第11話
皇帝主催の盛大な宴が終わり、麗華の宮廷内での地位は、揺るぎないものとなっていた。
皇后が麗華の仕立てた瑠璃色の衣装を公の場で称賛したことで、これまで麗華を軽んじていた者たちも、彼女の才能を認めざるを得なくなったのだ。
麗華の元には、連日、高位の妃嬪たちや、重臣の夫人たちから、衣装の仕立てや染料の依頼が殺到した。
彼女は、それらの依頼を一つ一つ丁寧にこなしながら、煌国の宮廷に、新たな「色彩の風」を吹き込んでいった。
麗華は、単に美しい衣を作るだけではなかった。
彼女は、依頼主の立場や性格、そして宮廷内での人間関係を考慮し、最適な色彩とデザインを提案した。
これは、現代のテキスタイルデザインにおいて、クライアントのニーズを深く理解し、そのブランドイメージを構築するのと同じプロセスだった。
例えば、ある高位の夫人が、自らの娘の婚礼衣装を依頼してきた際には、麗華は伝統的な緋色だけでなく、娘の純真さを表す白と、新しい家庭の繁栄を願う萌黄色の刺繍を組み合わせた。
(婚礼衣装は、単なる衣じゃない。新しい人生の門出を祝う、未来への希望を込めるべきものだわ)
染料の製法についても、惜しみなく知識を共有した。
それは、特定の植物のどの部分から色素を抽出するか、媒染剤の種類と効果、そして染色の温度と時間の管理といった、煌国ではまだ未発達な「科学的」アプローチだった。
宮廷の侍女たちや、染め物師たちも、麗華の指導の下、新しい染色の技術を学び始めた。
彼らは、麗華が作り出す鮮やかな色彩と、その背後にある深い知識に驚きと尊敬の念を抱き、次第に麗華の熱心な支持者となっていった。
麗華の周りには、これまで宮廷の権力争いには無縁だった、しかし美や技術に深い関心を持つ人々が集まるようになった。
彼らは、麗華がもたらす新しい色彩と知識に触れることで、自らの世界が広がるのを感じていた。
煌国では、これまで色彩は、身分や階級を示すための記号として使われることが多かった。
しかし、麗華は、色彩には人々の心を豊かにし、社会に活力を与える力があることを示し始めたのだ。
これは、煌国の伝統的な価値観に、静かな、しかし確実な変化をもたらしつつあった。
皇后は、麗華の活躍を、満足げに見守っていた。
彼女は、麗華が仕立てた瑠璃色の衣装をことあるごとに身につけ、その美しさを公言した。
皇后の麗華への寵愛は、日増しに深まっていった。
皇后は、麗華を自らの私室に呼び、世間話をするようになった。
それは、単なる妃と皇后の関係を超え、まるで友人のような、穏やかな交流だった。
皇后は、麗華に、自身の幼少期の思い出や、美に対する深い探求心を語った。
麗華もまた、故郷である日本の色彩豊かな文化や、テキスタイルデザイナーとしての経験を、皇后に語り聞かせた。
特に、皇后は、麗華が語る「色彩心理学」に強い興味を示した。
「そなたの言う『色彩が心に作用する』という理は、まことに興味深い。わたくしがこの瑠璃色の衣を纏うと、心が落ち着き、物事を冷静に判断できる気がする」
皇后は、そう言って、優雅に微笑んだ。
麗華は、この機会を逃さず、皇后に黎皇子のことを語った。
「皇后陛下。黎殿下は、確かに色覚を失っておられますが、色彩を心で感じ取る力をお持ちでございます」
「殿下の母君、月華妃が愛された瑠璃色に触れた時、殿下は『母の温かさが伝わる』と仰いました。殿下の心には、まだ多くの美しい色が眠っております」
麗華は、黎皇子が瑠璃色に反応した時の様子を、皇后に丁寧に説明した。
皇后の表情は、一瞬、複雑なものになった。
彼女は、黎皇子を冷遇する立場にあるが、同時に彼が自らの息子たちと同じ、皇帝の血を引く皇子であることも理解していた。
「……そうか。黎にも、そのような一面があったとは」
皇后は、静かに呟いた。
その言葉には、麗華の語る黎皇子の内面に、わずかながら心を動かされたような響きがあった。
麗華は、皇后の心に、黎皇子への理解の種を蒔いたのだ。
しかし、麗華の活躍と皇后の寵愛は、他の皇子たち、特に第一皇子・煌淵と第二皇子・煌峻の警戒心を、さらに高めていた。
煌淵は、自らの母である皇后が、麗華に深く傾倒していく様子に、焦りを覚えていた。
彼は、麗華の色彩を「くだらぬ戯言」と一笑に付していたが、その影響力が無視できないものとなりつつあることを、認めざるを得なかった。
「母上が、あの妃に心を許しているとは……!」
煌淵は、苛立ちを募らせた。
彼の腹心である武官の張は、煌淵を落ち着かせようと進言した。
「殿下、皇后陛下の寵愛は、一時的なものかもしれません。しかし、麗華妃の存在は、確かに黎殿下の地位を揺るがしかねません。何か手を打つべきかと」
「分かっておる!だが、どうする?直接手を出せば、母上の逆鱗に触れることになる……」
煌淵は、歯がゆそうに唇を噛んだ。
彼は、麗華の「色彩の力」の真意を理解できず、その対処に苦慮していた。
一方、煌峻は、麗華の行動をより深く分析していた。
彼は、麗華が単なる芸術家ではないと見抜いていた。
麗華の「色彩戦略」は、人々の心を掌握し、宮廷の権力構造に変化をもたらす、巧妙な「政治的な手腕」だと煌峻は判断していた。
彼は、自室で、古文書を読みながら、静かに思案を巡らせていた。
「あの妃は、色彩の力を利用し、人心を誘導している……これは、過去の賢人たちが用いた『文による統治』の極致に似ている」
煌峻の侍読である李は、主の言葉に深く頷いた。
「第二皇子殿下の仰る通りかと存じます。麗華妃は、皇后陛下を動かし、宮廷の風向きを変えつつあります。このままでは、黎殿下の復権も夢ではございません」
煌峻は、冷たい目で遠くを見つめていた。
「直接的な排除は愚策。それでは、あの妃の狙い通り、こちらが悪者にされるだけだ」
「麗華妃の持つ『色彩の力』を、逆手に取る策を講じるべきだ……」
煌峻の脳裏には、麗華の「色彩」を利用した、新たな策略が浮かび上がっていた。
それは、麗華の持つ「光」を、彼自身の「影」に変えるような、周到な計画だった。
宮廷の奥深くでは、麗華の活躍を巡り、水面下で激しい権力闘争が繰り広げられようとしていた。
そんなある日のこと。
麗華は、離宮の書庫で、煌国の歴史書を読んでいた。
彼女は、黎皇子の名前が、他の皇子たちの「煌」という姓を持たない理由について、深く考えていた。
(他の皇子の名前は、皆「煌」から始まるのに、黎殿下だけ「黎」……何か特別な意味があるはず)
書物を読み進めるうちに、麗華は、ある記述に辿り着いた。
それは、煌国の古い伝承に関わるものだった。
「遥か昔、煌国に危機が訪れた時、一人の皇子が『黎明の光』として現れ、国を救った」
「その皇子の名は、『黎』。彼は、夜が明け、新たな時代が始まることを象徴する存在とされた」
麗華は、その記述を読んで、はっと息を呑んだ。
(黎……夜明け、新たな始まり……!)
そして、その記述のすぐ傍に、小さな注釈が付け加えられていた。
「この伝承にちなみ、皇帝陛下は、第六皇子に『黎』の名を賜った。彼の母君、月華妃が、この伝承を深く信じ、皇子の未来に希望を託したためである」
麗華の胸に、確かな光が差し込んだ。
(そうだったのね……黎殿下の名前には、お母様の深い願いが込められていたのね!)
黎皇子の名前が、他の皇子たちと異なる理由。
それは、彼が「廃皇子」として遠ざけられたからではなく、むしろ、彼がこの国の「黎明の光」となることを願う、皇帝と月華妃の深い愛情と希望の証だったのだ。
麗華は、その事実を知り、黎皇子に対する理解が、一層深まった。
彼の「無色の世界」は、単なる病や障害ではなく、彼が背負う重い宿命と、そして彼に託された途方もない希望の象徴でもあったのだ。
麗華は、書物を閉じ、静かに立ち上がった。
彼女の使命は、黎皇子に失われた色彩を取り戻すことだけではない。
彼が、その名に込められた「黎明の光」として、煌国の新たな時代を築く手助けをすること。
それが、麗華に課せられた、真の使命だと悟った。
麗華は、すぐに黎皇子の執務室へと向かった。
彼女は、この大切な事実を、彼に伝えたいと思った。
彼が、自らの名に込められた希望を知ることで、彼の心の闇が、少しでも晴れることを願って。
執務室の扉をノックすると、黎皇子の静かな声が聞こえた。
「……入れ」
麗華は、部屋に入り、黎皇子の前へと進み出た。
彼の顔は、いつもと同じように無表情だったが、麗華の心は、希望に満ちていた。
「殿下……わたくし、書庫で、殿下の御名に関する、ある大切な記述を見つけました」
麗華は、そう言って、書物の内容を、黎皇子に語り始めた。
黎皇子は、麗華の言葉に、静かに耳を傾けていた。
彼の瞳は、やはり無色だったが、麗華の語る「黎明の光」の伝承と、母君・月華妃の願いに、彼の心の奥底が、微かに震えているように麗華には感じられた。
その瞳の奥に、かすかな「輝き」が宿るのを、麗華は確かに見た。
それは、これまでになく強く、そして希望に満ちた輝きだった。