オリオンを倒したサソリ──異説『いろは丸事件』
※武 頼庵(藤谷 K介)様主催『24冬企画 冬の星座 (と) の物語企画』参加作品です。
「長次郎君、坂本さんを見なかったか?」
「いや、見てないな。おおかた、またあそこじゃないか?」
長次郎が天井に向けて指差したので、謙吉が玄関から外に出て振り返ってみると、やはり坂本──坂本龍馬は屋根の上に座り、冬の夜風を浴びながら、ぼうっと長崎の夜景を眺めていた。
長崎の街を見下ろす小高い山の中腹──。
土佐脱藩浪人・坂本龍馬を頭とする面々は、ここに一軒の家を借り、活動のための新しい拠点としていた。
──元々、彼らの大半は、幕府の軍艦奉行であった勝麟太郎(海舟)の弟子だった。
勝が神戸に設立した海軍操練所では、龍馬を始め土佐脱藩浪士なども多く学んでいたのだが、その一部が重大な倒幕計画に加担していた(池田屋事件)ことで、わずか1年ほどで閉鎖させられてしまう。
行き場を失った龍馬たちは薩摩藩の支援を受け、それまで学んできた蒸気船に関する技術を活かして自活する組織を設立した。
これが、後の世に『日本最初のカンパニー』だとも言われる『亀山社中』である(後に土佐藩の支援も受け、『海援隊』に改名)。
「坂本さん。何をしてるんですか、こんなところで。
風邪でもひいたら、どうするんです?」
謙吉と長次郎が屋根に登って褞袍を肩にかけてやると、龍馬はそこで寒さに初めて気づいたかのように、ぶるっと身震いをした。
「いや、何。ちくっと考えごとをしちょった。
ちぃとばかり寒い方が、頭が冴えるもんでの」
謙吉たちにも、龍馬の考えごとの中身に察しは付いていた。
亀山社中は薩摩藩から独立した組織ではあるものの、実際にやっているのは薩摩や薩摩に近い藩の下働きのような仕事でしかなかった。
武器や食料の買い付けを代行したり、その藩が所有する船を使って物資を運搬するような仕事がほとんどなのだ。
確かに、蒸気船の運用技術や実績を持っている者は、まだ日ノ本にそう多くはない。
どこかの藩が異国から蒸気船を購入したとしても、技術者を雇うか育成しなければ、動かすことすらできない。しかし、多くの技術者を抱える亀山社中に依頼すれば、すぐにでも運用を開始できるのだ。
そういう意味では、亀山社中の存在感は小さくないと言える。
しかしそんな雇われ仕事では、利益のほとんどが船の持ち主のものになってしまう。
この先、亀山社中を大きな組織にするためには、やはり自前の船を持って独自の商売をしなければならない。
龍馬たちは、いかに早く船を入手するかについて、日々悩み続けていたのだった。
「なぁんだ。私はてっきり夜景見物か、星でも眺めてるのかと思ってましたよ」
いつもの重い話題になるのを避けたかったのか、長次郎がおどけるように言う。
「いやぁ、わしゃぁ近目(近眼)じゃき、星なんぞロクに見えんよ。
まあ、せいぜいあの『鼓星』の形がぼんやりわかるくらいじゃの」
龍馬も心得たように、自嘲気味に返す。その様子を見て、謙吉はふと異国の船乗りから聞いた話を思い出した。
「そう言えば、坂本さん、長次郎君。
異国では『鼓星』のことを『オリオン座』と呼んでいるそうですよ」
「おりおん──?」
「凄く強い狩人の名前です。ほら、あの三ツ星が腰帯に当たるんだそうで──」
謙吉がオリオンに関する神話を語って見せると、龍馬も長次郎も興味深そうに聞き入っていた。特に、オリオンの最後に関するくだりでは、膝を打って大笑いした。
「──ははは、それでオリオンは星座になってもなお、サソリから逃げとるっちゅうことか!」
「そんな小さな虫の毒に豪傑が倒されてしまうとか、面白いですねぇ」
どうやら、気晴らしにはなったようだ。謙吉がほっと胸を撫でおろしていると、龍馬がふいに真顔になってつぶやいた。
「──そうか、『毒』か」
その剣呑な物言いに、長次郎も謙吉も思わず息を呑む。
「坂本さん──?」
「いや、何も誰かに毒を盛ろうっちゅうわけじゃないぞ?
しかしな、わしらのようにちっぽけな存在が正攻法でちまちま稼いでも、自前の船なんぞ夢のまた夢じゃ。
いずれどこかで、乾坤一擲の大博打を打たんといかんがぜよ。
──そして、出来るだけ大きなところから出来るだけ多くの利益を得るには、それこそサソリが毒を使ってオリオンを倒したように、少しは後ろ暗い手も使わにゃならんかもしれん」
そう凄みのある声で語る龍馬の言葉に、謙吉たちは背筋が寒くなるのと同時に、言い様のない不吉な予感を覚えていた──。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
慶応3年(1867年)4月、海援隊が伊予大洲藩から借り受けた蒸気船『いろは丸』で瀬戸内海を航行中に、紀州藩の軍艦『明光丸』と衝突し、沈没する事故が起こった。
賠償交渉の席で、紀州藩は当初、徳川親藩の権威で押し切ろうとしたのだが、龍馬は当時まだあまり知られていなかった『万国公法』(国際法)を根拠に、『回避する義務は明光丸にあり、事故の全責任は紀州藩にある』と激しく糾弾した。
その上で、大量に積んでいた鉄砲や金塊の代金として8万3千両(現在の164億円)もの巨額の賠償を強く求めたのだ。
あまりの要求の大きさと執拗な追及に、紀州藩は交渉から逃げ腰になったが、龍馬は紀州藩を揶揄するような戯れ唄を作って花街に流行らせ、紀州藩が逃げられないような世論を作った。
人々は、とるに足らない小さな浪士集団が、徳川に連なる大藩相手に一歩も退かない戦いをしていることに、大いに喝采を送ったのである。
やがて、困り果てた紀州藩は土佐藩の上層部や薩摩藩に仲裁を頼み込む。
その結果、賠償額を7万両に減額して海援隊に支払うことで決着したのだった。
──これが、『蒸気船同士の衝突』と『海難審判』の日本初事例となった『いろは丸事件』の顛末である。
しかし、まず土佐藩に支払われた賠償金が龍馬の元に届けられる直前、龍馬は京の近江屋にて暗殺者の凶刃に斃れてしまう。
そのため巷では、龍馬暗殺の黒幕が紀州藩で、賠償交渉の報復だったのではないかという説も、まことしやかにささやかれたのである。
なお、余談ではあるが──。
近年の研究では、万国公法に照らし合わせてみても、実はいろは丸の方に回避行動をとる義務があったとする説が有力である。
物証となるいろは丸の船体が沈んでいたことと、紀州藩や奉行所などが万国公法の知識に乏しかったため、龍馬の虚実混じえた交渉術に、まんまと丸め込まれてしまったのかもしれない。
また1980年代になって、事故現場の海底からいろは丸の残骸が発見され、何度か潜水調査が行われた。
多くの積み荷も発見されているが、龍馬が大量に積んでいたと主張した鉄砲や金塊は、なぜか全く見つかっていない。