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 玄関に通された僕を待っていたのは、エプロン姿の一人の女性だった。

 肩にかかる茶色の髪。年の頃は二〇代前半といった感じで、厚みのある唇がとても印象的だった。何だか新婚ほやほやの新妻って感じだ。

 女性は僕に向かって駆け寄ってくると、有無も言わさず自分の胸へ僕を抱き寄せた。僕の顔は豊満な女性の胸に押し付けられる形となった。

 今かけている眼鏡がジュニア用フレームの超弾性合金じゃなかったら、間違いなく他の眼鏡と同じ結末を迎えていただろう。

「キミが来るのを待っていたのよ、喜屋武慧くん!」

 僕の名前を呼んだのだから、凛の時のような人違いではなさそうだ。では、僕に会ってほしい人というのはこの女性のことだろうか。にしても、こんなに強く抱きしめられたら息ができない。世の中の男性の九七パーセントはこのまま死んでもかまわないと思うかもしれないが、僕としてはできればこういう死に方は避けたい。

「雛子先生、落ち着いてください! 喜屋武くんが圧迫死してしまいます」

「あ、ごめんごめん」

 朝霞由姫の言葉で、大袈裟かもしれないけど僕は九死に一生を得た。僕は肺の中に空気を送り込んだ。

「喜屋武くん、この人は樫木雛子さん。この家の持ち主でグループホームの責任者です」

 グループホームとは、比較的少人数で生活を共にする児童養護施設のことだ。この家には、親がいないか親の事情でいっしょに暮らすことができない子供たちがいるということになる。つまり、この家にいる凛はその子供の中に入るんだろうな。しかし、僕は凛に同情する気にはなれなかった。両親がいるからといって幸せとは限らないんだ。

 朝霞由姫はここで暮らす子供ではないだろう。あんな極道執事がいてリムジンで毎日送迎してもらっている人間にはまず縁のない世界だ。お嬢様の暇つぶしにボランティアでもしているといったところだろう。お気楽なもんだな。

「よろしくね、慧くん。あ、スリーサイズは教えてあげてもいいけど、年齢は聞かないでね」

「もう雛子先生、喜屋武くんをからかわないでください」

「由姫は真面目すぎるのよ。こういう冗談くらい言えないと、子供は懐いてくれないわよ」

 雛子さんって、明朗快活なんだな。でも、これくらいの人じゃないと、自分の子供でもないに複数の子供の面倒なんて見てられないよな。

「大したおもてなしもできないけど、自分の家だと思ってくつろいでちょうだいね」

「はぁ」

 僕は生返事することしかできなかった。自分の家でくつろいだ記憶がないからだ。

 勉強しなさいとしか言わない母親。仕事が忙しいのを理由にして僕が起きている時間に帰ってこない父親。小中学校で僕がいじめられていたことに気付きもしなかった。だから、僕は母が推薦する私立高校の受験で白紙回答を出して不合格になってやった。少しでも僕の異変に気付いてほしかったからだ。でも、両親は世間体だけをすごく気にする人たちだったので、とにかくどこでもいいから僕を高校に入学させようと躍起になっただけだった。最終的には定員割れして再募集していた公立高校しか残ってなかったわけだけど。

 それから母は近所の人と会うことを避けるため、どこかへ働きに行くようになった。父は相変わらずだ。

 僕は家に戻っても自室にこもったままで、お腹が空けばキッチンに行って買い置きしてあるインスタントラーメンを食べる。そんな繰り返しの毎日だった。

 あんな両親ならいない方がマシだ。

「凛、夕食の手伝いをしてちょうだい」

「雛子先生、今日のメニューは? アタシ、もうお腹ペコペコだよ」

「ふふ~」

 雛子さんはふくみのある笑みを浮かべて誇らしげに胸を張った。

「今夜はみんな大好きハンバーグよ~。しかも、とろけるチーズ付」

「やりっ!」

 凛はガッツポーズを取った。この辺がまだまだ子供なんだな。

「私もお手伝いします」

「由姫はいいのよ、由姫は」

 雛子さんの笑顔が少しひきつっていた。その表情から朝霞由姫は料理に不向きな人間であることが理解できた。今までの言動から考えて、砂糖と塩を間違えるという定番的なミスを犯しそうだからな。

「由姫は慧くんといっしょにあの子を呼んできてちょうだい」

「はい、わかりました」

 朝霞由姫は雛子さんに厄介払いされたことに気付くこともなく、笑顔で応対した。僕もこれくらい鈍感な人間だったら多少は人生を楽に生きられたのかもしれない。そう思った。

「では、参りましょうか」

 僕はポジティブな朝霞由姫に促されて、二階へと上がった。



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