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「……くん、喜屋武くん!」
僕は朝霞由姫の呼ぶ声で目を覚ました。どうやら身を任せすぎていつの間にか熟睡してしまったようだ。こんな風に気持ち良く眠れたのは久しぶりじゃないかな。
だが、そんな穏やかな気持ちは呆気なく消失した。
「っ!」
僕は眠い目をこすりながら、眼前に広がる光景に愕然とした。睡魔も一気にどこかに逃げ去ってしまう。
「か、火事?」
炎が僕と朝霞由姫の周囲を取り囲んでいた。まさに火の海とはこういう状況をいうのだろう。
さっきみんなで食事をしたダイニングテーブルもDVDを見たテレビも、すべてが炎に飲み込まれていた。
こんなに火が広がるまで誰も気付かなかったのか? いや、今はそんなことどうでもいい。脱出が先決だ。だけど、炎に行く手を塞がれて、脱出ルートが見つからない。どうればいいんだ?
そういえば、雛子さんと凛の姿が見当たらない。僕を置いてさっさと逃げたんだろうか。やっぱり人間いざとなると自分が一番可愛いんだ。
僕はこのままここで死んでしまうのか?
「いやだ、死にたくない!」
僕はその場に小さくうずくまった。
「いやだ、いやだ……」
死ぬのが怖くてただ叫んでいた。
「喜屋武くん、落ち着いてください。この炎は幻影です」
「こんなに熱いのに幻影なわけがないでしょう!」
「喜屋武くんが熱いと思い込んでいるだけです。惑わされないでください」
「そんな見え透いた嘘はつかないでください!」
僕は煙で咳きこんだ。目がしみる。これが幻影なはずがない。
「僕を焼死させようとしてるんですか? そうに決まってる! 僕が角南を許さなかったから、腹いせに僕を殺そうとしているんだ!」
「ごめんなさい!」
声と同時に、朝霞由姫の平手打ちが僕の左頬に炸裂した。
「しっかりしてください! 大丈夫ですから……私を信じてください」
朝霞由姫は震える僕の体をやさしく包み込んだ。まるで母親に抱かれている赤ん坊のような、そんな安堵感があった。全身の力が萎えていく。
炎に包まれているというのに、不思議と熱さも煙たさも感じなくなっていた。朝霞由姫の言ったとおり、これは幻影なのだろうか? いや、もしかしたら僕は夢を見ているのかもしれない。僕はまだビーズクッションの上で寝ているのかもしれない。
「喜屋武くん、早く千依里さんのところに行ってあげてください」
「こんな時に何を言ってるんですか?」
僕は朝霞由姫の体を突き放した。
「今起きていることは現実です」
「現実ならなおさらです」
「雛子さんと凛ちゃんが説得していますが、ダメなんです。喜屋武くんじゃないと、この炎は消せないんです」
「もうこれ以上僕を巻き込まないでください! あなたが行けばいいじゃないですか」
幻影と言っておきながら炎を消せと言う。わけがわからない。頭の中が混乱するばかりだ。
「そうですね。私にできるならあの時そうしていたでしょう。でも、私では千依里さんの心を救うことはできなかったんです。えらそうなことばかり言っていますが、私はみなさんの協力がないと何もできないんです」
朝霞由姫の双眸から大粒の涙がこぼれ落ちた。
胸が締め付けられる。朝霞由姫は本当に角南を救いたいと思っているんだ。今ならわかる。朝霞由姫の生い立ちを知った今なら。
不幸を知っているからこそ、人は幸福であることを追い求める。僕だって幸せになりたいんだ。
だから、こんな所で死にたくないんだ。
「誰もが幸せになる権利があるって言ってましたよね? 今でもそう思っているんですか?」
「はい、思ってます」
「僕にも幸せになれる権利があると?」
「もちろんです。喜屋武くんだって幸せになれますよ」
「じゃあその手助けをしてくれますか? 約束してくれるなら、僕行ってもいいですよ。火が消せるかどうか自信はありませんけど」
「約束します! 必ず喜屋武くんを幸せにしてみせます」
朝霞由姫は大きくうなずいた。
胸の奥が熱かった。もちろん、火事のせいではない。自分の言動があまりにも無謀で僕らしくなくて。でも、こういう感情が僕にもあったんだって驚嘆もしていた。
とはいうものの、幻影と言われてもいざとなると火の中に飛び込んでいくにはかなりの勇気が必要だ。
「大丈夫です。自分を信じてください」
「信じろって言われても……」
「ごめんなさい、喜屋武くん。もう時間がないんです」
そう言って朝霞由姫は僕の背中を思いっきり突き飛ばした。
「わあああああぁぁぁぁぁぁーっ!」
僕の雄叫びは炎の中に消えていった。