第12話
麗華が、黎皇子の御名に込められた「黎明の光」という伝承と、母君・月華妃の深い願いを伝えた後、黎皇子の心に、微かな変化が訪れていた。
彼は相変わらず無表情だったが、書庫に籠もることが減り、離宮の庭園を散策する時間が増えた。
特に、彼が足を止めるのは、麗華が手入れを指示し、様々な色彩の花々が咲き誇る一角だった。
彼は花に触れ、その香りを嗅ぎ、微かに微笑むことがあった。
それは、麗華以外の誰も知らない、黎皇子の内面のささやかな変化だった。
(彼の心の奥底に、確かに色彩が芽生え始めているわ……!)
麗華は、その変化を確信し、さらに黎皇子の「色彩の回復」を促すための次の段階へと進んだ。
彼女は、黎皇子が幼少期を過ごした部屋の調度品や壁の色を、月華妃が愛したとされる「瑠璃色」を基調に整えることを決めた。
これは、「色彩療法」における「色彩環境の整備」という専門的なアプローチでもあった。
人間は、日常的に触れる色彩から無意識のうちに影響を受ける。
特に、視覚に頼れない黎皇子にとって、触覚や嗅覚、そして心理的な結びつきが強い「記憶の色」は、心の回復に重要な役割を果たすはずだ。
麗華は、書庫から月華妃の使っていた品々に関する記述を探し出した。
そこには、月華妃が使っていた筆の軸の色、好んだ花瓶の形、そして彼女が愛用した琴の弦の素材に至るまで、細かな描写があった。
(単に色を再現するだけでなく、その質感や、それに付随する音、香りも再現することで、黎殿下に多角的に訴えかけることができるはずだわ)
麗華は、庭師の林に、月華妃が好んだとされる花々の種や苗を探してきてもらい、黎皇子の部屋の窓辺に飾るよう指示した。
花から漂う自然な香りが、部屋全体を包み込む。
また、麗華は、自ら筆を取り、月華妃が好んだとされる「鳳凰」の文様を、瑠璃色の糸で繊細に刺繍した布を作り、壁に掛けた。
鳳凰は、煌国において吉兆と繁栄を象徴する霊鳥だ。
麗華は、この布に、月華妃が愛用したとされる香木「空香」の香りを、微かに染み込ませた。
空香は、清らかでどこか懐かしい、そして微かに甘い香りを放つ。
黎皇子の部屋は、徐々に「月華妃の記憶の色彩」で満たされていった。
黎皇子は、部屋の変化に気づくと、触覚と嗅覚を頼りに、新しい調度品や布に触れていった。
鳳凰の刺繍に触れた際には、微かに指先を震わせた。
そして、空香の香りを嗅いだ時には、その表情に、何かを懐かしむような色が浮かんだ。
(彼の心の奥底に眠っていた、月華妃との記憶が、今、蘇ろうとしている……!)
麗華は、黎皇子の心の変化を、着実に感じていた。
一方、宮廷では、麗華の活躍と皇后の寵愛を巡り、皇子たちの間で水面下の争いが激化していた。
第一皇子・煌淵は、麗華の存在が、自らが皇位継承の確実性を脅かすものだと確信していた。
彼は、母である皇后が麗華を重用することにも、不満を募らせていた。
煌淵は、自らの腹心の武官・張を呼び付けた。
「張よ。あの廃皇子の妃め、益々増長しておるな。何か手を打たねば、母上までもあの者の虜になってしまう」
張は、恭しく頭を下げた。
「殿下のお怒り、ごもっともでございます。しかし、皇后陛下の寵愛篤き今、表立った行動は避けるべきかと存じます」
「ならば、どうしろというのだ!?」
煌淵は、苛立ちを隠さなかった。
「麗華妃は、離宮の雰囲気を変え、人心を掌握しております。であれば、逆にその『人心』を揺るがす策を講じるべきかと」
張は、煌淵の耳元で、何かささやいた。
煌淵の顔に、陰険な笑みが浮かんだ。
「ふむ……それも面白い。よし、任せたぞ」
一方、第二皇子・煌峻は、麗華の動きをより注意深く分析していた。
彼は、麗華が単なる美意識の改革に留まらず、宮廷の秩序そのものに変化をもたらそうとしていることを見抜いていた。
煌峻は、侍読の李を呼び、静かに命じた。
「李よ。麗華妃が用いる染料の製法について、徹底的に調べさせよ。特に、煌国では未発達とされる、『蒼石』や『天藍草』の扱い方についてだ」
「は、承知いたしました」
李は頭を下げた。
「そして、その技術を、我々の手にも入れられぬか、探れ」
煌峻は、麗華の「色彩の力」を、自らの支配下に置こうと考えていた。
彼は、麗華が宮廷にもたらす「変化」を、自らの権力強化に利用することを画策していたのだ。
それは、麗華の持つ「光」を、自らの「影」に変える、より巧妙な策略だった。
数日後、宮廷に、ある噂が広まり始めた。
「黎殿下の妃が使う染料には、怪しき力が宿っている」
「あの瑠璃色の布に触れると、心が惑わされ、正気を失う者がいるという」
それは、麗華の評判を落とし、彼女の「色彩の力」を「危険なもの」として印象付けようとする、明らかな誹謗中傷だった。
(これは……煌淵皇子の仕業ね!)
麗華は、すぐにその噂の出所を察した。
しかし、宮廷の人々は、麗華の鮮やかな色彩に魅了される一方で、その常識を超えた技術に、少しばかりの畏敬と、そして不安を抱いていたことも事実だった。
噂は、あっという間に宮廷中に広がり、麗華の元に届いていた依頼も、徐々に減り始めた。
麗華は、この状況を打破する必要があると感じた。
単に噂を否定するだけでは、人々の心に根付いた疑念を払拭することはできない。
彼女は、視覚的に、そして理論的に、自らの色彩の「無害さ」と「有用性」を示す必要があった。
麗華は、皇后に謁見を願い出た。
皇后は、麗華の顔色が優れないことに気づき、心配そうに尋ねた。
「麗華妃。何かあったのか。最近、そなたの周りで、妙な噂が流れているようだが……」
麗華は、真摯な眼差しで皇后を見上げた。
「皇后陛下。まさしく、その件でございます」
「わたくしの染料に、怪しき力が宿るという噂が流れておりますが、それは真実ではございません」
「わたくしが用いるのは、煌国の自然の恵みと、故郷で学んだ化学の知識でございます」
麗華は、化学という言葉を、煌国の人々にも理解できるよう、「物の本質を見極め、その力を引き出す学問」と説明した。
皇后は、麗華の言葉に、静かに頷いた。
「そなたが、そのようなことで嘘を吐くとは、わたくしは思わぬ」
「しかし、人々の心に疑念が生じた以上、何か証を示さねばなるまい」
皇后の言葉に、麗華は決意を固めた。
「はい、皇后陛下。そこでわたくしは、一つの提案がございます」
麗華は、皇后に、ある計画を打診した。
それは、宮廷の広間で、麗華自身が染料を調合し、布を染める過程を公開するというものだった。
さらに、ただ公開するだけでなく、集まった人々に、実際に瑠璃色の染料に触れてもらい、その製法を体験してもらうという、大胆な提案だった。
「これは、科学実験の公開デモンストレーションと、ワークショップを兼ねたようなものよ!」
麗華は、内心でそう呼んだ。
皇后は、麗華の提案に、驚きの表情を浮かべた。
「宮廷で、そのようなことを行うというのか……前例のないことだ」
しかし、麗華の真摯な眼差しと、その提案に込められた確固たる意思に、皇后の心は動かされた。
「よかろう。麗華妃。そなたの覚悟、しかと受け止めた」
「そなたの提案通り、宮廷で、その『色彩の力』を、皆の前で示すがよい」
皇后の許可を得、麗華はすぐさま準備にとりかかった。
宮廷の広間には、大きな染め桶や、様々な染料の材料が運び込まれた。
翠蘭と林は、麗華の指示に従い、準備を手伝った。
宮廷中は、麗華の公開染色の噂で持ちきりとなった。
「黎殿下の妃が、皆の前で染め物をするらしいぞ」
「怪しき術を見破れるかもしれぬ」
「いや、もしかしたら、本当に新しい技術かもしれぬ」
期待と不安、そして好奇心が入り混じった感情が、宮廷全体を包み込んでいた。
この公開染色は、麗華にとって、単に噂を払拭するだけでなく、煌国の技術革新を促し、人々の心に色彩の真の価値を伝える、大きな機会となるはずだった。
そして、この日が、黎皇子の「黎明」を、宮廷全体が目撃する、歴史的な瞬間となることを、麗華は願っていた。