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白球と竜胆

作者: Postal


白球が空へ打ち上げられたのと同時に、センターフィールダーである私は走り出していた。


地面と白球が近づいていく中、ギリギリのタイミングで落下地点へ向けて飛び込んだ私の、グローブをはめた左手の先で乾いた革の弾けるような音が鳴って、それと同時にボールを握る感触が掌へと伝わってくる。倒れるように飛び込んだその姿勢から、起き上がらずに寝返りを打って、左手を空へ向けて伸ばすと、グローブに収まったボールを確認しただろう塁審が「アウト」と大きく叫んだ。

初夏。天気のいい日曜の昼間、少年野球の大会の最中、埋め立て地に作られたボールパークに吹く涼しい海風をあびながら外野の芝の上で寝転ぶ。見上げた空がどこまでも高くて、できることならそのまま昼寝をしてしまいたかったのだが、そういうわけにもいかない「起きなくては」と上半身だけを起こし、グランド内を見渡す。すると、私の身を案じていたのか、それまで何も言わなかった球審が大きな声でゲームセットのコールをした。

その声に応えるように、グラウンドやベンチの中に居た少年たちが一斉にホームベースの前に集まってくる。楽しそうに笑顔で走っていくチームメイト達の、その輪に早く私も加わりたくなって、起き上がり、走り出そうとした。

だが、体を前に進めることはできなかった。芝生の上から、強風に吹き飛ばされたかのように体が空中に浮かび上がって、そのまま、チームメイトたちの居る場所からどんどん遠くへと離されていく……私はどうすることもできず、また空を見た。

見上げただけで成層圏を超えていくことができそうな、夏の濃い青色の空で、その下でプレーをするだけで「ああ、野球って楽しいな」と何度も思えるような、気持ちのいい空だった。

 

目の前に広がるその空を見たのを最後に、私の意識は途切れる。


古くなったアパートのフローリングの上で私は目を覚ました。動いただけで重さを感じるほどにパジャマはじっとりと湿っていて「随分と懐かしい夢を見ていたな」と、それだけを思った。


祝日の朝。小学生の頃には登校しなければならないはずの曜日に突如訪れる休日ということで、ワクワクしながら迎えたものだが、大人になった私にとっては、年に何度かやってくるただの仕事に行かなくてよい、ダラダラと過ごすことの出来るだけの退屈な日の一つでしかなかった。

歯を磨きながらシャワーで汗を流して、冷蔵庫から牛乳をコップに注ぐ。ぼんやりと朝のニュースを眺め、シャツに袖を通し、恋人に会うため出掛けていく……特別なことなど何もない休日の朝。

玄関を出ると、甘く薫る初夏の海風が手懐けた犬のように一瞬で坂道を上ってきて、私を包んだ。眼下に広がる海とそれを覆う空とが、どこまでも平行して見えるくらい天気のいい日で「これから暑くなるんだろうな」と、そんなことを予見させる日差しに目を細める。


アパートの駐輪場から、赤いフレームに茶色い前カゴのついた折り畳み自転車を引っ張り出す。ブレーキの動きを確認してから、それにまたがり、海から吹く風を目一杯に浴びながら坂道をくだっていった。


恋人との待ち合わせへとむかう途中、私は国道脇に建つ農園直営の花屋へと立ち寄った。

花を並べている農作業着のままの老婆と、その娘である中年の女性に挨拶をしながら、自転車のカゴが一杯になるくらいに沢山の、白い竜胆の花を買った。

店を出て、私が買ったばかりのその花を袋ごと前カゴへと詰めていると、その後ろに立った中年女性が「いつもありがとうね」と優しく声をかけてくる。掛けられたその言葉に、どこか気恥ずかしさのようなものを覚えた私は、軽い会釈をして「ありがとうございました」と、返すしかできなかった。

そして、すこしだけ上機嫌になりながら恋人との待ち合わせ場所に向って自転車を走らせていく。


待ち合わせ場所である、単線の駅には、もうすでに恋人の姿があり、いかにも手持ち無沙汰といった風で私を待っていた。動きやすそうなジーンズとシャツにリュックを持っただけの彼女の前で自転車を止め「いこうか」と、私がそう言うと、彼女は笑顔でこくりとうなずく。

「講義は何時から?」

「夕方からだよ。今日が終われば夏休みまでテストだけ、でも、いいな、祝日がお休みで」

「まあね、でも大学生と違って社会人には夏休みがないんだよ、お盆休みだけだ」

「じゃあ、今のうちに遊んでおかなくちゃな、夏休みが終わったら就活はじめないとだし」

彼女は私の親友の妹で、時折見せる仕草や、両親から来ているのであろう話し方の癖が、どことなく彼に似ていた。

 駅から上り坂になっている商店街をすすんで、いつも立ち寄るイタリア料理の店に入り、コーヒーとティラミスを頼んだ。

彼女の専攻している学問や、私のした就職活動について話し込んでいる間に、気が付けば彼女が大学へと向かわなければならない時間となっていて、私たちはまた隣り合って駅へと戻った。

「この後はどうするの?」

「いつも通りさ、ボールパークに行って皆に会ってくるよ」

「そうか、お兄ちゃんによろしくね」

 その日のデートはそれだけで、別れ際、駅の改札前で竜胆の花を一房だけ彼女に渡すと「かわいいね」といいながら親友に似た顔で笑って「いつもありがとう」と今朝会った花屋の女性と同じ言葉をいいながら電車に乗り、大学へ向かって行った。


電車が踏切を横切るのを眺めたあとで、店へと戻ると、客のいない店内を店主が掃除していた。戻ってきた私の姿を見て、私が飲みかけにしていたコーヒーだけを残し、テーブルから食器を下げると、キッチンから自分用のカップを持って戻ってきた。

私の向かいに座った彼に不意に聞きたくなって「そういえば、お前の子供いくつなったんだ?」と、元居た席に戻りながら尋ねてみる。

「6歳だよ、来年から小学生だ」

「そうか、早いなあ」答えた彼の言葉に「本当に早い」と、心からそう思った。

それから、しばらく二人で話をしたが「そろそろ行くよ」と私が言うまで、結局、他の客は一人も来なかった。その事を笑いあってから店をあとにしようとする私に「今日は早めに店を閉めるけど、戻ってこないか? 酒でも飲もうぜ」と、店主が声をかけてきて

「どうしようかな? 考えとくよ。あとで連絡する。まあ、多分、戻ってくるよ」

私は曖昧な答えを返した。


見送りのため表に出てきてくれた彼に「店にでも飾ってくれ」と自転車の籠から竜胆を何本か抜き取って渡すと「竜胆なんて久しぶりにみたよ」彼はそう言いながら、まじまじとその白い花を見つめた。

「去年も渡なかったか?」

「もらったよ、だから一年ぶりだ」

「まあ、たしかに町の花なのに野生では見かけないよな」

言いながら私は自転車にまたがって

「気を付けて運転しろよ、皆にもよろしくな」

後ろからかけられた彼のその言葉には何も言わず。片手をヒラヒラと振って返すと、商店街をゆっくりと下って行った。


商店街からまた海沿いの国道に戻って20分ほど自転車で走り、たどり着いた埠頭の横の抜けると、朝に夢でみたのと同じボールパークがある。

埋め立て地につくられたその場所では、今も変わらず少年たちが元気に白球を追いかけていて。私はその様子を、ネット越しに、ベンチに腰かけながら何をするでもなく眺めた。

日が暮れきる前に、柱に設置されたスピーカーからトロイメライが流れて、それを聞いたこどもたちが三々五々と散って行く。最後の一人が帰っていくまでずっとその姿を見守って、長いこと腰を下ろしたままだったベンチから立ち上がると、海に向かって続く道をさらに奥へと進んでいった。


夕凪の後で吹く、日中の暑さをそっくり拐ってしまうようなヒンヤリとした海風のなか、自転車を押しながら歩いていく。やがて道が終わり、私は埋め立て地の端にある灯台の下へとたどり着いた。


十数年前に建て直された、白いコンクリートの灯台。

その周りは広場になっていて、海岸線に沿って壁が半円形に築かれている。私の胸ぐらいまでの高さしかない低い壁で、新しい灯台と一緒に建てられたこの壁も、同じようにグラウンドに撒かれたばかりの石灰の粉ようにきれいな白色をしている。

波を防ぐためでもない、ただ、この町にいた58人の名前が彫られているだけの白い壁、それと灯台の間には球体の彫刻が置かれている。この町の出身だという名前も知らない書道家のデザインで『愛』という一文字が刻まれた球体の彫刻。

この場所は、観光地によくあるような、ただの慰霊碑のひとつだ。

44人の他人と、3人のよく知っている大人と、11人の少年野球のチームメイト。私は端から順に、彫られた全ての名前の前に白い竜胆の花を置いていった。

花を置いては手を合わせ、私は彼らのことを思い出す。


一人はチームのエースピッチャーだった。球威はあるけれどコントロールが悪くて、いつもフォアボールを出していた。それでも、いつでも楽しそうに投げるので私は外野から彼の姿を眺めるのが好きだった。

一人はチームのキャプテンだった。普段は仲がいいのに試合中はずっとコントロールを気にしないエースに怒っていたことを覚えている。いつだって他のみんなのことを気にかけていて、小学生とは思えないぐらいしっかりとした、頼れるキャプテンだった。

内の二人は私と同じ小学校の同級生で、家が近かったこともあり練習後はいつも三人で一緒に帰っていた。コンビニで買い食いをして、夜道を三人、流行りの歌を歌いながら自転車をこいでは笑い合っていた。

一人は私の一つ下の従兄弟で、小学校は違うけれどよく家に遊びにきていて、私にとっては本当の弟のような存在だった。一緒に風呂に入って、夜までテレビゲームをして、おんなじ布団で寝て、私にとって大切な家族だった。

一人はよく私に突っかかってくる奴だった。外野手同士で一緒に守備の練習をしているときも、バッティングの練習の時も、私にちょっかいをかけてきた。私は彼が好きではなかったけれど、練習の時には毎回キャッチボールのペアを組んで、バットを貸し合って、タイムの時には守備位置のこと大声で話して、彼とはいつも近くで野球の話をしていた。

彼らはもうこの町にはいない。私の初恋の女の子も、花農家の双子も、入ったばかりの小学三年生の後輩も、夏の陽炎のように、一瞬吹いた風にかき消されるように、どこかへ行ってしまった。


 そのときの事を私は詳しく覚えてはいない

「ただ、野球をしていたんだ」

高く上がったフライを追いかけて、私は外野の1番深くまで走った。必死にボールを掴もうと伸ばした手のその先で、ボールがポケットに入る感覚とグローブの乾いた音がして、飛び込んだ勢いそのままに、倒れこんで、空を眺めた。

「高く飛んだボールを決して見逃すことのない、青く、すんだ空の下で、私たちは野球をしていた」

視界の隅に陽の光を遮るような影が見えたかと思うと、直後に地上のすぐ近くをすごい勢いで飛行機が通りすぎていった。

私が最後にみたのはその風景。その直後に私は意識を失った。

旅客機と貨物船の絡む大事故だったようで、3日後に病院で目を覚ました時には既にチームメイトの半分以上がいなくなってしまっていた。


海沿いのボールパーク、試合の最後に私がボールを捕ったその直後だった。

「俺達のチームが勝ったんだよな」最後に立った幼少からの親友の名前の前で私は、皆が消えてしまったあの日に掴んだ勝利のことと、日常の中で浮かぶ、もう戻らない彼らと野球をしたその日々の記憶がいったいどれほど遠くにあるのか、その淡さについて考え続けていた。


農家の家で花を買うとき、その場に元気に騒ぐ双子の兄弟がいないこと。

恋人と会うときに、いなくなってしまった彼女の兄である親友の姿を思い出すこと。

食事のために訪れる幼馴染が経営する店で、彼と中学校や高校での思い出話をしている時であったとしても、心のどこかにはいつも、野球をしていた当時の記憶が浮かんでくること。

 その思い出が蘇るたび、時間が過ぎるほどにだんだんと純度と重さを増してゆくような、その思い出に触れる度、溢れるその懐かしさは、一体いつまで消えてくれないのかと、そんなことを考えながら。


私は夕暮れの中、日が暮れるまでの間ずっと、祈るように手を合わせていた。



 その帰り道、空っぽになった籠に道中の酒屋で買った酒を入れ、海沿いの夜道、自転車をこいでゆく。真っ暗な海を横目に街灯の明かりを辿って、私は幼馴染の経営する店へと戻っていった。


店内には店主ともう一人、少年野球の監督をしている小学校の同級生の姿があって、二人で向かい合ってワインを飲んでいる。そこへ持ち込んだ酒と共に私も混じって、三人で思い出話をしながら、私はそのまま、深夜過ぎまでペースも翌日のことも考えず、勢いのままに酒を飲み続けた。


結果、私は見事に酔いつぶれた。


「なあ、俺は自然に笑えているだろ?」カウンターに突っ伏したまま、ぽつりぽつりと話をする「……」二人は黙って私の言葉を聞いていた。

「あの事故で死にたかった奴なんて誰もいないんだ……でも、俺はあのボールパークでもう一度野球をしたいと思うんだよ」酸素が足りない。声を出すために私は大きく息を吸った。

「必死で追いかけて、飛び込んでさ」酔っぱらった頭でうまく出てこない言葉をどうにかつなぎ合わせて

「あの時が、楽しかったんだよ」訴えるようにそんな事を言って「あのときは何も知らずに笑えたんだ」力なく、縋るように横に座る友人の肩を揺すった「なあ、そうだろう?」。


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