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僕は脇目も振らず、角南の部屋に向かって走った。距離はたかが知れているかもしれないけど、こんなに全力で走ったのはたぶん初めてだ。
僕は角南の部屋のドアを開けた。室内は階下に比べると、火はそんなに広がっていなかった。
「っ!」
ただ中心には炎に包まれた角南を抱きしめている雛子さんがいた。
僕は恐怖で足がすくんでしまい、その場にへたり込んだ。
ダメだ。やっぱり僕にはできない。
「おい、何ビビってんだよ? これは幻影だって由姫姉から聞いてんだろう?」
部屋の隅にいた凛が駆け寄ってきて、僕を立たせようとして強引に両手を引っ張る。
確かに凛の言ったとおりだ。炎に包まれている角南も雛子さんも火傷を負っている様子は見られない。
「喜屋武を傷つけたのも、父さんが母さんと離婚したのも、火事でみんなが死んだのも全部私のせいなんだ! 私が悪いんだ! だから、私は罰を受けなきゃいけないんだ!」
雛子さんに抱きしめられたまま、角南は泣き叫んでいた。それは幼い子供がいたずらをして母親に叱られて許しを乞いているようにも見えた。
もしかしたら角南の時間は小学五年生の時からずっと止まっていたんじゃないだろうか。体は大人へと成長しようとしているのに、精神だけがまだ子供のままなんだ。
角南はずっとずっと罪悪感に苛まれていたのかもしれない。きっと僕より辛い思いをしてきたんだろう。
そう思ったら僕の足は自然と角南に向かって歩き出していた。
「角南」
「喜屋武?」
「僕は心が広い人間じゃないからすぐに角南を許すことはできない。でも、時間をかけていけば許すことができる自信はある。だから、角南も自分を許してやればいいんじゃないか?」
今の僕にはこの言葉が精一杯だった。だけど、それは角南の心に届いたんだと思う。その証拠に樫木家を包んでいた炎が一瞬にして消えたんだから。
「千依里さん!」
朝霞由姫が部屋に入ってくるなり、角南に抱きついた。
「由姫?」
「良かったですね、千依里さん」
火が消えたことで、僕が角南を許したと確信したのだろう。
「ありがとう。由姫にも迷惑ばかりかけてごめんよ」
「いえ、私は何もしていませんから」
「そんなことない。喜屋武を連れて来てくれた」
角南は少し照れくさそうに微笑んだ。初めて見た角南の笑顔。笑うとけっこう可愛いんだな。
「慧くん、ありがとう。やっと千依里の笑顔を見ることができたわ」
雛子さんはとびっきりの笑顔を見せてくれた。僕はたいしたことしていないのに、そんなに感謝されると何だかくすぐたくなってくる。
笑顔ってこんなにも人の心を穏やかにしてくれるものだったなんて知らなかった。
「これで安心して逝けるわ」
「雛子さん?」
雛子さんの体が色彩を失っていき、半透明になって、そして見えなくなった。
僕は何度もまばたきをして目をこすった。
雛子さんが消えた?
でも、そのことに誰も触れようとしない。
「喜屋武、ありがとう。私もやっとみんなに会いに行く勇気が持てた」
「角南……、あのさ雛子さんが」
「私さ、喜屋武のこと大好きだったんだ。最後だからいいよな?」
角南は僕の言葉を遮ると、自分の唇を僕の唇に押し当ててきた。
狼狽する僕を見て、角南は小悪魔的な笑みを浮かべたんだ。そして、雛子さん同様に色彩を失っていき、霧散した。
「角南……?」
僕は呆然と立ち尽くしていた。
これはやっぱり夢だ。じゃなきゃ、人が消えるなんて非現実的なことが起こるわけがない。
目が覚めれば、つまらない現実が待っているに違いない。
「お疲れ様でした」
朝霞由姫に声をかけられて、僕は体をビクンと震わせた。朝霞由姫も雛子さんや角南みたいに消えてしまうんだろうか。
「喜屋武くんのおかげで雛子さんも千依里さんも無事旅立つことができました」
「旅、立つ?」
「一年前の今日、この家は火事に遭いました」
萬谷から聞いた、朝霞由姫以外の人間が焼死したっていう児童養護施設ってここのことだったのか。そういえば、雛子さんも朝霞由姫がここにいたことがあるって言っていたのを僕は思い出した。でも、それだと一年前の火事で雛子さんと角南は死んでいることになるじゃないか。
「火事の原因は千依里さんのタバコの火の不始末でした。深夜だったので気付くのが遅くなってしまい、雛子さんは必死でみんなを助けようとしたのですが。私だけが助けられました」
「ちょっと待ってください! やっぱり雛子さんと角南は」
朝霞由姫は心痛な面持ちでうなずいた。
「千依里さんはみんなが死んだのは自分のせいだと言って、ここを離れようとはしませんでした。毎日毎日夜になると、自責の念にかられて泣いていました。あの炎は千依里さんの悲しみの表れだったんです」
僕は言葉を失っていた。
「生前、千依里さんは私に喜屋武くんの話をよくしてくれました。暴力をふるうことが愛情表現ではないと知った千依里さんはずっとあなたに謝りたいと言っていました。だから、喜屋武くんが千依里さんを許してあげたなら、千依里さんも自分を許すことができるのではないかと思ったんです」
つまり朝霞由姫の予想は的中して、角南は自分を許すことができて成仏したってことになる。僕はまんまと利用されたってわけだ。
あまりにも現実離れしすぎていて怒る気にもなれなかった。
「ははは……」
僕の口から乾いた笑い声がもれる。
口?
そういえば、角南は消える直前に僕にキスをした。僕はファーストキスを幽霊に捧げたということになるのか?
健全な青少年の九七パーセントは、ロマンテックなシチュエーションでファーストキスはしたいという願望があったはずだ。一応、僕だって男だ。そんなことを夢見る可愛い幼少時代だってあったんだ。だけど、もうそれは叶わぬ望みだ。
そう思ったら、何か目の前がくらくらしてきた。
もう何も考えられない。
僕は精根尽き果ててその場に倒れた。
「喜屋武くん!」
遠のく意識の中で、朝霞由姫の必死に叫ぶ声だけが聞こえてきた。




