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列車は海岸線を走ったまま車内アナウンスは次の駅の名を読み上げる。
「次はパールノート。パールノートでございます」
「よし! 降りるぞ!」
意気揚々と席を立ち上がりドア付近までスキップで向かうアイザックは誰がどう見ても浮かれていた。勇者は大きな荷物を背負い込んでライナと共にその後を着いていく。
「うーんん! 来たなー! 海の町パールノート!」
アイザックは駅に降り立ち大きく体を伸ばす。ライナもそれを真似して大きな伸びをした。
「……で、見聞を広めるのに大事な事って何なんですか?」
「ん? 何が?」
脱力して腕をパタンと下ろすとアイザックはとぼけた表情で振り向いた。
「だから! このパールノートで一体何をするんですか!」
「え? だから海の幸を食べるんだよ。それ以外に何があるって言うんだ」
「は?」
勇者は呆気にとられ、開口したまま固まる。アイザックは心配した顔で勇者の頬を軽く数回叩いて「大丈夫か?」と声をかけるが勇者は全く微動だにしない。アイザックはますます顔を曇らせて、勇者の顔を指差しながらライナに視線を向けた。
「どうしたの? これ」
「さぁ? 海鮮お嫌いなんでしょうか?」
「あ。そーいうこと。んじゃ気にする事ないか。他のもん食べりゃ良いだけだしな」
行こう、とアイザックはライナの手を引いて進む。
「おーい! 置いてくぞー!」
駅の出口で振り返り手招くアイザックの姿を見ながら勇者は心の中で前言撤回した。
旅ってそんなに良いもんじゃないのかも知れない。
アイザックの思いつきで急遽予定変更した一向だったが、それに伴うアイゼルへの連絡や日程のずれの調整等は何故かただの護衛である勇者がやらされた。
「はい……はい。そうですね。はい。申し訳ございません。はい。よろしくお願いします」
沢山の人が行き交うパールノートのメインストリートで勇者は一人、テレフォンボックスに入りアイゼルの外交担当官と話していた。その姿は営業の仕事をしている人にしか見えず、パールノートの人々もまさか勇者がこんな町で受話器を耳に当てながらペコペコと頭を下げているなんて思いもしなかった。
「おっそいなぁ。んで終わったの?」
「はぁ……何とか」
「ご迷惑おかけしてすみません勇者様」
テレフォンボックスから少し離れたベンチで座って勇者を待っていた二人は一仕事終えてきた勇者に真逆の態度を取っていたが、二人とも片手にはアイスクリームが握られていた。
「ほら。一仕事終えたんだ。これでそこの店で好きな味のを買って来い」
アイザックは小銭を勇者に渡して顎で向かいにあるアイスクリーム屋を指す。ありがとうございますと頭を下げて店に向かったが、勇者は少し腑に落ちなかった。
パールノートは半島であるため、海と山に挟まれるマダルーとは違い、海に囲まれた形になっている。町の周りがほとんど港なので漁業で生計を立てている者が多く、また名物である海産物を押し出した観光業にも力を入れていて、内陸に入ると観光客相手の様々な商店で賑わっていた。その功労もあり、この町は知る人ぞ知る観光地として名を馳せ、小さくとも活気がある賑やかな町だった。
アイスクリームを食べ終えて、一行は様々な人々が行き交うメインストリートを右へ左へと視線を泳がせながら歩いた。色んな方向から活気のある声が飛び交い、すれ違う人々も笑顔で満ちている。まるで町そのものが『幸せ』を体現しているようだった。
「あ! あれはなんですか!」
ライナが指を指した場所には人だかりが出来ていた。アイザックは手の横を額に当てて背伸びをしながらその方向を見る。
「ああ。あれは大道芸人だな。こうして路上なんかでパフォーマンスをしてそれに感動した人々がお金を投げ入れる。シンプルだけどちょっと変わった商売だな。見てみるか?」
「はい!」
人だかりの隙間を縫って最前列へ進むと、そこにはピエロの格好をした小柄な男が一人で様々な芸をしていた。皿回し、ジャグリング、マジックやパントマイムなんかを色んなアクロバットを交えながら次々と披露していた。そしてそれが成功する度に歓声と拍手。そして小銭やお札が目の前に置かれたブリキの箱に投げ入れられた。
「すごーい! すごいです! ね! 勇者様!」
「まぁ確かに。凄く器用ですね」
大道芸に目を輝かせるライナが勇者は何となく面白くない。大げさに例えるなら最愛の妹に気になる男性が突然表れたような気持ちだった。しかも素性の知れない男に取られたような。
「わー! すごい! ねぇアイザック先生!」
ライナはアイザックの袖をグイと引っ張る。アイザックは察してポケットの中から数枚の小銭を出してライナに渡した。
「すごい! すごーい!」
ライナは拍手をしながら小銭をそっと投げ入れる。勇者はそれを見て腕を組みながらライナに聞こえるようにわざと大きな声で一人言を言った。
「今のは僕でも出来たな。うんうん」
「えー? 本当ですか? 勇者様! 見たい見たい!」
ライナは勇者の言葉に素直に反応する。ようやく視線がピエロから自分に戻り、満足した勇者だったが、視線はライナだけではなく周りの民衆、そしてピエロからも向けられていた。
「あ……あれ?」
数秒前の賑わいがどこへやら、すっかり静寂に包まれた大道芸の場でただの観覧者である勇者に視線が集中している。アイザックはその光景に今にも吹き出しそうだった。
「おーっとこれはこれは。挑戦者が現れたようですね! 受けて立ちましょう! どうぞこちらに!」
ピエロが膝を曲げて手を広げる。途端に民衆が熱気を取り戻し、戸惑う勇者の背中を誰かが押して二、三歩よろけながら前へ出るとさらに歓声が上がった。
「どうぞこちらに」
ピエロが自身の隣へ勇者を招く。勇者にはもう逃げ場もなく、その指示に従う他なかった。並んで立つとやはりピエロの背は小さい。恐らくライナと同じくらいの身長だろう。それに身も細く、どこにそんなパワーを秘めているのか不思議なくらいだった。
「頑張れー!」
歓声の波を抜けてライナの声援が届いて来る。目の前には手でメガホンを作り必死に声援を送るライナと腹を抱えて笑っているアイザックが並んでいた。
「何で勝負します? 僕はどれでもいいですよ?」
ピエロは路上に並べられたアイテムを指す。正直、どれでも良いと言われても勇者は触った事すらないものばかりだった。しかしその中で唯一、馴染みのあるアイテムを見つける。
「これがいいかな」
勇者が手に取ったのは腰に差すロードクリフよりも少し小さい剣だった。ピエロはそれを見て深く頷く。
「いいでしょう。それではここにあるオレンジを空に投げて空中で何分割出来るかと言う勝負はどうですか?」
「いいね。面白そうだ」
勝負の方法が決まり、周りはひと際盛り上がりを見せた。
勇者は先攻をピエロに譲って、その技量を伺う。ピエロは剣を片手に構え、少し身をかがめた。数秒間。観客が息を飲む。
「はぁ!」
オレンジを空高く投げ、剣を両手で構える。そしてオレンジが落下し始めた瞬間にまるで足がバネで出来ているような見事な跳躍力を見せ剣を縦横無尽に振った。
剣さばきもなかなかのものだった。オレンジは細かくなって地面に落ちる。その数十二個。決して切れ味が良いというわけではない剣でここまで出来ると言うのはやはり日々の鍛錬によるものだろう。
「素晴らしい。見事な剣さばきだよ」
観客とともに勇者も素直に拍手を送る。ピエロはメイクで表情は読めないが、四方に頭を下げると勇者に剣を差し出した。
「まだ勝負は終わってません。その拍手は僕が勝ってから頂きましょう」
「それもそうだね」
勇者はニッコリ笑って剣を受け取りオレンジを片手に乗せて三歩前に出た。
「もし、良かったらそちらの腰に下げている剣でやってもいいですよ。扱い慣れているでしょうし」
ピエロは余裕の発言をして更に観客を沸かせるが、勇者はそれを断った。
「いや、それには及ばないよ。これで十分だ」
勇者は構えを取る。腰に下げている剣ロードクリフはその姿を見れば誰もが知っている伝説の剣。数千年もの間ずっとガーランド王国の中心に刺さり続けていたこの剣は勇者よりもずっと有名なのは明らかで、この世界に生まれた男なら誰だって一度は抜く事を試した事がある、言わば憧れの象徴だった。そんなものをここで取り出してしまえば自分が勇者である事もライナが姫である事もバレてしまい、ここでの行動がしづらくなるかも知れない。そう懸念しての行動だった。
「はぁ!」
オレンジを高く投げて、ほぼ同時に飛び上がる。その跳躍力はさっきのピエロの倍以上だった。
「おー!」
歓声が上がる中、オレンジが空中で上昇を終えて落下をし始める一瞬の停止時間に目にも止まらぬ早さで剣を走らせると、そのままオレンジを掴んで地上に下り立った。
「一体、何をやってるんですか? 全く切れていないじゃないですか」
ピエロが指差す勇者の手にはオレンジがそのままの状態で乗っている。勇者は剣の柄頭でオレンジをコツンと軽く叩くと瞬く間にオレンジは手の平で細かく砕けてしまった。その細かさはもう数など数える意味がない程でピエロの負けは明らかだった。
「うおー! 飛び入りの勝ちだー!」
「ははは。まいったな」
顔を赤くして周りにお辞儀をすると勇者はピエロに剣を返した。
「良い剣さばきだった。すごいな君は」
「全く。あんなの見せられた後じゃ何言われても嫌味にしか聞こえないよ。まいった。僕の負けだ」
ピエロは両手を上げてやれやれと首を振った。そして剣を受け取ると器用にくるくる回して鞘に戻す。
「みなさん! ご観覧ありがとうございました! 今日は僕の負けです! ですが次は僕が勝ってみせますよ! では今日の最後に素晴らしいものを見せてくれた彼にもう一度盛大な拍手を!」
ピエロの言葉によって大きな拍手の渦が勇者に向けられる。同時にブリキの箱にはどんどんお金が貯まっていった。
転んでもただでは起きない。根っからの商売人ってやつか。
勇者はピエロを見て笑う。振り向いたピエロも今度ははっきりと笑っていたのがわかった。
「すごいですすごいです! 勇者様!」
大道芸の場を後にして、歩き始めてもライナの興奮は未だ冷めない。
「あの、ライナ姫。あんまりそう勇者を連呼されると……」
「君だってしっかりと姫って言っているじゃないか」
「う……」
アイザックは飛び跳ねるように歩くライナの頭を撫でている。と言うより何処かへ飛んでいってしまわぬように押さえているような感じだった。
「しかし流石だったな。やはりロードクリフの力だけで勝ったわけではないんだな」
やるじゃないか少年、とアイザックがライナから手を離し、肩を軽く小突く。
「いえ。そんな。確かに剣技は得意でしたし、勇者の名に恥じぬように死にものぐるいで鍛錬を重ねましたけどね。今ではすっかり鈍ってしまいました」
「あれで鈍っているとはねぇ。うん。少し見直したよ元勇者君」
「それでもやっぱり元は付くんですね……」
「そう言うな。意地悪で言っている訳ではないよ」
アイザックは口の端を少し上げてウィンクした。勇者の心臓が一瞬高鳴る。
「なんだ? そんな目を見開いて。どうした?」
「あ、いえ……」
勇者は顔をそらして高鳴る心臓を抑えようと心の中で羊の数を数えた。自分でも認めたくない胸の高鳴りのせいで頭は完全にパニック状態になり、焦った勇者はそれが眠気を誘う時にする行動だと気付かずに二百まで数えた。そこでようやく心臓が落ち着きを取り戻すと安堵の溜め息をついてようやく気づき、一人で勝手に赤面した。
まだ日も傾いていないが、早めに宿を決めないとこの観光地ではどこも埋まってしまい兼ねない。だがアイザックは既に何処に泊まるかを決めているらしく、道案内をしながら港の方へ進んでいった。
「アイザック先生は来た事あるんですか?」
道中、勇者が尋ねるとアイザックは首を縦に振った。
「あぁ。小さい頃に一度だけね。父に連れてきてもらった事がある。さっき列車で見ていた書物があっただろう? あれは父の手記なんだ。旅の参考にしようと思ってね。内緒で持ってきたんだ」
「では以前に泊まったとこにもう一度泊まろうと?」
「そう言う事。この港側は観光街とは離れているから意外に穴場でね。漁師が経営している民宿というのが多々あるんだが、そこで出される魚料理がもう絶品なんだよ。なにせ、その日に釣れたものを出すからね。だからメニューは漁師が帰ってくるまでわからない。でもそこが楽しみなんだ」
アイザックは話しながら体を揺らして鼻歌を歌い始めた。それほどまでに楽しみになるなんて一体どれだけ美味しいのだろう。勇者はごくりと唾を飲み込んだ。
港には船はなく、みんな漁に出てしまっていた。もちろん観光客もここにはあまり居ないので、さっきのメインストリートの賑わいが嘘のようだったが、潮騒の音とウミネコの鳴き声が響く中で海風に吹かれながら歩く道はこの静けさがちょうど良かった。
「着いた。ここだ」
アイザックが、ごめんください、と引き戸を開けて中へと入っていく。宿、と言うより二階建ての大きな家のような外観は木造で、かなり年季が入っていた。唯一、その民宿という判断が出来るであろう材料の看板は、全体的に錆が浮いてしまいまるで読めない。
「おーい! 今晩の宿が決まったぞー! ちょうど一部屋空いてたってさ! ラッキーだたな!」
アイザックが扉から戻ってきた。
「一部屋空いてたって一体、全体で何部屋あるんですか?」
「ん? 二部屋」
この大きさではそれくらいが妥当であろう。しかし、勇者は二部屋しかない宿なんて聞いた事がない。
「一体、民宿ってなんなんですか?」
「そんな事も知らないのか」
アイザックのこの言葉はもう何回目だろうか。それでも慣れる事はなく、こうして呆れられる度に勇者はやっぱり恥ずかしくなった。
「言ってしまえば民家を改築して間借り出来るようにした小さな宿だな。部屋数も少ないし、娯楽場も大浴場もない。でも、普通の宿にはない醍醐味があるんだよ」
醍醐味。勇者はまたもや登場したこの言葉に納得してしまう。アイザックの醍醐味は今の所、勇者にとって何らかの感動を与えている事は間違いない。この小さな宿に一体どんな醍醐味が待っているのか想像もつかないが、それは今晩泊まれば分かる事だろう。考えるより体で感じた方がわかる。
勇者は着実にアイザックの教えを身につけていた。
アイザックの後に続き、早速引き戸から玄関に入ると、まず飛び込んできたのは家の玄関と宿の中間のような内装。家にしては広く、宿にしては狭い、今までにないえらく中途半端な広さだった。
「あらあらこちらが?」
玄関にいた女性もまた年配ではなく決して若くもない女性。宿である以上は仲居のような存在なのだろう。そしてどうやら勇者と姫の事もアイザックから聞いているらしく、勇者とライナに深々と頭を下げて、握手を求めた。
「ようこそお姫様。こん狭い所ですがどうぞおくつろぎください。そして勇者様。世界を救って下さって本当にありがとうございました」
旅に出てからの初めての手厚い歓迎。外交先ならまだしも、アイザックの思いつきにより途中で寄った町でここまで歓迎されてしまうと勇者も流石にライナも恐縮してしまう。
「いいんですか? 話してしまって」
部屋に案内され、三人になった所で勇者はようやく一息ついた。部屋の中は一応、宿らしい内装をしていたが、それでもそこかしこに民家らしさが出てしまっている不思議な空間だった。
「いいんだよ。こういう場では逆にその方がくつろげる。それにあの人はむやみやたらと人に話したりする人ではないよ」
畳に胡座をかいてアイザックは、まぁ座れ、と勇者を諭す。
アイザックが初めて来た時もあの女性がおり、そしてしっかり覚えていてくれた。アイザック自身も会った瞬間に思い出が溢れ出てきてしばらく昔話を懐かしんだ後、今回の旅の事を説明して本当は予約のみで当日宿泊はやっていないところを特別に入れてもらったのだ。と勇者はそこまで聞いてやっと納得した。
「本当に頑な男だねぇ。もっと柔軟な考えを持っていればこれくらい容易に想像つくと思うんだが」
アイザックは大げさに溜め息をついた。
「全くもう。すいませんでしたね」
アイザックの嫌味も何回目か。何か進言する度に言われている気がする勇者は、すくっと立ち上がり、部屋を出た。
「少し、近くを散歩がてら見てきます」
「おーう。夕飯は十八時だからそれまでに帰ってこいよ。私とライナはお茶でも飲んでのんびりするとしよう」
「はい! アイザック先生!」
ドサッと畳に大の字に寝そべる二人。お茶はどうしたお茶は。と心で呟きながら、テーブルに備えてあるポットとお茶菓子を眺めて帰って来る頃には自分の分が恐らくないであろう事を悟った。
玄関でさっきの女性に外出すると伝えると、ここでも夕飯の時間を教えられる。民宿とは時間に厳しいものなのだろうか。と疑問を持ちながら勇者はそれまでに戻って来る事を約束して外へ出た。
「さて。どちらに行こうかな」
左右に首を振る。右はさっきのメインストリート方面に繋がっている言わば来た道。左は未開だが何もありそうもない。延々と海沿いに道が続いているだけだった。
「……左だな」
振り回されてばかりの旅にいささか疲れもあって久しぶりに一人になりたかった。
延々続く道は潮風が気持ち良く、勇者は何も考えずただブラブラと歩き続けた。波の音は規則正しく無限に続いて、時折トンビとウミネコの鳴き声が空から届けられた。
「んんー! ひっさびさだなぁ! この感じ!」
途中の堤防に腰を下ろして、海に向けた体をぐーっと思いっきり伸ばした。長い間、一人で移動していた身だったが今はあの頃と感覚が違う。海の見え方も空の見え方も鳥の鳴き声の聞こえ方も、そして心の位置も。
鮮やかな青に吸い込まれそうになりながら深呼吸をする。体一杯に新鮮な空気が巡る感じがした。
沖の方に小さな島が見える。あれは何て言う名前の島なのだろうか。頭の中はそんな事を考えていられる。これは幸せというものなのかもしれないと勇者は感じていた。
「ん?」
のんびり波の形を見てぼーっとしていると、腰に下げた剣を引っ張られる感触がした。
「ん? あれ?」
振り返り、視線を上った堤防の下に移すと見覚えのない少年が目一杯手を伸ばして鞘の先端をつまんでは掴み損ねていた。歳は十歳前後だろうか、短髪で半袖半ズボンと言った子どもは風の子の代表みたいな男の子はそれでもずっと鞘の先に手を伸ばす。
「あの……どうしたの?」
勇者の問いかけに少年はハッと驚く。剣に夢中になって勇者が振り向いている事にも気付いていなかった。
「えっと……君はここら辺の子かな?」
少年は手を伸ばし驚いた顔のまま固まっている。勇者はいよいよ困ってしまった。今まで生きてきた人生で子どもの相手をした事なんか片手で数えられるくらいしかない。しかもよりによって知らない町で、ましてや知らない子どもとこうして相対するのは初めてだった。
「えっと……あのぅ……」
勇者はポリポリと頬を掻く。ゲイルの癖が移ってしまったようだ。
「あ、あのさ!」
急に少年が大きな声を出し、今度は勇者がビクッと固まる。
「あ! あのさ……あんた勇者なんだろ?」
手を下し、顔だけ見上げて少年は真っ直ぐに勇者を見つめた。
どうしたもんだろうか。勇者は悩む。どこでその情報を得たのか、何より認めるべきなのか、ごまかすべきなのか、それとも一目散にこの場を離れるべきなのか。
『もっと柔軟に考えれば』
高速に回転した頭が導き出した答えはついさっきアイザックに言われた言葉だった。
頑に秘密を通してきてあんな事を言われたのだから、ここは一つ自らその禁を破ってみようではないか。それに子ども相手なら後でどうとでもごまかせる。
勇者の考えはまとまった。
「うん。その通り。僕は勇者だ」
その言葉に少年の瞳は見る見るうちに輝きだす。
「ほんと! ほんとに!」
「あぁ。本当さ。と言うかどこで知ったんだい?」
眩しい程に目を輝かせて自分を見つめる少年に勇者は手を伸ばした。少年が両手でその手を掴むとぐいっと上に引き寄せて堤防の上に少年を座らせる。
「すっげー! すっげー!」
堤防にまたがり真っ直ぐ横に体を向けて勇者をまるで伝説の生き物のように少年は眺め続けた。
「あの……質問に答えてくれる?」
アーとウミネコが鳴く。お前じゃない。と空を睨む勇者の腕を掴んで少年は口を開いた。
「すっげー! 本物だ! オイラ今日勇者様が泊まる民宿に住んでるんだよ! そこで母ちゃんが勇者様に勇者様って言ってたの聞いちゃってさ!」
「あ、あぁ。そう言う事……」
つまりは少年は今日の宿の息子で、あの仲居が母親でたまたま自分がお礼を言われている所を見かけただけだった。勇者はホッとした。
「それで後を追って来たの?」
「あ! あ……うん……ごめんなさい」
少年は手を離して俯いた。勇者は咎めるつもりで言ったつもりではなかったので慌てた。子供のこういう感情の起伏の読めない所が苦手だった。
「いやいや! 全然良いんだよ! 別に嫌な気持ちになっていないし。気にしないで?」
それより、と勇者は鞘からロードクリフを抜き出して少年の前に掲げた。
「うわぁー! 本物だ! オイラ、レプリカしか見た事ないよ!」
少年は直ぐに元気を取り戻す。さっきからこの剣に触っていた所を見ると、きっとこの少年はロードクリフが見たかったのだろうと勇者は推測した。そしてそれは大当たりだったようだ。
「レプリカとは違うかい?」
少年は首を縦にブンブンと大きく振る。
「全然違うよ! 迫力が違う! オイラずっと勇者様に憧れてて……いつか勇者になるのが夢なんだ!」
少年の言葉に勇者は幼き日の自分を重ねた。
勇者がこのロードクリフを手に取ったのは丁度この少年と同じくらいの年頃。そして彼もまた伝説として語り継がれる数多の勇者に憧れを抱いていた。しかし、まさか現実に自分が勇者になれるとはこのロードクリフをガーランドの台座から抜くまでは思いもしなかった。なりたいとは思っていても勇者はやはり現実とは離れた存在で、剣が刺さった台座も長年、ただの観光名所として扱われていたのだから。
でも世界中の少年の夢はいつだってそこに向けられていた。
いつか自分が。
少年の野望は必ずそこを通過する。そこから様々な方向へ向かっていくのだ。それは最初の勇者が誕生してからずっと変わらない。
「もしかしたらなれるかもね。時が来たらきっとこの剣は次の世代に受け継がれるはずだから。それは君かも知れない」
「ホントに?」
「あぁ。本当だよ。今はまだ僕のものだけどね」
勇者はロードクリフを堤防の上に置く。
「持ってごらん?」
いいの? と目を輝かす少年に頷く。少年は恐る恐る柄を握った。
「う! うぅー! あ、あれ? うぅー!」
剣は一向に持ち上がらない。勇者は笑ってそれを見ていた。
「ダメだ。重たすぎて持ち上がらないよ……」
全力を出し切っても持ち上がらないロードクリフから手を離した少年は、後ろ手を着きながら息を切らした。
「そうかい?」
勇者は人差し指と親指でひょいとつまんで持ち上げる。
「えー? なんで? そんなに力持ちなの?」
少年の言葉に首を横に振った。
「これはその名の通り選ばれし者しか持てないんだ。だから僕にはすごく軽く感じる。他の人には絶対に持ち上がらないみたいなんだ」
勇者は剣を鞘に戻して空を見上げた。
「まぁ今となってはそれ以外の能力は失われてしまったけどね」
「どういう事?」
「他の人には持ち上がらないだけのただの剣って事さ」
少年に向き直り笑う。少年は少し残念そうだった。きっとこのロードクリフの能力も見てみたかったのだろう。しかし、悪魔がいない今となってはもうそれは叶わない。またいつか悪魔が出て来た時にはきっと違う勇者がこのロードクリフを手に持っているはずだ。
「さぁ。そろそろ民宿に戻ろう。夕飯に遅れたら大変だ」
勇者は堤防から飛び降りて、少年に手を伸ばす。少年は首を振ってそこからジャンプして飛び降りた。
「へへへ!」
「……危ないなぁもう」
隣で歩く少年に何となく歩幅を合わせて歩く。何だか弟が出来たみたいだった。勇者は兄弟がいなかったので新鮮な気持ちだった。
「ねぇ勇者様?」
「ん? なんだい」
「ロードクリフの力がなくてもやっぱり勇者様は強いんだよね?」
少年は隣で歩く勇者の顔を覗き込む。その顔は海に潜ろうとしている夕焼けに照らされて赤く染まっていた。
「うーん。そうだね。まだ世界一だと嬉しいんだけどなぁ」
「そっか! やっぱり強いんだね!」
「ははは! そうだな! だから勇者になる為にもトレーニングはしっかりしとけよ!」
「わかってるよ! ダッシュ!」
急に始まった競争に置いていかれる勇者。この突発的に始まる数々の競技についていけないのも子供が苦手な理由の一つだったが、少し離れた所で振り返り笑う少年を勇者は全力で追いかけた。
伸びた長い影二つはまるで兄弟のもののようだった。
「あら。お帰りなさい。丁度夕飯の仕度ができた所でしたので良かった。あらケインあなたどこに行ってたの?」
民宿に戻ると仲居が調理場から顔を出し、出迎えてくれた。そして勇者の隣に立っている息子を発見すると、配膳手伝って、と手招きして中に戻る。
「んじゃ。また後で!」
ケインは勇者に手を挙げて、そのまま調理場の中へ入っていった。また後でとは、またえらく気に入られてしまったみたいだなと勇者はプッと吹き出した。仕方がない、また後で相手をしてやるか、と上機嫌で部屋に居るアイザックとライナを呼びに戻る。
「ただいまー。ってうわぁ……」
そこには畳でスヤスヤと眠ってしまっている二人の姿が。恐らく仲居が気を利かせてくれたのであろう、二人ともタオルケットが掛けられている。
「起きてくださーい。夕飯だそうですよー」
先にアイザックの肩を揺する。アイザックは目を擦りながらむくっと体を起こし窓の外に視線を投げた。
「結構……寝てしまっていたみたいだな」
両手を天井に伸ばしながら欠伸をしてアイザックはようやく目を覚ます。
「ホントに……無防備すぎですよ」
「おや? 姫の元を離れていた護衛がそれを言うかね?」
「んぐ!」
アイザックの口ぶりは完璧な目覚めを確信させた。確かにアイザックに任せておけば大丈夫だろうと油断とも言える慢心があった事は否定出来ない。痛い所を疲れた勇者は何も言えなかった。
「ほらほら。早くそこのお姫様を深い眠りから覚ましてやれ」
タオルケットを勇者に投げ被せてアイザックは先に部屋を出た。
「ちょっと! どこいくんですか!」
勇者はタオルケットを被せられたまま半分だけ覗いている顔を振り向かせる。
「食事の前に顔を洗うだけだよ。先に行ってるからちゃんとライナ連れて来いよ」
襖がパタンと閉められた。全く勝手なんだから、とさっきまでしていた自分の行動を棚に上げてグチグチと文句を呟きながらライナの枕元に立つ。
小さな寝息を立てているライナはまるで人形のようだった。歪みが鳴く整いすぎている顔立ちも繊細な髪の毛も白く細い腕も、起きているときの行動が無ければそれは全て作り物のように感じてしまう程に現実味がない。
「ライナ姫。起きて下さい。夕飯だそうです」
「むにゃ? 夕飯?」
スッと体を起こし寝ぼけ眼をあちらこちらに向けながら、夕飯夕飯どこ、と呪文のように唱えている姿は紛れもなく現実だった。
「ライナ姫。しっかりして下さい。ここに夕飯はありません。一階に下りて食堂で食べるんですよ」
「へ? しょうなんですきゃ?」
「そうなんです。さぁとにかく顔を洗いに行きましょう」
ライナは寝起きが悪く、いつも完全に目覚めるまでに三十分はかかっていた。しかし、ここは普段の城ではなくパールノートの民宿なので誰も待ってはくれない。しかもここは夕飯の時簡に厳しいのだから遅れるなんて出来やしなかった。
勇者はライナの腕を肩に回し、持ち上げてほとんど引きずる形でズルズルと歩いて部屋を出る。お風呂場の脱衣場に洗面所があったはずだから一階までこの状態で降りるしかない。抱っこやおんぶをしても良いのだが、それをしてしまったらライナは確実にまた眠りに落ちてしまう。
「姫。階段下りますよ? 姫? 下りますよ! いいですね?」
何度も確認するが返事は「ひゃい」しか言わない。今の状態では何を質問してもこの答えしか返って来ないだろう。諦めた勇者はライナの腰を抱きかかえ少し浮かしながら階段を下りた。ライナの足先が段をかすめながらスルットンと音を立てる。完全に持ち上げないのが小さな抵抗だった。
階段を下りてまたライナの足を床に着けて洗面所へと歩く。風呂場のドアの前に立ち、ライナを片手で抱えてドアノブに手を伸ばすと勇者が掴む前にガチャッと回りドアが開いた。
「あ。すいません。……ん? あれ? さっきのお兄さんじゃん」
ドアが開いた目の前には湯上がりの女の子が立っていた。歳はライナと同じぐらいだろうか。ショートカットに切られた黒髪が少年のようだったが薄手のシャツに短パン姿だったせいもあって体つきで女性だと言う事がわかった。
「え? えーっと……」
ドアの前に立っていたのはアイザックではなく見知らぬ女の子だった事に動揺する勇者。そんな勇者をよそにその子はタオルで頭を拭きながら「なんでここにいんの?」と更に質問を重ねる。
「え? えーっと……」
また同じ相槌を打ってしまう。勇者は必死に女の子の事を思い出そうとしていた。くりっとした目つきに小柄な体型。適度にしまった健康的な体つきはスポーツでもやっているのだろうか。さて、そんな女の子とさっきと言う程短い時間内に知り合っただろうか。
勇者はどう考えてもケインの事しか思い浮かばない。思い出した振りをしてそのまま話を進めても結局、後になってボロが出てしまう。しかし、どうしても思い出せなかった。
「あ! そうか! お風呂入ってメイク落としてるんだからわからないよね」
タオルを首にかけてポンと手の平を叩く。女の子は短パンの裾を少し引っ張って足を交差して膝を曲げた。
「さっきはどうも。よくも商売の邪魔をしてくれたね」
商売の邪魔。その言葉に勇者は「さっき」の出来事を思い出す。
「もしかして……あのピエロ?」
「えぇ。そうですよ? ビックリした?」
女の子はあどけない笑みを見せる。その顔にピエロのメイクを重ねて見ると確かにさっきのピエロだった。
「お……女の子だったの!」
「え! そこ!? メイクの下に隠れたこの美貌じゃなくて!?」
女の子はまぁ可愛いと言えば可愛らしいのだが、そんな事より勝手に男と決め込んでいたので女の子だったというショックの方が大きい。
「まーったく。いいよもう。っていうか今日の宿泊は私だけだったはずなんだけどな?」
「あ、あぁ。丁度君と出会った後にここへ来て止めてもらう事になったんだ。連れのツテで」
「それってさっきここで顔を洗ってた美人さんの事かな?」
「あぁそうそう。前にも泊まった事があるらしくて。その関係で」
ふーん、と女の子はまた髪を拭く。何かを考えているようだ。
「まいっか。って事は今日は同じ宿泊客だね。私はニア。よろしくね。ってもう夕飯の時間じゃん! んじゃ先行ってるねー!」
勇者が手を差し出そうとするとニアはタオルを掴んで走り去った。
「……そんなに時間にうるさいのか?」
「夕飯……どこ?」
民宿に対して増々深まる疑問。抱えた寝ぼけライナを目覚めさせて食堂に向かわないと恐ろしい事になる気がして、勇者は必死にライナを洗面台の前に立たせて顔を洗わせた。いや、洗った。
「うわー! おいしそー!」
いくら顔を洗っても三分の一は寝たままだったライナは食堂に入った瞬間、目に飛び込んできた海鮮料理に完全に目を覚まし、物凄い早さでアイザックの隣に座った。
勇者はその姿を見て、初めからここに連れてくれば良かったと先ほどの苦労を悔やみながらライナの隣に胡座をかいた。
食堂は名前の割には広くなく、和室に大きなテーブルがある広い居間という感じだった。何よりニアはもちろん、ケインや仲居、そして恐らくここの亭主であろう男も食卓に並んでいる事が驚きだった。
「あの……アイザック先生」
「ん? 何だい?」
耳打ちする勇者にアイザックはライナの前まで顔を寄せる。
「もしかして一緒に食事するんですか?」
「そうだけど?」
「な、なんで?」
耳を向けていたアイザックが勇者に目を向けてニヤリと笑う。
「醍醐味。だよ」
まるで答えになっていないが、勇者は耳打ちを止めて体を戻した。醍醐味。答えにならないのに説得力のある言葉。勇者はケインとその家族、ニアに視線を送った後、テーブルを彩る海鮮料理に目を移す。
魚や、貝を始め様々な海産物が刺身や、煮物、焼き物、汁物として並ぶ。
肉は一切無いが、旬の野菜も添えられていて彩りは華やかだった。
そして目を見張るのはその量。いくらその日に取れた海産物とは言え、こうも惜しみなく提供してくれると果たして採算は取れているのかと心配になる。この家は一体、漁業と民宿のどちらが本業なのだろうか。
「さぁ。それでは食事にしましょう!」
勇者の心配なんか知らずに仲居が両手を揃える。テーブルを囲んでみんなで一斉に声を上げた。
「いただきます!」
お茶碗いっぱいに盛られた白米を手に持ち、勇者の口中は唾液に支配される。しかし、彼は魚に詳しくはないのでテーブルに並べられた料理のどれから箸を付けるべきか迷った。
「うーん! これおいしー!」
横でニアが箸を付けた料理は茶色い鰻の蒲焼きのようなもの。どことなく違う気がするのだが勇者は思いきってそこから箸をつけた。
茶色いタレがよく絡んで焼き色が付いた身は厚く、香ばしいにおいが鼻に飛んで来る。それを一切れ、白米に一度つけてから口に放り込む。
「これは!」
勇者はそのままタレが付いた米を口にかき込み極上のハーモニーに酔いしれる。
「どうですか? 穴子は?」
鰻のように感じつつも何か違う味わい。仲居の質問により勇者が食べたのは穴子だと知る。
「お、美味しいです! とっても!」
もう一度。極上のハーモニーを味わう。角煮を食べた時と同じ戦法だが口に広がる天国は全く別物だった。
何度も穴子を口へ運ぶ勇者を見て仲居が料理の説明をしてくれる。
ここらで穫れる穴子は身が太く、そして今が旬のため脂がたっぷり乗っている。それを秘伝の蒲焼きのタレに三度付けては焼きを繰り返して味を染み込ませるのと同時に焼き色をつけて香ばしさを増す。炭火で炙るので余計な脂は落としても旨味はギュッと濃縮されるので口に入れた瞬間にそれが解放されて濃厚な味わいを出すのだそう。
勇者はその説明を聞いて更に穴子の蒲焼きの旨味が増した気がした。
「さぁさぁ。全部穫れたてだ! カンパチもいいのが穫れたんだ!」
半袖を捲った恐らくケインの父であろう男が大皿に盛られた刺身を指差す。カンパチとはまた味の想像がつきにくかったが白身魚の刺身は勇者の好物だった。
「これだよこれ!」
勇者が箸を付ける前にアイザックが一切れサッと取って噛み締める。その横には冷酒が置かれていた。それを一口クイッと飲むと、くぅー! と唸りを上げるとまたカンパチに手を伸ばした。刺身には冷酒でサッパリとが身上らしい。
勇者も負けじとカンパチを一切れ取り、小皿に用意されたわさび醤油にチョンとつけて口へ運ぶ。
何だ。この美味さは。
勇者は今まで食べた白身魚との違いを口から信号で伝えられる。淡白な白身魚の刺身なのに脂の乗り方が全然違う。ツンと少々鼻に聞くわさびがその旨味を切ってくれるので全くしつこくない。もう一度、もう一度。冷えた刺身と熱々のご飯の温度がちょうど良く合わさってもう丼にしてしまいたいくらいの存在感だった。
「どうだ? 脂が乗って美味いだろ? 旬に勝るものは無いからな!」
ガハハと豪快に笑いながら一心不乱に刺身に手を伸ばす宿泊客を見て男はようやく自身も刺身に手を伸ばした。
勇者はご飯のおかわりを仲居にお願いする。量を聞かれて、もちろん大盛りを頼んだ。
ご飯をよそってもらっている間に汁物を口に含む。みそ汁かと思っていたが違った。
「なにこれ? すごい!」
みそ汁のようにホッとするのに、味わいはメインに匹敵する程に海の出汁が効いている。中には人参を初め数種類の野菜と大きな骨と崩れた身が入っている。
「それは、あら汁というんですよ」
仲居が大盛りのご飯を差し出す。
「あら汁ですか?」
勇者はズズッと啜って口中に広がる海の出汁にまた酔いしれた。
仲居が言うには、あら汁とは魚の料理に使われる部分の残りを使って出汁を取った汁物なんだそうで漁師の間でもかなりポピュラーなものらしい。今回は穫れたカンパチのアラを使用してある。味付けは地域によって様々だが、ここパールノートでは今、勇者が飲んでいる味噌仕立てが主流らしい。
「その骨に付いている身がまた美味いんだよ」
冷酒が入ったコップを片手にアイザックが勇者の椀を覗き込み、ほらここ、と指差した。勇者はその部分を口に入れて納得する。柔らかくほぐれていく身は溶けてしまいそうなくらいで同じカンパチなのに刺身とは全く違う旨味が出ている。一つの魚でこうも違うなんて信じられなかった。
「美味いだろう? でもな? 私の一番のオススメはあれだ」
アイザックが視線を向けた先には光り物の刺身があった。サバである。
これは魚に疎い勇者でも流石にわかった。勇者はサバも好きだったからだ。
「趣味が合いますねアイザック先生。僕もシメサバ大好物なんですよ!」
サバを見て喜ぶ勇者にアイザックはニヤッと笑う。
「そうかそうか! シメサバ好きか! じゃあ食ってみろ! ここのはまるで別物だ!」
アイザックに言われなくても、勇者はもうここの食事が今まで食べた海鮮とは全くの別物だと認識していた。旬に勝るもの無し。サバもまた今が旬の時期だ。これは期待せずにはいられない。
勇者はサバを口にした。
「んん!」
違う。これはシメサバなんかじゃない。肉厚で鮮度も抜群、大トロに匹敵するくらいに脂が乗った芳醇な味わいはもちろん別次元だ。だが、そんな事より、このサバ、酢でしめられていない。
「う、うまーー!」
何ですかこれ! と騒ぎ立てる勇者を食卓に居る全員が笑う。
「これが穫れたてのなせる技よ! しめてないサバの刺身なんてそこいらじゃ絶対食えないからなぁ!」
俺が釣ってきたんだい! と自分の腕をパシンと叩いた男性。アイザックがそれに続く。
「ここの名物なんだよ。サバの刺身。これは本当に鮮度が大事でね。逃したら最後。もう食べられない。シビアな料理なんだ」
なるほど。だからあんなに時間を気にしていたのか。と勇者はサバを食べ続けながら理解する。海産は鮮度が命。その中でもサバは直ぐに鮮度が落ちてしまうため生で食べるには酢でしめておかないといけない。よって釣った人にしか味わえないと言われても過言ではない料理をここは提供してくれるのだ。タイムイズマネーならずタイムイズテイストと言う事だ。
「おいしいー! おいしいです!」
ライナは目にも映らぬ早さで箸を動かし、涙を流した。それを見て勇者も周りの人達も吹き出してしまう。
団欒。
こんな言葉が似合う食卓だった。温かい。勇者は父と母を思い出す。料理とは味も大事だが会話も同じくらいに大事だ。楽しく美味しく食べられる幸せをこの民宿は味わわせてくれる。ここでは家族の一員になれるのだ。さっき再会したばかりのニアと顔を合わせて笑っているのも不思議ではない。今、ここにいるみんなは家族なのだから。
アイザックの醍醐味は今回もまた勇者に感動を与えた。絶品な料理もさることながらこの温かさは普通の宿では確かに味わえない。民宿、素晴らしい。
「さぁ。シメといきますか」
男はテーブルの中心に七輪を置いた。中では炭が真っ赤になりながらパチパチと音を立てている。
「ケイン。いいぞ」
ケインは手に持っていたものを七輪の上に乗せる。その姿を見た途端に宿泊客全員で簡単の声を上げた。
殻が付いたまま七輪の上で踊るアワビ。民宿はどこまでも贅沢だった。
「動いてる動いてる!」
ニアが動くアワビを見てはしゃぐ。その反対側ではライナも同じ事を言ってはしゃいでいた。勇者ははしゃぐ二人に挟まれながら真剣にアワビを見つめていた。
しばらく団扇で扇いで、身から汁が出始めた頃に、そのままそこにバターを落とし、軽く醤油をたらす。炭に醤油が落ちてジュッと音を立てる。
部屋中に焦げた醤油の匂いが立ちこめる中、食べるアワビはシメに相応しい王道シンプルな味わいで醤油バターと磯の旨味が混ざった汁に歯ごたえの良い身がまるで荒波のように口の中を攫っていった。
「ごちそうさまでしたー!」
完食。テーブルの上には何一つ残っていない。極上の海産物に酔いしれた四人はしばし、そこから動けなかった。しかし、アイザックだけは腹をさすりながら壁に背を預ける勇者、ライナ、ニアとは違い、冷酒をチビチビやりながらそこに残っているだけであった。
仲居が食器を片付ける中、ケインと男も一休みをしている。正に至福のひとときだった。
「ねぇ明日って何してるの?」
しばらく休んだ後、ケインは何も無くなったテーブルに身を乗り出す。
「ん? 明日はもうここを出てまた移動だよ」
勇者はアイザックに視線を送るが、彼女はまだ冷酒を楽しんでいる最中だった。
「そっかー。残念」
がくっと肩を落とすケインの頭に、男が眉間に皺を寄せながら手を置いた。
「まーだ。諦めてねーのか」
その声には、愛情と呆れが同居していた。ガシガシとケインの頭を強めに撫でたので髪の毛はボサボサに逆立っていた。
「だって……じいちゃんが言ってたんだ! あそこには時を越えた宝があるって」
「そうは言ってもよぉ……あそこまで行けるのはじいちゃんだけなんだ。そんなじいちゃんが死んじまった今じゃあそこにはもう誰も辿り着けないよ。それにあの人の事だ。大げさに言っておいて実は大好きな酒を隠していただけって事も大いにあり得る」
だからもう気にするな、と男は寂しそうに笑う。勇者には何の事だかさっぱりわからないが、ケインのおじいちゃん、つまり男の父親はもうこの世には居ない事はわかった。
「でも。父ちゃんだって言ってたじゃないか! 男にはやらなきゃいけない時があるって!」
「でも無理なんだ。あそこは潮流の関係で誰も辿り着けなくなっている。唯一辿り着けたじいちゃんの操船技術は俺も誰も受け継げなかった。失われた技術なんだよ」
男は自分の無力さを嘆くように言った。きっとこの男も死んだ父の残した宝があるのなら見つけたいと心の底では思っているのだろう。そしてそこに行けないジレンマをごまかす為にケインを諭して自分を宥めているのだ。
部屋を出て行った男の背中にケインは何か言おうとしてやめた。そんな父の思いを感じ取った行動だった。
「ねぇねぇ。さっきの話ってなんなの?」
身を乗り出したニアにケインが振り返る。ニアはケインにもう一度同じ質問をした。
「うん……じいちゃんが死ぬ前に教えてくれたんだ。あの島には時を越えた宝がある。だから唯一あそこへ行けた自分はそれを守る義務があった。だからもしお前があそこへ辿り着いた時は俺の代わりにあそこを守ってくれ。お前には俺の血が受け継がれている。きっと行けるはずだ。悲しいかなバカ息子のエルドはきっと辿り着けないからなって」
ケインは死んだじいちゃんとの約束を果たしたい一心で、父であるエルドに反抗し続けていた。子供であるケインは船を操縦した事も無い。けれどじいちゃんが行けると言うのなら行けるはずだと信じていた。じいちゃんはケインに嘘をついた事が無い。だからケインも絶対に嘘はつかなかった。内緒で行こうとはせず、父エルドに真っ向からぶつかって航行の許しを得ようとしているのはその信念によるものだった。
「あの島って?」
「そっかニア姉ちゃんは見た事無いのか」
ケインはニア姉ちゃんと呼んでいる。ニアはここにもう一週間も連続で宿泊しているため、家族とは周知の仲だった。
「勇者様は見たでしょ? ほら堤防から見えた。あの島だよ」
あぁ、と勇者はケインと出会った場所を思い出す。沖の方に見えた小さな島。きっとあれの事だ。
「ね……ねぇ。今なんて?」
「え? だから今日一緒に堤防から見たんだ。その島を」
「じゃなくて! その前!」
「ゆ、勇者様?」
ケインがその言葉を口にするとニアはゆっくりと隣の勇者に顔を向ける。
「う……嘘でしょ」
「いや。その……本当だ」
「えーーーーー!」
ニアは勇者の場所から飛び退いて尻餅をつく。プルプルと震える手で勇者を指差して、まさかまさか、と何度も呟いていた。
「まぁあの似顔絵じゃわからないよな……」
テーブルに頬杖をつく。こんなリアクションを取られるのも久しぶりだった。ニアは自分の頬をつねって、その痛みで現実だと言う事を確かめてから、ようやく事実を受け入れた。
「まさか。世界を救った英雄とこんな場所で会うなんて……」
隣に座り直すニアは嬉しいのか悲しいのか良く分からない表情で虚空を見つめる。ニアに取って勇者は憧れでもあり、勝手に自分のライバルとして見ていた存在だった。今日の出来事を思い出し、勇者の剣技を頭の中で再生する。どうりで、と合点がいった。と同時にある考えが浮かぶ。
「あ、じゃあさ。私と勇者と三人でその島に行ってみない?」
「え?」
ケインと勇者は声を揃える。あまりに突拍子の無い提案に二人とも思考が一瞬停止してしまった。
「い……いいの?」
ケインは勇者を見る。勇者は我に返り、首をブンブンと振った。
「いやいや! 無理だ! 俺達は明日ここを発つんだから行けないよ! 第一……」
「行って来い」
勇者の声を遮ったのはアイザックだった。空になった冷酒の瓶を逆さまにして飲み口を覗いている。
「移動手段をカノープス急行から船に変えれば一日の遅れは簡単に取り戻せる。気にするな。行って来い」
「ですけどアイザック先生!」
「つべこべ言うな。 男にはやらなきゃいけない時があるんだよ。きっと今がその子にとってその時なんだ。ライナの事は私が見てるから気にせず手伝ってやれ」
アイザックの言葉にニアが拍手を送る。それを見たライナも何故か拍手を送った。
「い……いいの? お姉さん」
恐る恐る口を開くケインにアイザックは微笑んで頷く。
「うん! 決定だね!」
ニアがケインに向けて手の平をかざすとそれをパチンと叩いて飛び上がった。
「やったーー! やったーー!」
その喜びようを見てはやっぱり無理なんて言える訳が無い。アイザックの言う、船ならば一日の遅れを取り戻せるという言葉がイマイチ信用出来なかったが、勇者はもう後には引けないと悟り、黙って従う事にした。
出発は明朝。船は小型の漁船を貸してもらう事になった。運転は何とニア。免許も持っているらしく腕にはかなり自信があるらしい。それをケインが補佐して道中の危険を未然に防ぐのが勇者の役目だった。
心配だった両親の説得はアイザックによっていとも簡単に済んでしまった。勇者が同行というのが一番大きかったらしい。勇者と言う言葉にはまだまだかなりの信頼度がある現れだった。
「楽しみですねー。どんな宝物があるんでしょう?」
部屋の明かりを消して布団に潜るとライナが勇者に顔を向けて口を開く。
「さぁ。でもきっと大したものじゃないと思いますよ」
「何だっていいんだよ。一人の少年が男になる瞬間が何よりの宝なんだから」
明日早いんだから早く寝ろ、とアイザックが口を挟む。はーい、とライナは返事をして勇者に耳打ちをした。
「帰ってきたらお話沢山効かせてくださいね!」
勇者が、もちろんです、と顔を向けるとライナは布団の中央に戻ってスヤスヤと寝息を立てた。
相変わらず寝付きの早さは異常だな。
勇者はライナの寝息を聞きながらゆっくりと布団の中に沈んでいく。遠くで聞こえる波の音がガーランドから離れた場所に居る事を教えてくれた。