男子トイレの個室にいたら女子にノックされました
痛い。腹が痛い。
朝イチの客先訪問の後、俺は猛烈な腹痛に襲われていた。
ズボンが汗ばみ、顔から血の気が引いているのが分かる。トイレを探して辺りを見渡すが、商業施設はない。この辺は倉庫街だからな……。
震える手でスマホの地図アプリを立ち上げる。何処か、トイレのありそうなところは……。
やっと見つけたのは歩いて五分ほどの公園だった。駅に行くより遥かに近い。臀部に全神経を集中し、早足で歩く。
「あっ、はぁ……」
何とか間に合った。用を足し、便座の上で脱力する。俺はえもいわれぬ幸福感に包まれていた。しばらく動けそうに──。
──コンコンコンコンッ!
激しいノックが扉を揺らした。なんだ、喧しいな。憩いのひと時を邪魔された俺は怒りを抑えながら、コンッ! とだけ返し、尻を拭おうと紙を引き出す。
コンコンコンコンッ!
「……入ってますよ?」
「急いでもらえますか!? 私、もう限界なんです!!」
うん? おかしい……。ここは男子トイレの個室だ。何故、女の声がする? もしかして俺が間違えて入ったか?
「ここ、男子トイレでしょ?」
扉の向こうに問いかける。
「はいっ! 男子トイレです! あの、早く……」
「いや、女子トイレに行って下さい」
「それがっ! 故障中で入れなくなっているのです!」
人間、追い詰められると大胆な行動に出るものだ。まさか、男子トイレに突撃してくるなんて……。
「だからって、駄目でしょ。男子トイレに来たら」
「肛門に男も女もありません! 早く! お願いします!!」
……肛門に男女はない。確かにそうかもしれない。切羽詰まった女の言葉が胸を打つ。俺は慌てて尻を拭い、雑に流して外に出る。
待ち受けていたのはズボンを半分脱いだ若いOLで、鬼気迫る表情で個室へと雪崩れ込んできた。俺はスッと身を躱す。
吐息と共に排泄音が響き渡り、その後に沈黙がやって来る。
さて、行くか。洗面台で手を洗い、ポケットのハンカチーフを探ると違和感がある。……ない。スマホがない。
──ガガガガガガガガッ! ガガガガガガガガッ!
電子音がけたたましい。これは……うちの鬼嫁に割り当てた着信音。仕事中にかけてくるなんて珍しい。
「あっ、スマホをトイレに忘れてますよー。とりあえず出ちゃいますね」
馬鹿! ややこしくなるだろ!!
「はい、もしもし。あっ、奥さんですか? お世話になっております。えっ、誰だって? それは言えないですけど……。旦那さんですか? ちょっと今はかわれないですね。取り込み中なんで」
紛らわしいことを言うんじゃない!!
「何してるのって? あの、言い難いのですが……トイレで……」
ぉぉぉおおおおおぉおぉ!!
「……そんなに怒らないでくださいよ! 私だって限界だったんですから。仕方ないでしょ? このことについては旦那さんも合意の上です」
合意なんてしてないっ!! いや、したのか!?
「場所ですか? 平和島駅から少し歩いた海沿いの公園の男子トイレです」
言うなああああ!!
「あっ、はーい。では、失礼しまーす」
「……何で勝手にでるんだよ!」
扉越しに女に問う。
「いやー、私コールセンターで働いているんで、電話が鳴るとついでちゃうんですよねー」
「……ちなみに、なんて言ってた?」
「今からここに来るそうでーす。よく分からないですけど、怒ってました」
……終わった。逃げたところで無駄だ。延々と追求される。
水の流れる音がした後、女はすっきりした表情で出てきた。そしてスマホを差し出す。
「はい。忘れ物です」
「……どうも」
「じゃ、私は行きますので! 急がないと仕事に遅れちゃう!」
「……左様ですか」
一人残された俺は、居た堪れなくなってまたトイレの個室に篭った。そしてじっと、審判のノックを待つのだった。