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「着いたぞ」
萬谷の声で僕はハッと我に戻った。どうやら僕は本当に無心になっていたみたいだ。
リンカーン・コンチネンタルが停まったのは、二階建ての普通の民家の前だった。周りを見ればどこかの住宅街であることがうかがえた。
腕時計を見てみると、一八時前だった。高校から小一時間ほど車で走った場所ということか。僕はてっきりごつい門構えの屋敷が待ち構えているばかりと思っていた。
「お前らさっさと降りねえか」
僕は不本意ながら萬谷に言われるがままリンカーン・コンチネンタルから降りた。朝霞由姫は僕とは反対側のドアから降りる。って、普通は執事が主人のためにドアを開けるものじゃないのか。
「オレは忙しいんだよ。自分でやれることは自分ですんのがオレらのポリシーだ」
どうやら萬谷がまた僕の心を読んだらしい。
「オレは行くとこがあっからよ。お嬢、わかってんな?」
「はい、がんばります!」
何をがんばるのかは知らないけど、朝霞由姫は力強く応えて走り去っていくリンカーン・コンチネンタルを見送った。
「では、行きましょうか」
僕は朝霞由姫に促されて、『樫木』という表札のかかった玄関先に立った。
朝霞由姫がインターホンを押す。
と同時に、玄関のドアが勢い良く開いた。まるでドアの向こうでインターホンが鳴るのを待っていたかのようなタイミングだ。
「由姫姉、おかえりっ!」
元気の良い声の主はそう言って僕の体に抱きついてきた。明らかに人違いをしている。その証拠に声の主は顔を上げると、表情を硬直させていた。まだあどけなさが顔に残るショートヘアの女の子だった。
「何なんだよ、お前はーっ!」
女の子は力いっぱい僕を突き飛ばした。無防備だった僕の体は尻もちをつく形で後ろへ吹き飛んだ。大げさな言い方かもしれないけど、僕にはそう思えた。
「喜屋武くん、大丈夫ですか?」
朝霞由姫が慌てて駆け寄ってくる。
ばきっ。
またしても不吉な擬音が聞こえてきた。
顔面蒼白の朝霞由姫はまるで金縛りにでもあったかのようにその場から動けずにいた。それもそのはず。朝霞由姫の右足の下には、メタルフレームのリムの部分が歪み、レンズが割れた僕の眼鏡があったからだ。
しかし、突き飛ばされたくらいで簡単に眼鏡が外れるとは。古い眼鏡だったから蝶番が緩んでいたのかもしれない。
「ごめんなさいごめんなさい! 眼鏡は二個とも弁償しますから」
朝霞由姫は壊れた眼鏡を握りしめて土下座していた。
「いいですよ。まだ替えの眼鏡はありますから」
僕は弁償を丁重にお断りして、カバンの中から眼鏡を取り出した。小学生時代に使っていた眼鏡だから度数は全然合わないけど、ないよりはマシだ。
二度あることは三度ある、になると困るので、念のため蝶番を締めておくことにしよう。
僕はペンケースの中から精密ドライバーを取り出して、蝶番の緩みを調整する。
「すごいです。喜屋武くんのカバンの中にはいろんなものが入っているんですね。私、感動しました」
朝霞由姫が僕のカバンの中を興味津々の眼差しで見つめてくる。
こんなことでいちいち感動するなんて変な人だな。
「誰、こいつ?」
僕を突き飛ばした女の子が朝霞由姫の後ろから見下ろしていた。
プリント柄Tシャツとショートパンツという子供らしい軽装とは裏腹に、その視線は鋭くて冷たいものだった。
僕に会ってほしい人って、この子って言うんじゃないだろうな。
「凛ちゃん、紹介する前に先に喜屋武くんに謝りなさい。ほら、ここに座って」
朝霞由姫は自分が正座している右隣を示した。そこは土の上だった。天然ボケしたお嬢様かと思ってたらこういうところはしっかりしてるんだな。さすがは極道の家系だけあって仁義を大切にしているみたいだ。
凛と呼ばれた女の子は、朝霞由姫に従って渋々その場に正座した。
「ごめん、なさい」
凛は短く謝罪した。さすがの僕もそこまでやられて許さないわけにはいかない。
「別に大したことじゃないからいいよ」
僕が立ち上がると、朝霞由姫と凛も立ち上がる。二人は膝についた土を払い落す。
「紹介が遅れましたが、この子は私のお友達で前園凛ちゃん中学二年生です」
中学二年生だったとは。童顔だな。
「お前、今アタシのこと童顔だなって思っただろう?」
凛の言葉に僕は総毛立った。まさか凛も僕の心が読めるのか?
「初対面の奴は決まってそう思うんだ。だから、お前もそう思ったに違いない」
凛は小さな唇を尖がらせた。
なんだ、統計論で言っているだけか。驚かせやがって。まあ確かに僕を初めとする九七パーセントの人間がそう思うだろう。
どうやら凛は自分が童顔であることにコンプレックスを持っているようだ。生意気なこと言っててもやっぱり思春期の女の子なんだな。
「大丈夫ですよ。凛ちゃんだってもう二、三年すればステキな淑女になれますよ」
朝霞由姫は凛の頭をなでながら慰めの言葉をかける。
たぶんそれは無理だろうと僕は思った。まずはその言葉使いと態度を改めない限りは。
しかし、凛は朝霞由姫の言った言葉を鵜呑みにして納得の笑みを浮かべていた。まあ当人が納得しているならそれでいいけど。
「あ、凛ちゃん。この人は喜屋武慧くんです」
「お前がねえ」
凛は品定めするかのように僕を見ると、低い鼻をふんと鳴らした。年下のくせに生意気な女だ。どうやら凛は朝霞由姫に好意を持っているみたいだ。だから、朝霞由姫が連れてきた僕という存在が気に入らないのだろう。結果論として、凛は僕に会ってほしい人ではないということになる。
「由姫姉、雛子先生が待ってるから早く中に入ろうよ」
凛は朝霞由姫の右手を引っ張って家の中に入ろうとする。
「喜屋武くんもどうぞ」
朝霞由姫が残った左手で僕の右手を引っ張る。やわらかくて温かな手だった。