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僕はリンカーン・コンチネンタルの助手席に座っていた。もちろん運転席にいるのは極道執事こと萬谷弾である。
玄関前で萬谷の姿を見た時、僕は無理矢理樫木家に連れ戻されると思っていた。だけど、萬谷は何も言わず助手席側のドアを開けただけだった。その無言の威圧は恐怖を倍増させ、僕には助手席に座るという選択肢しか残されていなかった。
そして、萬谷はリンカーン・コンチネンタルを発進させるわけでもなく、運転席に座ってタバコを吹かしているだけだった。情けない話だが、僕はガクガクと震える膝を両手で押さえつけるのに必死になっていた。
「その様子だと、お嬢はお前に真意をうまく伝えられなかったみたいだな」
萬谷がタバコの煙を僕に向かって吐き出した。思わず咳きこむ。こんなものを吸いたがる大人の心理が理解できなかった。そういえば、この臭いは角南の部屋で嗅いだ臭いと似ている。薄暗くてわからなかったけど、角南は喫煙者だったのかもしれない。最低な女だ。
「これのうまさがわかんねえとはガキだな。たまにはタバコの一本くらい親の目の前で堂々と吸ってみろ。んなこともできねえから甘ちゃんだって言われんだよ」
萬谷は僕の心をまた読んだからそんなことを言ってくるのだろう。だけど、僕が樫木家を出てきた理由とタバコとは関係ないような気がするんだけど。
「お嬢の両親はな、お嬢が生まれてすぐ交通事故で死んだ。後部座席のチャイルドシートで眠っていたお嬢一人を残してな」
何の前置きもなく、萬谷はいきなり朝霞由姫の生い立ちを語り出す。
「その後、引き取ってくれた伯父夫婦も数年後に交通事故で他界した。この時も後部座席にいたお嬢は奇跡的に助かっている。だが、それ以来親戚どもはお嬢のことを『死神』と呼んで忌み嫌い、児童養護施設へ追い払いやがった」
萬谷は運転席側の窓を開けて、今度はそちらに向けてタバコの煙を吐き出した。暗闇の中に白い霧が浮かび上がる。
「そして、一年前にその児童養護施設が火事になり、お嬢以外の人間はみな焼死した」
その話を聞けば誰だって朝霞由姫には何かがあると疑心暗鬼になるだろう。
「自分は他人を不幸にしてしまう。そう思ったお嬢は自ら命を絶とうとした。ボスの命令でお嬢を探していたオレがお嬢を見つけ出したのは、そんな時だった。初めて会った時のお嬢の目はまるで死人だった。生きることを、いやすべて拒絶する目だった」
僕は朝霞由姫の生い立ちを聞き入っていた。いつの間にか膝の震えも治まっている。
「オレはお嬢をボスに引き合わせた。ボスはお嬢に言った。お前は『死神』ではない。人一倍『生き運』が強いだけだ。これからはその『生き運』を活かせる生き方をしろ、ってな。その言葉でお嬢の目には生気が戻った」
世間知らずなお嬢様だと思っていた。のん気そうなあの表情からは、そんな過酷な人生を経験してきていたなんて想像もつかなかった。
でも、朝霞由姫の本性を見抜いて立ち直らせるなんて、さすがは極道の親分だ。経験した修羅場の数が違うんだろうな。
萬谷ってもっと怖い人かと思っていたけど、外見とは裏腹にやさしい人なのかもしれない。認識を改めないといけないかもしれない。
「おい、お前……。ま、いいか」
萬谷は何かを言いかけて止めた。今の僕の心も読まれたんだろうな。気になるけど、確認する勇気はない。
「とにかくだ。それからお嬢は不幸な人間を救ってやりてえと思うようになった。この話を聞いたからといってお前が協力しなきゃいけねえことはねえ。帰りたけりゃ今すぐこの車から降りてとっとと帰りゃいい。お前が決めることだ」
「僕が……決める」
僕は小さく呟くと、自分の意志でリンカーン・コンチネンタルから降りた。
樫木家とは逆方向に歩きだす。
「おい、お前どこ行くつもりだ?」
萬谷の呼び止める声に殺意を感じた僕の本能が、振り向くことを拒絶した。やっぱり怖い人かもしれない。
「い、家に帰ります」
僕は背を向けたまま答えた。
「お前、オレの話を聞いてなかったのか?」
「聞いていました。あなたのお嬢様は確かにつらい人生を歩んできたかもしれません。でも、それはそれ。僕は角南千依里を許す気にはなれませんから」
僕はゆっくりだが少しずつ歩を進めていった。
「ったく、男のくせにみみっちいこと言ってんじゃねえぞ。最近のガキは自己チューばっかで性質が悪いぜ」
萬谷の怒声が頭上から降り注いだかと思うと、僕の体は宙を浮いた。萬谷がまた僕の学生服の詰襟をつかんだのだ。
僕の体は宙吊りのまま一八〇度方向転換させられる。もちろん向かう先は、樫木家だ。
何だよ、かっこいいこと言っておいて結局は僕に決断する権利なんか与えてくれないんじゃないか。
「オレはお嬢の執事なんだよ。お嬢に不利になるようなことするわきゃねえだろう」
萬谷は僕をつかんだまま、樫木家の玄関のドアを開ける。朝霞由姫がレクリエーションルームから飛び出してくる。たぶん僕が戻ってきたと思ったのだろう。まあ間違いではないが。
「萬谷さん、何をするつもりなんですか?」
「やかましい! お嬢はチビと風呂でも入ってろ!」
呼びとめる朝霞由姫の声も聞かず、萬谷は土足のまま二階へと上がっていく。
「男なら自分でけじめつけてこい!」
僕は角南の部屋に放り投げられた。
真っ先に僕が確認したのは、眼鏡をかけているかどうかだった。どうやら今回は外れなかったみたいだ。蝶番を締め直したのが功を奏した。
角南の部屋は日も暮れたせいもあって、先刻より暗さが増していた。唯一の明かりと言えば、カーテンの隙間から洩れてくる月の光くらいだ。
僕はすぐさま部屋を出て行こうとして、ドアノブを探した。
「誰?」
角南の声がした。
「もしかして、喜屋武?」
僕は返事をせず、探しだしたドアノブから外へ出ようとした。
「ごめんなさい」
消え入りそうな小さな声が聞こえてきた。僕をいじめていた小学五年生の角南からは想像できないくらいしおらしい声だった。
僕はドアノブにかけた手を下ろした。
「今更こんなこと言ったって言い訳にしか聞こえないと思うけど。私、喜屋武をいじめているつもりはなかったんだ」
「いじめているつもりはなかった? 確かにいじめている人間がよく使う言い訳だよな」
「私、知らなかったんだ。それが当たり前のことだと思ってたから」
その言葉は僕の怒りをMAXにするのは充分すぎた。
「ふざけるなっ! 僕はお前を一生許さないからな!」
僕はそう叫んで、角南の部屋を飛び出した。
何がいじめているつもりはなかった、だ。
何がそれが当たり前のことだと思っていた、だ。
例えようのない怒りが全身からこみあげてくる。こんな気持ちを感じたのは初めてだ。
僕は怒りの制御の仕方がわからず、ただ地団駄を踏むだけだった。やり場のない怒りを床に八つ当たりしているといったところだ。
「慧くん?」
階段から雛子さんが顔を覗かせていた。
「地団駄を踏むのはいいんだけど、せめて靴を脱いでからにしてもらえるかしら?」
「あ……」
僕は慌ててスニーカーを脱いだ。
「すみません」
「ねえ、下りてこない?」
少しだけ怒りが静まった僕は、雛子さんの言葉に従って一階へ下りた。