17話
まだ夜明け前。ベルグラムの空は深い藍色を残しながら、ゆっくりと朝を迎えようとしていた。
翔也は目を覚まし、静かに装備を身につけていく。革の手袋、肩の留め具、そして鍛冶屋から渡された黒鉄の板。
硬くて重いだけの、どこにでもある鉄の塊。
──けれど、それを振るうという“試練”に、翔也は意味を感じていた。
宿の食堂には、早くも湯気の立つ朝食が並んでいた。
焼きたてのパンに、香草を練り込んだ卵焼き。野菜のスープが身体の奥から温めてくれる。
「おはよう、翔也」
リュシエルが笑顔で席を引いてくれた。
「今日は谷に行くんでしょう?スープ、飲んでからにしなよ」
「無茶しないでくださいね」
セラは祈るように手を合わせながら、静かに言った。
「……ちゃんと食えよ」
ミナはぶっきらぼうに言いながら、パンをちぎって翔也の皿に置いた。けれど、その耳はわずかに揺れていた。
言葉は少なくても、気持ちはちゃんと伝わる。
「ありがとう。……すぐ戻るよ」
スープを飲み干し、翔也は立ち上がった。
鳴動の谷までは、街から馬で二刻の道のりだった。
翔也はグリュンの背に揺られながら、まだ霞が残る草原の景色を眺めていた。
「静かだな……」
『試練の前は、いつもこうなる』
グリュンが答える声は、どこか落ち着いていた。
道の脇には岩が増え、次第に地面の色も赤褐色に変わっていく。吹き抜ける風が、遠くから唸るような音を連れてきていた。
「これが……鳴動の谷か」
翔也は思わず息を呑む。
目の前に広がっていたのは、岩の裂け目と断崖に囲まれた風穴の谷。無数の裂け目から吹き上がる風が、地面を震わせているようだった。
谷底に降り立ち、翔也は鞍袋から黒鉄の板を取り出す。
鍛冶屋は「叩いてこい」とだけ言った。これが何の意味を持つか、正直よくわからない。
でも、自分を試しているということは、分かっていた。
「……やるぞ、グリュン」
『ああ。お前の力で、火を起こせ』
風穴の縁に立ち、翔也は両手で鉄を構えた。
振り上げて──一撃。
ガンッ、と重い音とともに、火花がぱっと閃いた。
鉄の板には、浅く削れた跡と焦げ色が残る。
『やったな』
翔也はその場に立ったまま、ゆっくりと息をついた。
翔也が鍛冶屋の工房に戻ると、炉の熱気と金属の匂いが身体を包み込んだ。
赤々と燃える炉の奥で、鍛冶屋が火かき棒を動かしていた。
「戻ったか」
振り返りもせずに言った鍛冶屋は、翔也が差し出した黒鉄の板にちらりと目をやると、黙ってそれを受け取る。
手の中で重さを確かめながら、しばし無言。
「まぁ……悪くはねえな」
炉の光に照らされたその顔には、わずかに満足げな色が浮かんでいた。
工房の中は、無骨で古びていた。
削り跡が残る作業台。何十年と使い込まれた炉。壁には、設計図のような巻物や、煤けた剣の試作品が掛けられていた。
棚の隅には、小さな木彫りの馬の置物。誰が作ったのか、長い時間そこにあることだけが伝わってくる。
「……この工房、昔から?」
翔也が尋ねると、鍛冶屋は火かき棒を止めて少しだけ息をついた。
「ああ。若ぇ頃はな、もうちょっと理想とか夢とか語ってた。……だが、一人、失敗した」
「失敗……?」
「剣を打ってやった若ぇ騎士がいてな。強かった。だが、途中で投げ出した。剣を捨てて逃げちまった」
翔也は言葉を返せなかった。鍛冶屋は炉に薪をくべながら、ぽつりと続ける。
「だからな、俺は“剣に選ばれる器”があるかどうかを見てからじゃないと打たねぇって決めたんだよ。……お前は、まあ、悪くなかった」
鍛冶屋は、棚から真新しい白紙の設計図を取り出し、鉄筆を握った。
「さて……どんな剣にする?」
その問いに、翔也は一瞬、言葉に詰まった。
「……まだ自分に何が合うのか、正直わかりません。でも、逃げたくはない。ちゃんと、自分の手で持てる剣にしたい」
鍛冶屋は少しだけ目を細めた。
「なるほど。芯の形だけで十分だ。あとの細工は……お前が歩いた道が決めてくれる」
鍛冶屋が火を強めながら、ぽつりと呟いた。
「昔はよ、この炉に“炎の精霊”が宿ってたなんて話もあった。……まあ、職人の戯れ言だがな」
翔也はその言葉に目を見張ったが、鍛冶屋はにやりと笑って、鉄槌を構えた。
「精霊だろうが、魂だろうが……こいつは叩いた分だけ、応えてくれる。信じるのは、てめぇの腕と意思だ」
そう言って、火を強める。
「今夜には打ち上げてやる。明日は──お前の剣が、お前を選ぶ日だ」
夜。宿の一室。翔也は窓のそばに座り、包帯を巻いた手を見つめていた。
黒鉄を叩いたときの衝撃が、まだじんわりと残っている。
扉がノックされ、リュシエルが湯気の立つマグを持って入ってきた。
「お疲れさま。……ちょっと熱いけど、飲んで」
「ありがとう」
続いてミナとセラも部屋に入ってくる。
「剣……ちゃんとできるのか?」
「炎の音、さっきまで外まで響いてました」
「うん。あの鍛冶屋、すごい集中してたよ」
「じゃあ明日、完成か。……私も何か頼んでみようかな」
リュシエルがふと呟く。
「盾とか?」
「うん。翔也が試練受けてるの見てたら、私もちゃんと備えなきゃって思ってさ」
ミナは静かに座り、短剣の柄を撫でながら口を開いた。
「……あたしのこれ、まだ全然使いこなせてない。ちょっと……悔しい」
珍しく口にした弱音に、翔也は一瞬だけ目を見張ったが、すぐに穏やかに言葉を返した。
「ミナなら、きっと大丈夫だよ。俺も、まだまだだしな」
セラが、そんな二人を見て微笑んだ。