すぐに鼻血を出してしまう今泉君のせいで仲が進展しない委員長
「今泉君……ちょっといいかしら?」
少し低めのトーンが、彼を幾分か緊張へと導いた。
何かやらかしただろうか?
今泉吉郎は、つい最近の出来事を些細なまでに振り返りながら、委員長である作田香織の後ろを着いて歩いた。
「ここなら大丈夫かしら……」
辿り着いたのは保健室だった。
今泉は促されるままに中へと入り、出された椅子へ腰掛けた。
「まあ、なんてことは無いんだけどね……?」
「な、なに……!?」
今泉の顔に、手に、力がこもる。
今日の数学の時間、隣の席同士なのを良い事に問題の答えを覗き見した事かと、叱責を恐れた。
「今度の休み、暇かしら?」
「……?」
思わず今泉の眉が上がった。
理解が追い付いていない今泉は声も出ず、ただ首を傾げる。
「ちょっと買い物を手伝って欲しいの」
「えっ!?」
今泉は驚いた。そして思った。
(委員長と買い物だと……!?)
グッと、鼻の奥に熱い物が込み上げてくるのが分かった。たまらず鼻と口を右手で覆った。
「もしかして、忙しいかしら?」
香織が心配そうに今泉の顔を覗いた。
「いぐ……! いぎまず……!!」
指の隙間から血が垂れ始め、香織は傍に置いておいたティッシュですぐに、それらを拭き始めた。
「勘違いしないで……! デートじゃないわよ!?」
「……ぇ?」
しゅんとしおれたように、今泉が肩を落とした。
それと同時に鼻血の勢いが止まった。
「デ、デートじゃないけれど……ふ、二人きりなのは確かよ……!!」
「えっ!?」
今泉は『二人きり』という言葉に敏感に反応した。
買い物だろうが、墓参りだろうが、カジキ漁だろうが、もはや用事はどうでも良くなり、ただ二人きりという事実だけが今泉の鼻の奥を刺激した。
「大丈夫。分かっでる……」
真面目な目をしていても、押さえた手の隙間から止めどなく溢れ出る鼻血。香織はそれを素早くティッシュで押さえた。
「要件はそれだけ。ちゃんと手を洗ってから帰りなさいよ!?」
「……あい」
香織が保健室を出ると、今泉はすぐに冷静さを取り戻し、ティッシュを鼻に詰めて手を洗いに向かった。
──前日の夜、今泉は寝付けずに居た。
明日、何を着ていこうか。何分前に到着しようか。
いくら考えども、悩みは尽きなかった。
(委員長は何を着てくるだろうか……)
ふわっとした、白いワンピース。派手さは無くともその清楚さが自然に目につく香織を想像し、今泉は思わずティッシュを手に取った。
「ああ……垂れる垂れる……」
余計なことを考えずに、さっさと寝よう。
今泉はティッシュを鼻に詰めてベッドの中へ潜り込んだ。
「──今泉君大丈夫!?」
「嗚呼……いつもより多いかも……」
「何を呑気な声を出してるの!? ティッシュティッシュ!!」
待ち合わせ場所に現れた香織を一目見た今泉は、まるで噴水のように鼻血を吹き出してその場に膝をついた。
白いワンピースに肩掛けバッグ、今泉が妄想しては失血死を恐れすぐに止めたその姿が、彼の目の前に存在した。
今泉は死を覚悟した。
そっと目を閉じて鼻を押さえる。
「大丈夫!?」
香織がそっと、俯く今泉の下から心配そうに見つめる。左手で胸元を押さえ、右手でティッシュを持ち、申し訳なさそうに見つめるそのあどけなき顔に、今泉は鼻血を噴射した。
「──キャッ!」
「ご、ごめんなざい……!!」
今泉は死んでもいい。そう思ったが、このまま死んだのでは格好が付かないので、何とか意識を持ちこたえ、止め処なく溢れ出る鼻血の勢いをティッシュで押さえつけた。
「……大丈夫、大丈夫」
「大丈夫なわけないでしょ!? ちょっとあそこのカフェで落ち着きましょう!!」
香織が近くのオープンテラスのカフェを指差した。
日当たりの良い爽やかな空間で、多くのカップルが寄り添うようにお茶をしていた。
「あそこはドーナツが美味しいらしいの! 行きましょ!」
カフェは当初、買い物終わりに寄る予定であったが、香織は緊急事態と見て作戦を変更した。
「いらっしゃいませ」
如何にもと言わんばかりの制服を着た、可愛らしい女性が二人を出迎える。
今泉は血で汚れた手を洗いにお手洗いへと向かい、香織は先に席へと座り、メニューへと目を通した。
「……行きて帰れる気がしない」
お手洗いから戻る最中、今泉は大きなポスターを目にした。
【ハート型ドーナツを二人でガブリ♪】
大きなハート型ドーナツを二人で両端から囓り合うそのポスターに、今泉はとても敏感な反応を示した。
そして近くの席で実際にそのドーナツを囓り合うカップルを見て、今泉は香織と自分に置き換えてしまった。
「ああ……死ぬ……ヤバいヤバいヤバいヤバい……」
「──お客様!?」
カウンターの傍で突如血の池を作り出した今泉を見て、店員が慌てて駆けつけた。
「だ、大丈夫です……いつものごどですがら……」
まるで牛乳パックをぶちまけたかのようなその量に、女性店員が貧血を起こしクラッと倒れた。咄嗟に体を支える今泉。
「大丈夫ですか!?」
どう見ても今泉の方が大丈夫ではないのだが、彼にとって大量失血は日常であり、かすり傷と同じなのである。
「今泉君!?」
「委員長、店員さんが……!!」
騒ぎを聞きつけた香織がその現場を見て天を仰いだ。何故そうなったのか。傍で倒れる若い女性店員を見て、香織は今泉に冷ややかな視線を送った。
「ちょっと今泉君、この人で何を考えたの……?」
「ち、違っ……」
「何が違うの?」
「あ、あのドーナツを……委員長と……」
「……」
ポスターを目に、香織の頬がすぐに染まった。
それは香織が買い物終わりに食べようと計画していたが、絶対鼻血を顔にかけられると思い断念したメニューだったのだ。
「私だって本当は……今泉君が……その……良ければ……」
「委員長……ウッ!?」
ダムの放流のように、自然かつ大量の鼻血が流れ出した。いくら押さえても止まらない。今泉は今度こそ死んだと思った。
流石にこれ以上お店に迷惑をかけるわけにもいかないと思った香織は、ひたすらに謝り店を後にし、ドーナツを諦めた。
「これじゃあカフェも行けないじゃないの……」
香織は仕方なく自動販売機で缶ジュースを二つ買い、ベンチへと腰掛けた。
「はい」
「うう、ありがと……」
缶を手渡す時に、僅かだがお互いの手が触れた。
「今泉君!?」
「もうダメ……これ以上は……」
瞬く間にベンチが血で染まってゆく。
「もう全然話が進まないじゃなーーーーい!!!!」
香織の嘆きが空へと消えていった。