の存続の前では無力に等しい。
「……承知いたしました」
唇から絞り出すように答えた声は、震えていた。
麗華の心は、絶望の淵へと沈んでいく。
(私の人生は、もう決まってしまうのか……)
これから始まるのは、愛のない結婚、そして、孤独な宮廷生活。
それは、まさに望まない未来だった。
だが、彩音としての経験が、麗華の心に微かな抵抗を生み出した。
「このまま、流されてなるものか」
かつての彩音は、どんな困難なプロジェクトも、持ち前の知性と情熱で乗り越えてきた。
(森川彩音は、決して諦めなかった)
この身が転生した先が、どれほど冷酷な世界であろうと、自分は諦めない。
自分の才能を、この世界で活かしてやる。
そう決意した時、麗華の瞳の中に、微かな光が宿った。
(見てなさい、私は必ず、この状況を覆してやる!)
黎皇子との婚約が決まってから、宮廷への輿入れまでの数週間は、麗華にとってまさに嵐のような日々だった。
宋家では、これまでの冷遇が嘘のように、麗華に対する態度が変わった。
しかし、それは決して麗華を大切に思う気持ちからではない。
ただ、皇子の婚約者という立場を利用し、家格を高めようとする思惑が透けて見えた。
(手のひら返しもいいところだわ)
「麗華様、こちらが輿入れの際に着用される衣装でございます」
侍女が持ってきたのは、豪華絢爛な刺繍が施された衣装だった。
鮮やかな深紅と金糸で彩られたそれは、麗華の地味な印象とは全く似つかわしくない。
彩音は、テキスタイルデザイナーとしての視点から、その衣装を仔細に観察した。
生地の織り方、染色の技術、刺繍のパターン。
どれもこの世界の最高峰の技術が詰まっているのは理解できたが、どこか単調で、現代の洗練されたデザインに比べると、物足りなさを感じた。
(もっと、こうすれば……)
「もう少し、ここに藍色を足したら、全体が締まるのに。あるいは、この金の刺繍に、もっと複雑な陰影をつければ……」
無意識のうちに、彩音の口から専門的な意見が漏れていた。
侍女は、きょとんとした顔で麗華を見つめている。
「り、麗華様……?」
慌てて口を閉じた麗華は、内心で舌打ちをした。
(しまった、つい本音が出てしまったわ)
転生したばかりで、まだ現代の感覚が抜けきっていない。
この世界では、デザインや色彩に対する独自の美意識があり、自分の知識をむやみにひけらかすのは危険だと、すぐに悟った。
(迂闊だった。この世界で生きるには、もっと慎重にならなくては)
「なんでもないわ。とても美しいわね」
麗華は、ぎこちない笑顔を作った。
輿入れの日が近づくにつれて、麗華の心には、ますます大きな不安が募っていった。
黎皇子の「廃皇子」という噂は、宮廷内でも囁かれており、その実態は謎に包まれている。
一体、どんな人物なのだろうか。
自分は、彼と共に、この先を生きていけるのだろうか。
(未知の未来への恐怖……)
宋家からの輿入れは、簡素なものだった。
煌国の首都、麗京を貫く大通りは、賑わう人々で溢れていたが、麗華を乗せた輿に、熱狂的な歓声が上がることはない。
人々の視線は、好奇と憐憫、そして一部には嘲笑を含んでいた。
「廃皇子のもとへ嫁ぐ娘か……」
そんな囁きが、微かに耳に届く。
麗華は、輿の中で深く息を吐き、目を閉じた。
(私は、ただの政略の道具じゃない)
ここからが、私の、宋麗華としての新たな人生の始まり。
そして、煌国の第六皇子、黎との、偽装の婚約生活の幕開けだった。
(どんな困難が待ち受けていても、私は負けない)
煌国の宮廷は、宋家とは比べ物にならないほど広大で、華麗だった。
しかし、その壮麗な建物が立ち並ぶ中にも、どこか重苦しい空気が漂っているように感じられた。
それは、絶えず渦巻く権力争いや、陰謀の匂いだろうか。
麗華は、転生前の自分が暮らした、合理的なオフィスビルとは全く異なる、この世界の空気に、改めて身が引き締まる思いだった。
(これから、ここで生きていくんだ……)
輿から降りた麗華は、案内役の女官に促され、黎皇子が暮らすという離宮へと向かった。
離宮は、宮廷の奥まった場所に位置しており、他の華やかな宮殿とは異なり、どこかひっそりとしていた。
手入れの行き届かない庭園には、枯れた花々がそのままにされ、寂れた印象を与える。
(ここが、彼の住まい……本当に寂しい場所だわ)
「こちらでございます」
女官が止まったのは、質素な造りの一室の前だった。
他の宮殿のように金や宝石で飾られることもなく、木と漆喰を基調とした、飾り気のない部屋だ。
麗華の心臓が、ドクドクと大きく脈打つ。
(いよいよ……)
いよいよ、黎皇子との対面だ。
一体、どんな人物なのだろう。
噂通りの冷酷な人物なのか。
それとも、悲劇によって心を閉ざした、哀れな青年なのか。
(どうか、ひどい人ではありませんように……)
扉が開かれると、その部屋の奥に、一人の青年が座っていた。
彼が、第六皇子、黎だった。
年齢は二十歳前後だろうか。
細身ではあるが、鍛えられたような体つきをしている。
その顔立ちは整っており、一目で皇族であることが分かる気品を湛えていた。
しかし、彼の顔には、微塵の感情も読み取ることができなかった。
まるで、美しい彫像のような、無表情さだった。
(まるで、感情がないみたい……)
そして、彼の左足が、かすかに不自然に角度をつけて置かれているのが見て取れた。
やはり、怪我をしているという噂は真実なのだ。
何よりも麗華の目を引いたのは、彼の瞳だった。
真っ直ぐに麗華を見つめるその瞳は、墨で描かれたかのように深く、しかし、そこに輝きはなかった。
まるで、感情の全てを拒絶しているかのような、虚ろな光を宿していた。
(なんて悲しい目……この人は、心から笑ったことがあるのかしら?)
麗華は、深く頭を下げた。
「宋麗華にございます。この度、殿下のご婚約者として、参上いたしました」
静寂が、部屋を満たす。
黎皇子は、麗華の言葉に対し、何の返答も、反応も示さない。
ただ、じっと麗華を見つめ続けている。
その視線は、麗華の心の奥底まで見透かされているかのような錯覚を覚えた。
(まるで、私の中身まで見抜かれているみたいで……怖い)
「――顔を上げよ」
低い声が、部屋に響いた。
感情のない、しかし、有無を言わせぬ響きを持った声だった。
麗華はゆっくりと顔を上げた。
黎皇子の視線は、依然として麗華に固定されていた。
彼の瞳は、彩音の持つ色彩豊かな世界を、一切映し出していないように見えた。
もしかして、彼は本当に、色が見えていないのだろうか。
テキスタイルデザイナーとしての職業病か、麗華は無意識のうちに、彼の瞳の奥にある「色」を探そうとしていた。
(この人の世界には、色が、ない……?)
「……そなたが、宋麗華か」
黎皇子は、そう呟いた。
その言葉には、何の感情も含まれていなかった。
まるで、目の前の存在が、ただの物体であるかのように。
麗華は、彼の瞳の奥にある、深い孤独と、色のない世界を垣間見たような気がした。
この男の心を、私は彩ることができるのだろうか。
不安と、そして、かすかな挑戦心が、麗華の胸に芽生えた。
(この人の、心に、私は光を灯せるだろうか。いや、灯してみせる!)




