第18話
麗華が月下の茶会で毅然とした態度を示し、皇后の心を動かしたことで、黎皇子の離宮への訪問制限は緩和された。
これは、煌淵皇子の目論見を打ち砕く、麗華にとって大きな勝利だった。
しかし、麗華は知っていた。
宮廷の陰謀は、決してこれで終わりではないと。
翌日、麗華は早速、黎皇子の離宮を訪れた。
彼の部屋には、昨日よりも多くの光が差し込んでいるように感じられた。
黎皇子は、窓辺に置かれた小さな花瓶に活けられた花に、そっと指先で触れていた。
その花は、麗華が工房で染め上げた、淡い桃色の絹の造花だった。
(まだ、鮮明な色は見えていないけれど……)
麗華は、黎皇子の横顔を見つめた。
彼の精悍な顔立ちには、かすかな戸惑いと、しかし確かな好奇心が浮かんでいた。
彼の黒い瞳は、光を捉えているようには見えないが、その表情には、以前の無気力な影は薄れ、僅かながら生気が宿っていた。
麗華は、黎皇子が、その「色」を、どのように感じ取っているのかを知りたいと思った。
「黎殿下。その花は、わたくしが染めたものです」
麗華は、優しく語りかけた。
黎皇子は、麗華の声にゆっくりと顔を向けた。
彼の視線は、まだ定まらないが、麗華の存在を確かに感じ取っているようだった。
「……麗華」
彼の口から、麗華の名が呼ばれるたび、麗華の胸は微かに震えた。
その声は、以前よりも感情がこもり、彼が麗華という存在を、特別なものとして認識し始めていることを示していた。
「この花の色は、殿下には、どのように感じられますか」
麗華は、桃色の花を彼の目の前にそっと差し出した。
黎皇子は、再び花に触れた。
彼の心の中に、前回の「青」や「緑」よりも、さらに曖昧で、しかし確かな「柔らかさ」と「温かさ」の感覚が広がった。
それは、具体的な色というより、その色が持つ「性質」を心で感じ取っているかのようだった。
「……温かい。そして、優しい」
黎皇子の言葉に、麗華は微笑んだ。
彼の心が、色の持つ「感情」を捉え始めている。
それは、色彩回復において、非常に重要な段階だった。
「はい。それは、愛の色、希望の色です」
麗華は、花言葉のように、桃色の意味を彼に伝えた。
黎皇子は、その言葉を静かに反芻した。
彼の心の奥底で、麗華の言葉と、その色が持つ感覚が、ゆっくりと結びつき始めていた。
その瞬間、麗華は、彼の瞳の奥に、ごく微かな**「桃色の光」**が灯るのを見た。
それは、まるで黎明の空に現れる、最初の一筋の光のようだった。
ごくわずかな、しかし確かな輝きだった。
(やはり、黎殿下の色彩の回復は、わたくしが色を語りかけることで、進んでいく……)
麗華は、黎皇子との間に、言葉と色彩による、新たな「共鳴」が生まれていることを感じた。
それは、まるで二人の心が、見えない糸で結ばれていくような感覚だった。
黎皇子の色彩認識が少しずつ進むにつれ、彼を取り巻く宮廷の空気も微妙に変化していった。
特に、皇后は、黎皇子と麗華の関係に、以前よりも理解を示すようになっていた。
皇后は、麗華を頻繁に茶会に招き、煌国の歴史や、かつての月華妃に関する話を語って聞かせた。
その話の中で、麗華は、月華妃が、黎皇子と同様に、心を閉ざしがちであったが、色彩に特別な感性を持っていたことを知った。
(月華妃様も、同じように色を感じていらしたのね)
麗華は、黎皇子の症状が、彼の生来の感性と、心の傷によるものであることを理解した。
そして、その傷を癒すことが、月華妃の遺志を継ぐことでもあると感じた。
しかし、煌淵皇子は、この状況を看過できなかった。
彼は、麗華が皇后に近づき、黎皇子の影響力を高めていることを警戒していた。
「張よ。あの女の動向を、より一層監視せよ。特に、皇后陛下との私的な接触について、詳しく探るのだ」
煌淵は、不満そうに呟いた。
彼の心には、焦りだけではなく、麗華への複雑な感情が芽生え始めていた。
麗華の才能と、彼女が黎皇子にもたらす変化が、彼の心を揺さぶり始めていたのだ。
一方、煌峻皇子もまた、麗華と黎皇子の進展に注目していた。
彼は、麗華の「色彩を統べる力」を、より深く探ろうとしていた。
「李よ。麗華妃の故郷に関する情報で、何か新たなものは見つかったか」
煌峻は、静かに尋ねた。
「はい、殿下。麗華妃の故郷では、古くから『心の色を読む者』という存在がいたとされています。彼らは、人の感情を色彩として捉え、それを染料で表現することで、人々の心を癒したと」
李の報告に、煌峻は興味深く頷いた。
「心の色を読む者、か。なるほど。彼女の力は、単なる染色の技術ではないということか」
煌峻の瞳には、麗華の力が、彼の野望にとってどれほど有用であるかという確信が宿っていた。
彼は、麗華の力を手に入れるためなら、どんな手も使うだろう。
その夜、麗華は黎皇子の離宮を訪れた。
黎皇子は、麗華が来ることを予期していたかのように、静かに彼女を待っていた。
二人は、言葉を交わすよりも、その場に流れる穏やかな空気を享受していた。
黎皇子は、麗華の手をそっと取った。
彼の指先は、麗華の掌を優しくなぞる。
その触れ合いは、言葉以上に、二人の間に深まる絆を物語っていた。
黎皇子の顔が、麗華の顔にゆっくりと近づく。
麗華の心臓が、高鳴るのを感じた。
彼の吐息が、麗華の頬にかかる。
「麗華」
黎皇子の声が、優しく響いた。
彼の瞳の奥に、これまで認識した「青」や「桃色」とは異なる、麗華の「輝き」を捉えようとする、微かな「光」が宿っていた。
それは、愛慕の情からくる、本能的な色彩の認識だった。
彼の顔は、以前の無気力な姿からは想像できないほど、知的で、そして憂いを帯びた美しさを湛えていた。
特に、麗華の存在によって、彼の表情には柔らかさが加わり、その白い肌と漆黒の髪のコントラストが、見る者を惹きつけた。
麗華は、黎皇子のその美しさに、思わず息を呑んだ。
そして、彼の心に、自分が新たな色彩をもたらしていることを実感した。
黎皇子は、麗華の頬にそっと触れ、その温かさを確かめた。
彼の心に、麗華という存在が、何よりも大切な「色」として刻まれていく。
麗華と黎皇子の間に、言葉にならない感情が満ちていく。
それは、宮廷の陰謀とは無縁の、純粋で、そして温かい愛情だった。
しかし、その愛情が深まるほど、彼らを巡る波乱もまた、大きくなっていくことを、麗華は感じていた。
煌国の宮廷は、まるで複雑な色彩の糸が絡み合う織物のようだった。