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萬谷が向かう先には、一台の黒い車が停まっていた。クラシックなアメリカ車だ。
萬谷は観音開きの後部ドアを開けると、
「こうしちまえばいいんだよ」
そう叫んで、僕を後部座席に押し込んだ。
僕は革張りの白いシートに顔をうずめた。革独特の匂いが鼻についた。
「喜屋武くん、大丈夫ですか?」
反対側の後部ドアから朝霞由姫が心配そうに顔を覗かせた。
ん? 彼女の顔がぼやけて見えるのは気のせいか?
「ごめんなさい。萬谷さんに悪気はないんです。私のためにやってくれていることで」
朝霞由姫が後部座席に乗り込んでくる。
ぱきっ。
同時に、軽い擬音が聞こえた。
「あ……」
朝霞由姫が体重をかけた左手の下には、プラスチックフレームのテンプルの部分が折れた僕の眼鏡があった。たぶん車に押し込まれた時の衝撃で外れたのだろう。
ぼやけてはいるが、朝霞由姫の表情が強張っていくのがわかった。
「ごめんなさい! 弁償します!」
「いいですよ。替えの眼鏡はありますから」
弁償してもらう方が高くつきそうな気がしたので、僕は即断った。そして、帰るなら今がチャンスだ。
僕は座席に座りなおすと、カバンの中から眼鏡を取り出した。中学時代にかけていた眼鏡だから、多少度数が合わないけど。
「では、僕はここで失礼させ」
車が発進していることに気付いて、僕は言葉を切った。
しかも、高校がもう見えなくなっている。エンジン音に気付かないくらい僕は動転していたのだろう。
やばい、もう逃げるチャンスがない。
今の心境を例えるならば、ありきたりだがドナドナの子牛だ。
「改めて自己紹介させてくださいね。私は朝霞由姫。喜屋武くんと同じ高校に通う二年生です」
僕のブルーな気持ちに気付くはずもなく、朝霞由姫はのん気に自己紹介を始め出す。
「車を運転しているのは、萬谷弾さん。私のお手伝いをいろいろとしてもらっています」
「執事だ。よろしくな」
萬谷はルームミラー越しにこちらを見た。
執事? 執事ってこんなにも態度が大きくて主人を敬わない職種だったか? 若頭の間違いじゃないだろうか。
「こんな強引な形を取ってしまってごめんなさい。でも、どうしてもあなたに会ってほしい人がいて」
「クラブの勧誘じゃなかったんですか?」
「それもありますけど、優先順位がありまして……」
朝霞由姫は困惑の表情を浮かべる。
僕を人に会わせるのが優先の割には、初対面の時にそんなこと一言も言わなかった。
「こいつはトロくせえから、肝心なことをうまく人に伝えることができねえんだよ」
萬谷がハンドルを左に切ると、タイヤが軋んだ音を立てる。僕の体が右に揺れる。古そうな車なのに、こんなにスピードを出して大丈夫なのか。
「この車はケネディが殺された時に乗ってた車だからな、古いのは当たり前だ」
萬谷が今度はハンドルを右に切りながら答える。僕の体が左に揺れる。
第三五代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ。一九六三年一一月二二日に銃撃によって暗殺された。当時乗っていたリムジンが一九六一年式リンカーン・コンチネンタルだった。でも、それってオープントップだと思ったけど。
「翌年にクローズドトップ使用に交換してんだよ。その後、表向きはリンドン・B・ジョンソンの公用車ってことになっちまってるが、貰い手がねえってんでオレが超破格で買い取ってやったんだよ」
萬谷はどこか得意げに言う。
リンドン・B・ジョンソンというのは、ケネディ暗殺後に政権を引き継いだ第三六代アメリカ合衆国大統領だ。
あれ?
ふと疑問に思った。僕は胸中で思っただけなのに、どうして萬谷との会話が成立するんだ?
まさか僕の心を読んでいるなんてことはないだろうな。
「そりゃよ」
リンカーン・コンチネンタルが赤信号で停まると、萬谷は肩越しに僕を振り向いた。僕は戦慄した。
「オレが執事だからだよ」
信号が青に変わると、リンカーン・コンチネンタルが急発進する。しかし、萬谷は顔をこちらに向けたままだ。
「よ、萬谷さん、ちゃんと前を向いて運転してください!」
「わかってんよ。いちいちオレに命令するな」
萬谷は軽く舌打ちすると、前へ向き直った。
「驚かせてしまってごめんなさい。萬谷さんは人の心が読めたりしてちょっと変わっていますけど、気にしないでくださいね」
ちょっとなんてレベルじゃないだろう。気にするなって言う方が無理だ。でも、これ以上僕の心の中を読まれるのは、それこそプライバシーの侵害だ。
僕は無心を心がけることに集中した。
何も考えない。
何も考えない。
僕は何も考えない。
「そうそう。今は何も考えなきゃいいんだよ」
小声で呟く萬谷の声が聞こえた。