第1話
森川彩音は、ディスプレイから放たれる蒼白い光を浴びながら、指先でマウスを操作していた。
深い夜のオフィスには、キーボードを叩く乾いた音と、時折聞こえる隣の席からの疲れたため息だけが響いている。
都内にある大手ファッションブランドで、彩音は主任テキスタイルデザイナーという重責を担っていた。
ここ数ヶ月は、来るべき新作コレクション発表に向けて、連日、睡眠時間を削って仕事に打ち込んでいる。
特に今回のコレクションは、日本の伝統的な染織技術と、最新のデジタルプリント技術を融合させるという、かつてない挑戦を試みていたため、心身ともに極限の状態にあった。
「あと少し……。このラインが、もう少しだけ鮮やかになれば……」
彩音は、モニターに映し出された複雑な模様の拡大図を凝視しながら、掠れた声で呟いた。
その声は、広々としたオフィスに吸い込まれるように消えていく。
視界はもうぼやけていた。
指先は痺れ、肩から首にかけての凝りは、まるで鉛のように重い。
それでも、彩音の脳裏には、まだ見ぬ美しい色彩と、絹のような滑らかな生地の質感が、鮮やかに、そして執拗なまでに浮かんでいた。
世界中の人々を魅了する、新しい「美」を創造すること。
それこそが、森川彩音という一人の人間を突き動かす、唯一無二の情熱であり、生き甲斐だった。
しかし、その研ぎ澄まされた情熱も、疲弊しきった肉体の限界には、抗えない。
突然、目の前が真っ白になった。
それは、描いていたはずの鮮やかな色が、一瞬にして消え失せたような、そんな感覚だった。
次の瞬間、強烈な目眩が襲い、世界全体がぐらりと揺れた。
彩音は、思わずデスクに突っ伏した。固い机の感触が頬に伝わる。
そのまま、意識は急速に、底なしの闇の中へと沈んでいった。
ああ、これで、全てが終わるのだと。
そんな漠然とした諦めが、どこか微かな安堵と共に、彩音の胸を通り過ぎていった。
長い、長い、夢を見ているような心地だった。
次に目覚めた時、彩音の視界に飛び込んできたのは、見慣れない、薄暗い天井だった。
漆喰で塗られたそれは、ところどころ剥がれ落ちており、豪華絢爛とは程遠い。
部屋全体が、まるで墨絵のように質素で、どこか古めかしい。微かに伽羅の香が漂い、それが現実であることを告げていた。
「……どこ、ここ?」
掠れた声が、自分のものとは思えないほど幼い。
全身に力が入らず、まるで何日も熱にうなされていたかのように、体が重かった。
ゆっくりと顔を動かすと、傍らに古ぼけた木製の化粧台が見えた。
その上に置かれた、研磨された銅製の鏡に、自分の顔が映っていた。
しかし、そこに映っていたのは、三十路を過ぎ、仕事に疲れ切っていたはずの森川彩音ではなかった。
あどけなさの残る、まだ十代半ばくらいの少女の顔。
細くしなやかな黒髪が枕に広がり、肌は陶器のように白い。
どこか憂いを帯びた、大きな瞳が、鏡の中の自分を、驚きに見つめ返している。
それは、どう見ても、自分ではない。
瞬時に、頭の中に他人の記憶が、激しい奔流となって流れ込んできた。
煌国。
この国の宰相家、宋家。
その三女、宋麗華。
病弱で、幼い頃から常に臥せりがち。家族からも使用人からもほとんど顧みられることのない、日陰の存在。それが、自分(麗華)の生きてきた日々だった。
これは夢だ。
そう思いたかったが、全身に感じる倦怠感と、五感で感じる全てが、紛れもない現実であることを突きつけてくる。
彩音は、自分が「宋麗華」という少女に、まるで吸い込まれるように転生してしまったのだと悟った。
そして、この突然の、あまりにも唐突な事実がもたらす未来に、彩音は途方もない絶望と不安を覚えるのだった。
麗華の体調は、その後、数日をかけて徐々に回復していった。
彩音の意識が、完全に宋麗華の体に馴染むにつれて、この宋家での日々が、まるで自分の記憶であるかのように鮮明に理解できるようになった。
宋麗華は、確かにこの宋家の三女ではあった。だが、それは形ばかりのことで、実際には正妻の子ではない庶子であったため、家の中では常に肩身の狭い思いをしていた。
幼い頃から体が弱く、常に臥せりがちだったため、ろくに教育も与えられず、社交の場にもほとんど出たことがない。
宋家の人間は皆、彼女を「できそこない」と見なし、その存在すら忘れ去ろうとしているかのようだった。
特に、実の母親でさえ、麗華には冷たかった。彼女の視線には、常に失望の色が宿っていた。
彩音として生きてきた日々では、考えられないような、理不尽で、あまりにも残酷な状況だった。
こんな日々が、これから、どこまで続いていくのだろうか。
麗華の胸に、拭いきれない不安が募った。
病に倒れ、全てを失ったばかりの彩音にとって、それはあまりにも重い現実だった。
それでも、心のどこかで、彩音は諦めきれないでいた。
自分には、森川彩音として培ってきた、類まれな才能と知識がある。
テキスタイルデザイナーとしての感性、色彩学、染織技術、そして現代のビジネスセンス。
それらを、この「宋麗華」という器の中で、どうにかして活かすことはできないだろうか。そうすれば、この先の、望まぬ人生にも、何か意味を見出せるのではないか。
淡い、しかし確かな期待が、彩音の胸に芽生え始めた。
そんなある日のことだった。
宋家の屋敷に、宮廷からの使者が訪れた。
厳かな空気が屋敷中に張り詰め、宋家の主である父親と、正妻が、いつもとは違う、どこか緊張した面持ちで、その使者と向かい合っていた。
麗華は、その場に呼び出された。
座敷に通された麗華の耳に、重々しい使者の声が飛び込んできた。
「――この度、煌国第六皇子、黎殿下の、ご婚約者として、宋麗華様をお迎えしたいとのお達しでございます」
周囲の空気が、一瞬にして凍り付いたような気がした。
麗華自身も、その言葉の意味がすぐには理解できず、呆然と立ち尽くした。
まさか、自分のような、病弱で、家でも顧みられない庶子に、皇子との縁談が持ち込まれるなど、考えもしなかったことだ。それは、あまりにも突拍子もない話だった。
しかし、その驚きは、すぐに別の感情へと変わった。
黎皇子。
煌国で最も忌み嫌われている存在。
政争により母と側室を失い、自身も過去の怪我の影響で片足が不自由になり、心を閉ざしていると噂される「廃皇子」。
皇帝さえも匙を投げ、表舞台から遠ざけている、謂わば、無用の長物。
「これは、麗華を厄介払いするための、政略結婚だ」
彩音の聡明な頭脳は、瞬時にその事実に気づいた。
病弱で、家の恥とされている自分を、邪魔者扱いし、権力争いの渦中にある「廃皇子」に押し付ける。
それが、この家族の思惑なのだ。
麗華は、そのあまりにも残酷で、冷酷な現実を前に、ただ唇を噛みしめるしかなかった。胸の奥が、氷のように冷えていく。
父である宰相、宋厳は、感情のない目をして麗華を見つめた。
「殿下の御身の上は、我らが知るところではない。これは宮廷からのお達し。宋家として、拝命せぬわけにはいかぬ」
彼の言葉には、娘を案じる親の情など、微塵も感じられなかった。ただ、家名を保つため、あるいは宋家の利益のために、麗華という道具を利用しようとする意図が明確に見て取れた。
傍らに座る正妻、宋夫人は、優雅な扇で口元を隠しながら、くすりと笑った。
「病弱で社交も苦手なお前には、これ以上ないお相手ではないか。宮廷に上がれば、宋家の名に泥を塗ることもなかろう」
その言葉は、麗華の胸に深く、深く突き刺さった。彩音として生きてきた過去の自分が、どれほど恵まれた環境にいたのかを痛感させられた。自由に仕事をし、自分の才能を思う存分に発揮できた日々が、今では遠い夢のように思われた。
麗華は、自分がこの政略結婚を拒否すれば、宋家が宮廷からの不興を買い、立場が危うくなることを知っていた。
この煌国において、個人の意思など、家の存続という大義の前では、あまりにも無力なのだ。
「……承知いたしました」
唇から絞り出すように答えた声は、ひどく震えていた。
麗華の心は、絶望の淵へと沈んでいく。
これから始まるのは、愛のない結婚、そして、孤独で、先の見えない宮廷生活。
それは、まさに麗華が最も望まない未来だった。
だが、彩音としての経験が、麗華の心の奥底に、微かな抵抗の火を灯した。
「このまま、理不尽に流されてなるものか」
かつての森川彩音は、どんな困難なプロジェクトも、持ち前の知性と情熱で乗り越えてきた。幾度となく訪れる壁も、努力と工夫で打ち破ってきたのだ。
この身が転生した先が、どれほど冷酷で、閉鎖的な世界であろうと。
たとえ「廃皇子」と呼ばれる人物のもとへ嫁ぐことになろうと。
自分は諦めない。
森川彩音として培ってきた、この唯一無二の才能を、この煌国で、必ず活かしてやる。
そして、この望まぬ人生を、自分の手で、望む未来へと変えてみせる。
そう決意した時、麗華の瞳の中に、消えることのない、強い光が宿った。