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顔面偏差値カンスト義弟で貴族令嬢を落としたい!のに……~普通のイケメンムーブかましてくれ!お願いだから!~

作者: 秋月アムリ

「あー、もうっ! 今月もカツカツじゃないの!」


 朝の薄暗い台所で、私、リナは、なけなしのパンの耳をかじりながら、家計簿代わりの汚れた羊皮紙を睨みつけていた。


 パンの耳は硬くてパサパサしていて、お世辞にも美味しいとは言えない。でも、文句を言っている場合じゃないのだ。これが今日の私の朝食であり、昼食になるかもしれないのだから。


 我が家は万年貧乏だ。


 母親は私がまだ幼い頃に事故死。連れ子とともにやってきた義母も、父とともに流行り病であっけなく逝ってしまい、残されたのは義理の弟、リアムと、この雨風をしのげるだけのボロ屋だけ。


 私が日雇いの針子仕事や酒場の洗い場で必死に稼いでも、食べ盛りの弟と二人で生きていくには雀の涙ほどの収入にしかならない。お腹いっぱいご飯を食べるなんて、夢のまた夢だ。


「姉さん、おはよう」


 背後から聞こえてきたのは、いっそ腹立たしいほどに甘く澄んだ声。


 振り向けば、寝癖でぴょこんと跳ねたミルクティー色の髪を無造作にかき上げながら、私の自慢の (そして悩みの種の) 義弟、リアムが立っていた。


 朝日が窓から差し込み、彼の完璧すぎる造形の顔を照らし出す。長い睫毛に縁取られた大きなアメジスト色の瞳、すっと通った鼻筋、薄い唇。


 そのどれもが神の最高傑作としか言いようのない美しさで、道行く誰もが息を呑んで振り返るほどだ。街の吟遊詩人が彼を見れば、即興で百編の恋歌を捧げるだろう。


 そう、顔だけは。顔だけは、本当に、本当に、いいのだ。


「おはよう、リアム。パン、そこに置いてあるから食べなさい。今日は一切れだけよ」


「うん、ありがとう、姉さん」


 リアムはこくんと頷き、テーブルに置かれた一切れのパンを、まるで極上のご馳走でも見るかのように嬉しそうにつまみ上げた。その仕草一つとっても、なぜか絵になるのがまた腹立たしい。


「姉さん、今日も綺麗だね」


「はいはい、ありがとう。それより、顔を洗ってきなさい。その寝癖、鳥の巣みたいになってるわよ」


 口では素っ気なく返しながらも、内心では (この顔面偏差値お化けめ!) と悪態をつく。


 こんな天使のような顔で、そんな素直な賛辞を口にされたら、こっちの調子が狂うというものだ。


 いや、もちろん、お世辞にも綺麗とは言えない、働き詰めの庶民の娘に対して本気で言っているわけではないだろうけれど。この弟は、時々こういう天然なのか計算なのか分からない爆弾を投下してくる。


 そう、このリアム、神様が容姿に全ステータスを振り切ってしまったのか、中身は驚くほど残念なのだ。


 普段の言動はどこか抜けていて、ぽわぽわしているというか、ネジが数本どころか半分くらい緩んでいるというか。


 私が甲斐甲斐しく世話を焼かなければ、明日にでも路地裏で野垂れ死んでいそうな危うさがある。齢十八にもなって、これだ。


 だからこそ、私は決意したのだ。このリアムの「顔面」という唯一にして最強の武器を使い、一発逆転の玉の輿生活を手に入れるのだと!


 貧乏暮らしからの脱却! 毎日三食お腹いっぱい! ふかふかのベッド! そう、夢にまで見た、貴族様とのご成婚である。


 リアムが貴族の麗しいご令嬢に見初められ、その財力と地位によって私たち姉弟の生活が劇的に改善される――これ以上に素晴らしい計画があるだろうか? いや、ない! (反語)


 これまでも、私は何度かこの「リアム玉の輿計画」を実行に移してきた。街の広場で偶然を装って貴族の令嬢と接触させたり、知り合いのつてを頼ってお茶会に潜り込ませたり。しかし、結果は惨憺たるものだった。


 例えば、あの男爵令嬢とのお茶会では、出された美しい砂糖菓子を「わあ、キラキラしてる!」と目を輝かせながら全部自分のポケットに詰め込み、令嬢をドン引きさせていた。


 またある時は、伯爵家のご令嬢との散策中に、道端で見つけた奇妙な形の石ころに夢中になり、「見て見て姉さん! この石、伝説のグリフォンの卵かもしれない!」と大声で叫びながら追いかけてくる始末 (もちろん、追いかける先は私だ)。令嬢は「……わたくし、少々頭痛が……」と青い顔で馬車に逃げ帰ってしまった。


 ああ、思い出すだけでも胃が痛い。あの美貌が、本当に、本当に、宝の持ち腐れなのだ。なぜ神は、彼に美貌と少しばかりの常識を与えてくださらなかったのか。いや、常識は望みすぎか。せめて、人並みの奇行にとどめる程度の分別を……!


「姉さん、どうかしたの? 眉間にシワが寄ってるよ」


 私の苦悩など露知らず、リアムがパンを頬張りながら小首を傾げる。その無垢な瞳に見つめられると、つい力が抜けてしまう。


「ううん、なんでもないわ。それよりリアム、あなたにまた一つ、大事なお仕事をお願いしたいのだけれど」


「仕事? 俺が? やるよ! 姉さんのためなら何でもする!」


 きらきらとした笑顔で、リアムが胸を張る。その言葉に嘘はないのだろう。彼はいつだって私の言うことを(理解しているかは別として)素直に聞こうとしてくれる。


 ただ、その結果がいつも斜め上を行くだけなのだ。


 私は深呼吸一つ。大丈夫、今度こそ、今度こそ上手くいくはずだ。なぜなら、今回のターゲットは、これまでの令嬢たちとは少し毛色が違うのだから。


 そう、私は新たなターゲットの情報を掴んでいた。


 子爵家の令嬢、ソフィア様。御年十七歳。


 噂によれば、少々変わったご趣味をお持ちで、特に既存の価値観にとらわれない、自由な芸術を愛する方らしい。


 もしかしたら、リアムのあの奇想天外な言動も、「個性的」「アーティスティック」と好意的に捉えてくれるかもしれない! ……という、藁にもすがるような淡い期待を抱いているのだ。


「いいこと、リアム。今度の相手は、ソフィア様という、とっても心の広いご令嬢よ。あなたのありのままの魅力を理解してくださる、かもしれないわ」


「ありのままの魅力……?」


「そう! だから、いつも通り、自然体で……いや、やっぱりダメ! 自然体はダメ! 絶対にダメ!」


 思わず声を荒らげてしまった。リアムの「自然体」がどれほど危険なものか、私は骨身に染みて知っている。


「とにかく、いい? まず、ご令嬢には絶対に優しくするの。笑顔を絶やさず、紳士的に振る舞うこと。いいわね?」


「うん、わかった! ジェントルマンだね!」


 リアムは得意げに頷くが、その目が全く笑っていない。ああ、これは理解していない時の顔だ。


「それから、会話の基本は、相手の話をよく聞くこと。ご令嬢が何かお話しされたら、『それは素晴らしいですね』とか『もっと詳しく聞かせていただけますか?』とか、興味があるそぶりを見せるのよ。自分の話ばかりしちゃダメだからね?」


「ふむふむ、インタレスティング……」


 どこで覚えたのか、リアムが怪しげな発音で呟く。不安しかない。


「そして、これが一番大事かもしれないけれど、絶対に、絶対に、変なことはしないこと! いいわね!? 石ころを追いかけたり、お菓子を独り占めしたり、突然歌い出したり踊り出したり、そういうのは全部禁止!」


「えー、歌うのもダメなの? この前練習した、姉さんが褒めてくれた『恋する子羊ポルカ』は?」


「あれは二人きりの時にふざけて歌っただけでしょ! 大体、あの歌詞のどこに貴族令嬢を口説き落とせる要素があるっていうのよ!」


 思わず頭を抱える。前途多難とはこのことだ。


「と、とにかく! いつも私が教えているでしょう? エスコートはこう、プレゼントはこうやって渡して、お辞儀はもっとゆっくり、優雅に!」


 私は身振り手振りを交えながら、リアムに付け焼き刃の貴族作法を叩き込む。リアムは「うん!」「わかった!」と元気よく返事はするものの、その動きはどこかぎこちなく、まるで操り人形のようだ。本当に大丈夫だろうか、この弟は。


 ふと、リアムが私の手元をじっと見つめていることに気づいた。そのアメジスト色の瞳には、いつものような能天気な光ではなく、どこか切ないような、申し訳なさそうな色が浮かんでいるように見えた。


「姉さん……いつも、俺のために、ありがとう」


「……な、何よ急に。当たり前のことでしょ。私たちは家族なんだから」


 らしくない殊勝な言葉に、思わずどぎまぎしてしまう。リアムは時折、こういう核心を突くようなことを、ぽつりと言うことがある。だから余計に、彼の本心が分からなくなるのだ。


「でも……俺、ちゃんと姉さんの役に立てるかな……」


「立てるわよ! あなたのその顔は、一国の姫君だって振り向かせられるくらいの破壊力があるんだから! 自信を持ちなさい!」


 私はリアムの肩を力強く叩きながら、自分自身にも言い聞かせるように言った。


 そうよ、あの顔面があれば、多少の奇行はカバーできるはず……いや、できてほしい! お願いだから!


 なんとかソフィア様のお母様と知り合いだという、昔なじみの洗濯屋のおばさんのつてを頼り込み、数日後のお茶会への参加を取り付けることができた。


 場所は、街外れにある貴族御用達の美しい庭園だという。


 期待と不安が入り混じる。心臓が早鐘のように鳴っているのが自分でも分かる。


 大丈夫、きっと大丈夫。ソフィア様は芸術を愛するご令嬢。リアムの奇行すらも、斬新なパフォーマンスアートとして受け入れてくれるかもしれない。そう信じたい。いや、信じるしかないのだ。私たちの貧乏生活脱却は、この一戦にかかっているのだから!



  *



 そして、運命の (かもしれない) お茶会当日。


 私は、新調したとは到底言えない、けれど一番マシなワンピースに身を包み、リアムには先日古着屋で目を皿のようにして見つけ出した、貴族の若様が着ていたというお下がりの上着 (もちろん、値切りに値切って手に入れた) を着せた。サイズは少し大きいけれど、そこはリアムの規格外のスタイルがカバーしてくれるはずだ。仕上げに、彼のミルクティー色の髪を丁寧に整え、準備は万端。


「いいこと、リアム。今日はあなたの人生がかかっていると言っても過言ではないわ。いつも以上に、慎重に、そして紳士的に振る舞うのよ!」


「うん、姉さん! 俺、頑張るよ!」


 リアムはいつものように元気よく返事をするが、その瞳はどこか遠くを見ている。ああ、まただ。この子は本当に人の話を右から左へ受け流す天才なのかもしれない。


 会場となる庭園の入り口でソフィア様ご一行を待ち伏せ――いや、丁重にお迎えし、あとはリアムに任せる。


 私は、庭師のおじさんにこっそり小銭を握らせて (なけなしのなけなしだ!) 、庭園の隅にある大きな灌木の陰に潜り込み、固唾を飲んで二人と、その取り巻きのご婦人方の様子を見守ることにした。ここからなら、リアムの奇行はバッチリ監視できるはずだ。


 ほどなくして、ソフィア様が侍女らしき女性を伴って現れた。淡い水色のドレスに身を包んだ彼女は、噂に違わず、知性と好奇心にあふれた、理知的な雰囲気の美しいご令嬢だった。


 歳の頃はリアムと同じくらいだろうか。小柄で華奢な体つきが、庇護欲をそそるタイプかもしれない。よし、見た目の相性は悪くない!


 ソフィア様は、リアムの姿を認めるなり、その美しい顔をほんのりと上気させ、小さく「まあ……」と感嘆の声を漏らした。よしよし、第一印象はバッチリだ! さすがは私の弟、顔面だけは国宝級!


 リアムは、練習通りにソフィア様に歩み寄り、恭しくお辞儀をした。おお、今日はいつもよりスムーズじゃないか! やればできるじゃないの!


 ソフィア様が、侍女から小さな花束を受け取り、それをリアムに差し出した。


 おそらく、歓迎の印なのだろう。色とりどりの可憐な花々が、春の陽光を浴びてきらきらと輝いている。


「リアム様、本日はお越しいただき、ありがとうございます。ささやかですが、お近づきの印に」


「わあ、綺麗な花だ! ありがとう、ソフィア様!」


 リアムは花束を受け取ると、天使のような笑顔を浮かべた。そこまでは良かった。そこまでは、本当に、完璧だったのだ。


 次の瞬間、リアムはこともなげに、その花束から一番大きな深紅の薔薇の花を一本引き抜くと、その花びらを一枚ちぎり、おもむろに自分の口へと運んだのである。そして、もぐもぐと咀嚼し始めたのだ!


(ぎゃあああああああっ! やった! こいつまたやったわ! 初手からこれかーーーーーいっ!)


 私の心の叫びは、もちろん誰にも届かない。灌木の葉を握りしめ、声にならない悲鳴を上げる私をよそに、リアムはにっこりとソフィア様に微笑みかけた。


「うん、甘い香りがするね! まるでお菓子みたいだ!」


(お菓子じゃねーよ! それ薔薇! 薔薇だから! 観賞用! 食用じゃ断じてないからぁぁぁぁ!)


 私は頭を抱えてその場に蹲りそうになった。終わった。今回も、開始五分で終わった。


 私の玉の輿計画は、またしてもこの残念なイケメン義弟によって、木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。ああ、神様、なぜ私にこのような試練をお与えになるのですか……。


 ところが。


 ソフィア様は、一瞬きょとんとした表情を浮かべたものの、次の瞬間、その理知的な瞳をきらきらと輝かせ、ポンと手を打った。


「まあ! リアム様! なんて純粋な感性をお持ちなのでしょう! まるで、お花の妖精が、地上に降りてこられたかのようですわ! きっとこの薔薇がどんな味がするのか、その身をもって体験してみたかったのですね!」


(えええええええええええええええええっ!?)


 私は、我が耳を疑った。そ、それでいいの!? 妖精!? 花の味を体験!? いやいやいや、どう考えてもただの奇行でしょうが! それをそんな詩的に、メルヘンチックに解釈しちゃうの!?


 このご令嬢、もしかして、本当に、リアムの「ありのまま」を受け入れてくれる救世主なのでは……!?


 ソフィア様の取り巻きのご婦人方も、「まあ、なんてユニークな方」「ソフィア様のお眼鏡にかなう方は、やはり普通の方ではございませんのね」などと、口々に感心したような声を上げている。嘘でしょ!? この状況、信じられないんだけど!


 私の混乱をよそに、リアムとソフィア様のお茶会は、意外にも和やかな雰囲気で始まった。


 テーブルには色とりどりのお菓子と紅茶が並べられ、二人は楽しそうに (リアムが一方的に、かもしれないが) 談笑しているように見える。


(もしかしたら、もしかするかもしれないわ……!)


 淡い期待が、再び私の胸に込み上げてくる。ここから、ここからが本番よ、リアム! 油断しないで!


 しばらくして、ソフィア様が何か芸術に関する話題を振ったようだった。彼女は身振り手振りを交え、熱心に何かを語っている。おそらく、彼女が愛する自由な芸術についてだろう。リアムは、神妙な顔でそれに頷いている。


 よし、いいぞリアム! あいづちを打つタイミングも悪くない! このまま、聞き役に徹するのよ! 「うんうん、そうだねスマイル」で乗り切るの!


 しかし、そんな私の願いも虚しく、リアムはソフィア様の話が終わるや否や、待ってましたとばかりに口を開いた。


「ソフィア様のお話、とっても興味深いです! 俺もね、最近すごくこだわっていることがあるんだ!」


(え? こだわっていること? なによ、リアムにそんな高尚な趣味あったかしら? まさか、あのグリフォンの卵の石ころコレクションの話じゃないでしょうね……!?)


 私の不安をよそに、リアムは自信満々に自分の頭を指さした。


「俺のこの帽子! この羽根飾りの手入れが、最近の俺のマイブームなんだ!」


(はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!? 帽子の羽根飾りぃぃぃぃぃ!?)


 私は再び頭を抱えた。


 もうダメだ……終わった……今度こそ本当に終わった……。貴族のご令嬢が情熱を込めて語る芸術論に対して、帽子の羽根飾りの手入れ方法で返す男がどこにいるというのだ!


 しかも、その帽子、私が蚤の市で埃まみれになっていたのをタダ同然で譲ってもらった年代物じゃないの! どこにそんな手入れのしがいがあるっていうのよ!


 リアムは、そんな私の絶望など微塵も感じていない様子で、ソフィア様に向かって熱弁を振るい始めた。


「この羽根はね、特別な鳥の羽根なんだ! 多分! だから、毎朝露で清めて、月の光をたっぷり浴びさせてあげないといけないのさ! そうすると、風の流れを一番美しく捉えて、俺が歩くたびにキラキラって輝くんだ! この角度が一番重要でね、こう、ちょっと斜め上に向けることで、太陽の光を反射して……」


 リアムは、実際に自分の帽子を取り、ソフィア様の目の前で羽根飾りの角度を微調整し始めた。その顔は、まるで世紀の大発見でもしたかのように真剣そのものだ。


(もうやめてええええええええ! 誰かこの残念なイケメンの口を塞いでええええええ!)


 ソフィア様は、ぽかんとした表情でリアムの独演会を聞いていたが、やがて、先ほどと同じように、その瞳を好奇心でいっぱいに輝かせた。


「まあ! リアム様! なんて独創的な視点なのでしょう! 日常の些細なこと、帽子の一つをとっても、そこに美を見出し、愛情を注ぐ……その繊細な心が、本当に素晴らしいですわ! わたくし、感動いたしました! わたくしも、自分の持ち物一つ一つに、リアム様のような深い愛情を注げるよう、帽子の羽根の精神を見習わなくてはいけませんわね!」


(セーーーーーーーーーーーーーーフ!!!! ま、まだセーフなの!? 嘘でしょこの令嬢、懐が海より深いわ! というか、帽子の羽根の精神を見習うって何!? 新しい宗教でも開くおつもりかしら!?)


 私は、もはや何が何だか分からなくなってきた。


 リアムの奇行が、ことごとくソフィア様の琴線に触れまくっている。これはもう、奇跡としか言いようがない。もしかしたら、本当に、本当に、このご令嬢なら、リアムを……!?


 ごくり、と喉が鳴る。最終関門は、いつだってリアムの予測不可能な行動だ。このまま、何事もなくお茶会が終わってくれれば……!


 しばらくは、本当に穏やかな時間が流れた。リアムも、さすがに疲れたのか、大人しく紅茶を飲み、ソフィア様の話に (相変わらず分かっているのかいないのか分からない相槌を打ちながら) 耳を傾けている。


(いける……! このままなら、本当にもしかするかもしれないわ!)


 希望の光が、私の目の前にハッキリと見えてきた。その時だった。


 ソフィア様が、ふと足元に目をやり、愛おしそうな表情を浮かべた。


「あら、リリィ。おとなしくしていて偉いわね」


 そう言って彼女が抱き上げたのは、真っ白でふわふわの毛並みをした、可愛らしい小型犬だった。


 リボンでおめかしされたその犬は、ソフィア様の腕の中で大人しくしている。おそらく、お茶会の間、ずっと彼女の足元にいたのだろう。


「この子はリリィと申しますの。わたくしの大切な家族の一員ですわ」


 ソフィア様は、リリィの頭を優しく撫でながら、リアムに紹介した。リアムは、目を丸くしてリリィを見つめている。


(よし、動物好きはポイント高いわよ、リアム! ここで「可愛いですね」とか「俺も犬が好きなんです」とか、無難なコメントをすれば完璧よ!)


 私は固唾を飲んでリアムの次の言葉を待った。


 リアムは、にっこりと、本当に、本当に、天使のような穢れのない笑顔を浮かべて、「わんちゃん、可愛いね!」と言ったのだ。


「ありがとうございます……!」


 その笑顔に、頬を上気させて見惚れているご様子のソフィア様。


(よーし! いいわよ! そのまま畳みかけるのよ!)


 私の内なる言葉が届いたのか、リアムは何か決意したように頷いた。え、ちょっと、何……?


「ソフィア様はわんちゃんが好きなんだね……よし!」


 そう言って、彼は次の瞬間、おもむろにテーブルの下に潜り込み、なんと、四つん這いの体勢になったのである! そして、ソフィア様の足元で、「わん! わん!」と元気に吠え始めたのだ!


「俺もわんちゃんだよ! 遊んで! クゥーン! キャンキャン!」


(…………………………。)


 私は、思考が完全に停止した。目の前で繰り広げられている光景が、現実のものとは到底思えなかった。


 リアムが、貴族のご令嬢の前で、犬になっている。本物の犬のように、四つん這いになり、尻尾を振るような動きまでして (もちろん尻尾はない) (十八の男が四つん這いになって尻を振っているだけ)、ソフィア様の足にじゃれつこうとしている。


 ソフィア様は、一瞬、何が起こったのか理解できないといった表情で固まっていたが、やがてその顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていった。その瞳は、先ほどまでの好奇心や好意の色ではなく、明らかな困惑と、そして恐怖の色すら浮かべているように見えた。


「……まあ……なんて……その……フ、フレンドリーで……いらっしゃるの……で……も……。……こ、これは……さ、さすがに……わ、わたくしには……その……芸術的感性が……足りないようでして……。も、申し訳ございませんっ! ごめんなさいいいいいいいいいいっ!!!」


 ソフィア様は、悲鳴に近い声を上げると、リリィを抱きしめたまま椅子から立ち上がり、侍女の手を引いて、脱兎のごとく庭園から走り去ってしまった。取り残されたのは、テーブルの下で「クゥーン……?」と寂しそうに鳴いているリアムと、灌木の陰で灰と化している私だけだった。


(ですよねーーーーーーーーーーっ!! 知ってたーーーーーーーーーーっ!! やっぱりこうなる運命だったのよおおおおおおおおおおおっ!)


 私の心の叫びは、春の穏やかな空に虚しく吸い込まれていった。ああ、私の玉の輿計画……。


 今回もまた、我が残念すぎるイケメン義弟の手によって、見事に、それはもう見事に、クラッシュされたのであった。



  *



 灰色の絶望に染まった私を現実に引き戻したのは、他でもない、元凶であるリアムの間の抜けた声だった。


「姉さん、どこにいたの? 俺、お腹すいちゃった。一緒に食べよう?」


 ひょっこりと灌木の陰から顔を出した私に、リアムはいつものぽわぽわとした笑顔を向けてくる。


 その手には、いつの間にかテーブルの上にあったクッキーが数枚握られていた。……ちゃっかりしてるわね、この子は。


「お腹すいちゃった、じゃないでしょうが! あなたって子は、本当に……!」


 怒鳴りつけたい気持ちと、全身から力が抜けていくような脱力感とで、言葉がうまく出てこない。


 私はよろよろと立ち上がり、リアムの手を引いて (というより、引きずるようにして) そそくさと庭園を後にした。


 道行く人々が、美貌の青年と、その隣で燃えカスのような形相をしている庶民の娘という奇妙な組み合わせに、訝しげな視線を向けていたけれど、今の私にそれを気にする余裕はなかった。


 帰り道、とぼとぼとリアムの後ろをついて歩きながら、私は今日の惨劇を脳内で何度もリピートしていた。


(あの花を食べた時点で、普通ならアウトだったはずなのに……まさか妖精扱いで切り抜けるとは……。帽子の羽根飾りの熱弁も、まさかの芸術的感性でクリア……。ソフィア様、あなたこそが真の芸術家よ! あの奇行の数々を、あそこまでポジティブに変換できるなんて、もはや才能の塊だわ!)


 しかし、どんな才能も、最後の「犬化」には耐えられなかった。


 あれはダメだ。あれは、どう考えてもダメだ。どんなに懐の深いご令嬢でも、目の前で男性が四つん這いになって「ワンワン!」と吠え始めたら、さすがに逃げ出すに決まっている。


「姉さん、俺、また何か間違えちゃったかな……? あの人、なんだか急に怒ったみたいに帰っちゃったんだ……」


 私の背中に、リアムが声をかける。その声には、悪びれる様子は微塵もなく、ただ純粋な疑問だけが込められているのが、また腹立たしい。


「間違えちゃったかな、じゃないのよ! 大間違いよ! 大・間・違・い! なんで犬になるのよ、あなたは! 人間でしょうが!」


「何言ってるの? そんなの当たり前じゃん」


「もういい! あなたと話していると頭が痛くなってくる!」


 へにゃりと笑う義弟に、私はわしわしと自分の頭を掻きむしった。


 ああ、またダメだった。またしても、私のささやかな夢は、この残念すぎる美貌の弟によって、無慈悲にも打ち砕かれてしまったのだ。


 どうしてうちの義弟はこうなのだろう。あの神々しいまでの美貌が、本っ当に、心の底から、宝の持ち腐れだ。


 でも……。


 ふと、脳裏をよぎる。ソフィア様の前では決して見せない、私にだけ向ける気の抜けた笑顔。


 私が熱を出して寝込んだ時、慣れない手つきで一生懸命お粥を作ってくれたこと (味はともかくとして)。


 私が夜遅くまで針子仕事をしていると、何も言わずに隣に座って、ただ静かに私の作業を見守っていてくれること。


 そういう、本当に些細な、誰にも気づかれないような優しさを、この弟は持っているのだ。


 だから、どんなに奇行を繰り返されても、どんなに頭を抱えるような出来事を引き起こされても、私はこの弟を見捨てることができない。……いや、単に情が移っているだけかもしれないけれど。


「はあ……もう、あなたに合うお嬢様なんて、この世のどこを探してもいないんじゃないかしら……」


 思わず、深いため息が漏れる。夕暮れの空が、やけに目に染みた。


 すると、リアムが私の顔を心配そうに覗き込んできた。そのアメジスト色の瞳が、夕焼けの光を反射して、きらりと輝く。


「そんなことないよ。俺、姉さんが喜んでくれるなら、なんだってするから。だから、元気出して?」


 その言葉は、いつものようにどこか的外れで、私の心には全く響かなかった。


「口ばっかり達者なんだから……」と、私は力なく呟く。この弟は、自分が何を言っているのか、本当に理解しているのだろうか。


(でも……)


 ほんの少しだけ、ほんの僅かだけ、今のリアムの言葉が、いつもとは違う響きを持っているような気がした。気のせいかもしれないけれど。


 家に着くと、私はどっと疲れてベッドに倒れ込んだ。


 リアムは、私が何も言わなくても、慣れた手つきで夕食の準備 (といっても、残り物のパンとスープだけれど) を始めていた。


 その後ろ姿をぼんやりと眺めながら、私は懲りもせず、次の計画に思いを巡らせ始めていた。


(こうなったら、次はもっと、もーっと変わったご令嬢を探し出してやるわ! それこそ、自分で奇行に走っちゃうくらいの、ぶっ飛んだ方がいいかもしれない! ……いや、それだとリアムと二人で何をしでかすか分かったものじゃないわね……。いっそのこと、もう外国の王女様とか!? 言葉が通じなかったら、リアムの奇行がダイレクトに伝わらなくて、逆にいいかもしれないわね……いや、でも、意思疎通ができないのは致命的か……うーん……)


 思考は堂々巡り。貧乏生活脱却への道は、まだまだ遠く険しいようだ。


 しばらくして、リアムが「姉さん、ご飯できたよ」と呼びに来た。


 私がのろのろと起き上がって食卓に向かうと、テーブルの隅に、小さな野の花で束ねられた、不格好だけれど可愛らしい花束がそっと置かれているのが目に入った。


 いつの間に摘んできたのだろう。リアムは、私がそれに気づいたことには気づいていないようで、いつも通り、パンを美味しそうに頬張っている。


 その小さな花束を見た瞬間、なぜだか、さっきまでの疲労感が少しだけ和らいだような気がした。


(まあ、いいわ。今日のところは、このくらいにしておいてあげる)


 私は小さくため息をつき、硬いパンをかじりながら、心の中でそっと呟いた。


 リアムの玉の輿計画は、まだまだ、まだまだ、終わらないのだ。たとえ、その道のりが、いばらの道どころか、ドラゴンの巣だったとしても!


 私の戦いは、まだ始まったばかりなのだから。




 ……と、決意を新たにしたところで、ふとリアムが私の顔をじっと見つめていることに気づいた。


 その口元には、ほんのり、本当にほんのりと、満足げな笑みが浮かんでいるように見えたのは……きっと、私の見間違いだろう。そう、見間違いに違いない。この顔面偏差値カンストの残念な弟が、そんな高度な表情コントロールができるわけがないのだから。


 たぶん。おそらく。きっと。




 おわり?

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