炎と闇と
目を細めると左頬の傷が少しばかり歪んだ。
左右を見渡し怪訝な表情を浮かべる。
取り留めのない、何気ない仕草に不自然なふるまいは見当たらない。
少し困った顔を見せ、口を開いた。
「クックさんとやら、お呼びだ。どこにいる?」
傷の犬人が両手を広げてマッシュを見つめた。
目つきが鋭くならないように柔和な表情を作っているのが逆に胡散臭い。
遠目から見るだけだったら確証は得られなかった、向こうから来てくれるとは眼鏡の奥から愉快な目つきで対峙する不遜な犬人を睨んだ。
「フフフフ、いやぁ、飛んだ三文芝居だな。馬車は燃やされちまったが、懐かしい顔とご対面できるとは嬉しくてしょうがないよ」
「何を言っているのかさっぱり分かりませんね。誰と勘違いされているのですか」
傷の犬人の言葉にハイハイと首を何度も縦に振った、馬車の燃える熱で背中が熱い。
ただ体中の火照りはそれだけが原因ではない、ようやく見つけた探し物に心から熱くなる。
「まあ、いいや。しかし残念だったな、金のなる木が栄養不足で枯れちまうとは。おまえさんもついていないにもほどがある」
「先ほどから何を言っているのか、さっぱりですね。もう二度とお会いすることもないでしょう。さようなら」
黒ずくめの猫人に再び目配せすると踵を返し去って行った。
黒猫が構える刃に馬車の炎が揺れ映る。
クソ!
マッシュに背を向けると顔の傷が歪むほど顔をしかめ、ギリっと奥歯を激しく噛んだ。
鋭い目つきで前だけを見つめ、怒りを鎮めようとひたすらに冷静を務める。
この場から一秒でも早く立ち去ろうと足早に歩を進める姿から余裕は消えていた。
ここで全てを無かったことにする。
遠ざかる馬車の炎に背中の熱はおさまって来ているのに体中を巡る怒りが、傷の犬人の体温を上げていった。
狭く光の届かぬ闇の中を三人は急ぐ。
追ってくる気配はない、窓ガラスを割ってうまくミスリードできた。
小さな体は必死にブックスについて行く。
柔らかな三人の足音だけが響いていた。
「ブックス、後ろは大丈夫だ。少しスピードを落とそう、ローハスがバテちまう」
ブックスは黙ってスピードを落として行った。
焦る気持ちは十二分に分かるがここで終わりではない、先々も考えて行かないと。
「すまぬ」
バツ悪そうにローハスが声を掛けた。
ブックスは立ち止まり振り返る。
「いえ。私も焦ってしまいました。申し訳ありません」
「ふたりとも謝る事じゃない。確実に進んで行こう」
暗闇を進む。
剝き出しの土くれを撫でながら進む。
光が当たらないこの場所。空気は冷やりとしているが、その狭さから息苦しさを感じさせる。
どれくらい歩いたかもわからぬ頃、出口へとたどり着いた。
ブックスが慎重に扉を開き外の様子を伺う。
ランプを持たず外に出るとまた慎重に辺りを伺っていく。
木々に囲まれた街の外れ、その扉は茂みの奥へ隠されていた。
ブックスの手招きにローハスを外へと押し出しヨークも続く。
その瞬間、少しばかりイヤな感じがした。
そういう予感は大概当たる。
カサっと草葉の揺れる音が聞こえた。
ブックスとヨークは一斉に構える。
トンっと地面を鳴らす音と共に獣人やヒューマンが次々に現れ、三人を取り囲もうとしていた。
やられた、木の上に隠れていやがった。
「当たりも当たり、大当たりってやつだ。残念だったなぁ、ブックス、それとローハス。それと、出し抜こうとしやがった猫はおまえだな」
「セロ⋯⋯」
ブックスの呟きに目の前に立ちふさがる犬人が、厄介な存在だとすぐに理解できた。
喜々とした瞳がいやらしく、今にも舌なめずりしそうな口は醜悪に開く。
10人くらいか、ローハスを守りながらこの人数はきついな。
ジリジリと囲みが小さくなってくる。
ブックスが跳ねた。
前触れもなく唐突にセロに向かって一直線に。
虚を突かれ、セロたちは一瞬の硬直を見せた。
「頼む! 行け!!」
ブックスの叫びにローハスの首根っこを掴み、囲みの薄い所をヨークが蹴り飛ばす。
後ろでに遠ざかるふたりの影を感じ、ブックスは口角を上げる。
セロを守るべきかローハスを追うべきか、部隊全体が逡巡し混乱した。
ブックスの作った一瞬の隙。逃す事は出来ない。
セロが我に返る。声を出そうと口を開いた瞬間、ブックスの刃が眼前を掠めていく。
素早い刃の動きに防戦一方となり、声を上げる隙を与えない。
ブックスの作ったこの隙を逃すな。
暗い森の中、ローハスを引きずるように駆け抜ける。
追手の気配はない、力の入らないローハスに思うようにスピードが上がらない。
しっかりしてくれ。
強く腕を引きながらローハスを睨む。
うなだれたまま引きずられている。
「おい! しっかりしてくれ! この隙を逃がしたら次はないぞ!」
特に返事もなく力もなくただ足を動かしている。
クソ! 言い争っている場合じゃない、とにかく進め。
取り囲むヒューマンたちのランプが逡巡する心模様を映すかのように、淡い光が微妙な揺れを見せていた。追うべきか否か、答えが出ぬままオロオロと指示を待つ。
ブックスのナイフがセロの顔を、腕を、掠っては血を滲ませていく。
セロ素早い突きをギリギリのところでかわし、顔を醜く歪ませる。
怒りと恐怖ともどかしさがセロの心を覆いつくす。
「こいつをなんとか⋯⋯⋯しろ⋯⋯!」
やっとの思いで声にした言葉に、ブックスは口角をさらに上げる。
取り囲んでいたランプが、ブックスに向かって一斉に揺れた。
ブックスに向けて次々に刃を向けていく。
弾く刃より肉へと届く刃の数が、圧倒的に多い。
それでもセロに向けて刃を向ける。
向けられる無数の刃を弾いていく。
腕から顔から腹から血が噴き出し、自身を赤く染め上げる。
初めてローハスに手を差し伸べられたときを思い出す。
そうか、もう少しか。
口元から笑みを漏らす。
せめてもう一太刀。
「セローー!!」
最後の力を振り絞り握りしめた刃を向ける。セロの冷ややかな眼差しが、ブックスを捉えた。
無常な片手剣の刃。
慈悲も迷いもなくブックスの心臓を貫いた。
背中まで突き通った刃に両腕は力なく地面へと垂れ、前のめりにゆっくりと倒れていく。
最後までローハスの盾を全うした自負が、穏やかな表情を作らせていた。
「追え! あのふたりを逃がすな!」
肩で息をしながら森の奥を指さした。
森の奥へと続く深い闇が、セロの心に影をひとつ落とす。
このままではロブに合わせる顔がないと唇を噛んだ。
追手が来ない。
ブックス⋯⋯。
遅々として進まない重い足取りに業を煮やす。
今のうちなのに、ブックスが作ってくれたこの時間を無駄にしてはいけない。にも関わらず、ローハスはうつむいたままだった。
深い森はふたりを隠す、それと同時に相手も隠す。
追手が獣人しかいなければ、ランプは要らない。
視線を激しく動かしながらローハスを引きずる。
うん? 風に乗って何かが燃えている臭いが漂ってきた。
なんだこれ?
大丈夫だよな、自分たちのことで手一杯だ。
暗い森はふたりの歩みを遮る。暗い闇を心に落とす。
遠くに仄かな光の点が蠢く。
「ローハス! 頼む、前を向いてくれ。ブックスの思いを分かってやれよ」
もどかしい思いを吐き出す、それしかできない自分が情けない。
蠢く光の点が焦燥感を煽る。
ブックス頑張ったな。その思いを無駄にしてはならない。
必死に足掻くしかない。
重い足でしか森を進む術を持っていなくとも、進むしかない。
うん?
遠目に人とは違う影が見えた。
まだモンスターの出没地域からは離れているはず? こんな所でエンカウントは勘弁してくれよ。
あれは……。
馬か! しかも鞍がついている。
茂みに佇み草をついばんでいた。
静かに近寄り静かに指笛を鳴らす。
ブフっと軽くいななくと指笛の鳴る方へと駆け寄る。
良し!
ローハスを抱えるように騎乗すると深い森に蹄の音を響かせた。